第17話:憤怒
「先輩、どうしたんですか? そわそわして」
俺の隣を歩く琴美が訝しげな表情で訊ねてきた。
「そうか?」
「はい。とってもそわそわしてますよ。何かあったんですか?」
離婚契約を交わした日から一週間が経過した。
相変わらず、俺と楓は夫婦生活を続けている。
「ちょっと楓……あー嫁さんが体調を崩したみたいでな」
「そうですか……そ、それは心配ですね」
離婚宣言してきた相手と言えど、体調不良を訴えられると困るものだ。
熱っぽい表情をし、息苦しそうな声で「ごめんね、役立たずで」と涙ぐまれてしまえば、少しばっかし俺が支えてあげないとダメだと思ってしまうのだ。それが男心とでも言うのだろうか。
騙されているのかもしれない。
だが、このまま放って置けるはずがない。
ここで「あ、もう離婚届出してきたから。お前はこの家から出て行け」などと言う輩は人間じゃない。
「今日は俺の奢りと言ったのに……本当に牛丼でいいのか?」
仕事の休憩時間。
俺と琴美は会社を出て、牛丼チェーン店へと足を運ばせているのだ。
楓が体調を崩しているので、朝ごはんやお弁当がないのは少し寂しい。
「はい。一度食べてみたかったので」
「もしかして食べたことないの?」
「家がちょっと厳しくて」
「もしかして結構なお嬢様なの?」
琴美はギクッと背中を反応させ、慌ただしく手を振って。
「ち、違いますよ!! わ、わたしはお嬢様ではないですよ! 絶対に!」
しーしーと人差し指を上げて鼻先に当てる姿は可愛らしかった。
店内へと二人揃って入り、適当なテーブル席へと着いた。
俺の真正面に座った琴美は「へー」と感心した声を上げる。
店内の様子を楽しんでいるのだろうか。
「何でも好きなものを頼んでくれ」
とは言ったものの、彼女が頼んだのは俺と同じランチセットだった。
並の牛丼と味噌汁と生卵が付いて、その値段は500円。
社会人には勿論、お金が少ない学生にも良心的だ。
「先輩って奥さんに甘いですよね」
「そうかな?」
「はい。勝手に貯金を使われていたんですよね? それなのに」
「あーどうして離婚しないのかって。いや、俺も考えたよ」
離婚しようとは何度も考えた。
だが、その度に堕落嫁の顔が浮かんでしまうのだ。
悪いことを言いながらも、心の中では彼女を愛しているのだろう。
「だけどさ————」
俺がそう切り出すと同時に、注文の品が届いた。
一度遮られてしまうと、こーいうのは言い出せなくなってしまう。
「……牛丼屋さんってこんなに安くて早くて美味しいんですね」
琴美は牛丼の魔法に魅了されたようで、パクパク食べていた。
勿論、生卵を上に掛け、少量の七味を振りかけていた。
辛いのは苦手なのか「先輩、ヒリヒリしますー」と言ってきた。
「醤油もかけちゃうんですか?」
「と言われてもだな……この食い方は変えられないんだよ!」
牛丼の食べ方は、卵かけご飯風にするのが最高に美味い。
最初は味変のためにと途中から醤油をかけていたのだが、次第に「普通の牛丼は牛丼に非ず。卵かけご飯風牛丼だけが牛丼」という思考になってしまった。最近はこの食い方じゃないと満足できない。
「あ、通帳! 家に置いてるんですよね?」
「そうだけど……職場にわざわざ持ってくる奴は居ないだろ」
「でも持ち逃げされるかもしれないけど、大丈夫なんですか?」
「持ち逃げって……。まぁーそれは大丈夫だよ。勝手にお金を使われないように手を打ったし」
「というのは?」
「銀行口座の暗証番号を変更した」
「なるほど。確かにそれをされちゃうと打つ手なしですね」
「あーでも悪いことしたなと思ってる」
「どうして??」
「本当は楓を信じたいのに、こんな予防線を張ってる自分が情けなくてさ」
「仕方ないですよ。でも何度裏切られようと奥さんを信じる先輩はカッコいいです」
仕事が終わった。
重たい腰を上げた瞬間だ。
「今日本屋さんに行きませんか?」
と、琴美から誘われた。
古本屋に寄って本の一冊や二冊ほど買うのも悪くない。
だが、返事は決まっていた。
「悪い。また今度誘ってくれ」
俺は真っ直ぐ家に帰ることにした。
楓が心配だったのだ。
体の調子が悪いと言っていたし。
家に一人で寂しい思いをさせたくないのだ。
「あれ……?」
玄関へと到着。
鍵を開けようとしたとき、異変に気付いた。
ドアが開いていたのだ。
朝、家を出るときにはしっかりと鍵を閉めたはずなのに。
楓は家から出ないと思うし……ど、どうしてだ??
「な……なんだっ……ッ!? う、嘘だろ……お、おい……こ、これはッ!?」
自宅に入った瞬間、目に飛び込んできたのは————。
散乱した物の数々。
家を荒らされたと言ってもいいほどに、ごちゃごちゃになっていたのだ。
靴箱からは靴が全部出され、傘立ては崩れ落ち、玄関前に飾っていた写真立てや花瓶は倒れている。
強盗が入った……?
いや、まさかな。
そんなまさかな……。そ、そんなことはないよな、絶対に!!
「楓ー!? 楓ー!?」
俺は叫んだ。
だが、返事はない。
「う、嘘だろ……」
最悪の可能性が過ぎってしまう。
堕落嫁が見知らぬ誰かに殺され、この家を荒らされて……。
ダメだ、何を考えているのだ。
そんなことは絶対にない。ありえるはずがない。
全力で否定しつつも持っていたカバンを放り投げ、俺はリビングへと向かった。
玄関前よりも余程酷かった。
戸棚から食器は落ちて、破片が飛び散っているし。
大切なものを収納する小物入れは荒らされ、紙切れが破り捨てられている。
テーブルや椅子は倒れているし、ソファーは場所自体が移動している。
視線を動かしていると。
「楓ッ!? だ、大丈夫か!!」
部屋の片隅。
カーテンの近くに白いワンピース姿の楓が居た。
体操座りしていた。体を縮こまらせて、震えているのだ。
すぐさまに彼女の元へと駆け寄った。
衣服が乱れていた。所々、破れていた。
「…………」
言葉を掛けたものの、楓は黙り込んでいた。
ただガクガクと震えているだけだ。
俺は屈んで、彼女の肩に両手を置く。
それからゆっくりと優しい声で。
「何があったんだ? 教えてくれ!」
事件性があることならば、警察に連絡しなければならない。
家を荒らされたし、楓自身をこんなにも傷付けられてしまっている。
このまま黙っていられるはずがない。
「自分の胸に聞いてみて」
返ってきた言葉は予想外だった。
「はい?」
楓は俺の手をバシンと叩いてきた。
それから鬱陶しそうに俺が触れていた部分——肩をはたきながら。
「自分の胸に聞いてみて。どんなことをしたか?」
考えてみたけど、何も出てこなかった。
「イジワルしたよね? またしらばっくれるんだ。もう本当ありえないッ!?」
彼女の近くには紙屑が落ちていた。
何かと思っていると、銀行の通帳だった。
通帳を普通の紙切れみたいにぐちゃぐちゃにしているのだ。
と言えど、そう簡単に曲げられるはずもなく、少し折り曲がっただけなのだが。
「暗証番号か?」
「そうよ、イジワルして。何を独り占めしてくれてるの?」
「お前に任せられないからな。これからは俺が管理する」
「そのお金が稼げたのはわたしが居たからでしょ? それなのに勝手に番号を変えて」
「もうお前がギャンブル中毒にならないためだろ」
「裏切り者ッ!? わたしたち……夫婦でしょ? こういうときこそ、一緒に支え合って生きていかなければならないときでしょうが。そ、それなのに……そ、それなのに……どうしてこんなことするの?」
相手の罪悪感を掻き立てる作戦だな。
それっぽい言葉を並べて、同情させようとしているのだ。
だが、騙されない。
「なら、お前は何のために通帳を持って家を出たんだ? どうせまたパチンコにでも行く予定だったんだろうがぁ!! そうだろ、そのくせに……何が支えあってただ。俺と約束したよな??」
「息抜きじゃない。それさえも許してくれないの?」
「最近体調が悪いとか言ってたけど?」
「イライラが止まらないのよ。もう回したくて回したくて……音が鳴り止まないのよ。我慢しても我慢しても無理だった。辺りのモノに感情をぶつけちゃって」
警察沙汰にする必要はなさそうだ。
だが、これは重度だな。
今だって、スロットをしているつもりなのか、楓の人差し指は動いているし。
「だからね、さっき打ってきたの……とっても楽しかったわ。負けたけどね」
どっちにしろ、我慢できなかったのかよ。
ここで耐えていたら持ち堪えたんだなと褒めていたのに。
「……お、お金はどうしたんだ? そんなもの持ってないはずだろ?」
その言葉を待っていたかのように、楓は「ふふっ」と微笑んだ。
「海斗くんが大切にしてたあの汚ったない本全部売り飛ばしてお金に換えたの」
「……はぁ??」
「ずっと前から買い集めてたでしょ。文豪が残した作品は素晴らしいとか言ってたじゃん」
俺の趣味は古書集めだ。
大学時代に文豪作品に魅了され、それ以来買い集めていた。
値段はピンからキリまであるが、贔屓の作家が居れば後先考えずに買ってしまってたな。
「……う、うそだろ……お、お前……あ、アレを全部売ったのか?」
他人から見れば汚れた作品だと思われても仕方がないかもしれない。
それでもあの作品達は今の俺を形成しているのだ。体の一部と言ってもいいかもしれない。
「海斗くんが悪いんだよ、勝手にお金を下ろせなくしたから。自業自得だよ」
笑うしかなかった。
笑うことでしか、この状況を乗り越える術を持っていなかった。
ただ笑って、笑って、笑い疲れて。
それから俺は堕落嫁を睨みつけながら。
「もう……終わりだ。お前と俺の関係はここでおしまいだ。はい、もう疲れたよ、俺は」
「うわぁー出ました。メンヘラ男とかマジでキモいし、こっちが疲れるだけだから」
「あのさ……お前一つ勘違いしてないか?」
「勘違い?」
「あーそうだよ。俺はいつでもお前の目の前から消えることができるんだぞ?」
「どういう意味? 何が言いたいわけ?」
「俺が消えたらお前自分一人で生きていけるわけ?」
「できるに決まってるでしょ。子供扱いしないで」
「それならこの家から出て行け。もうお前の顔など見たくない。さっさと消えろ」
「出て行くのはそっちでしょ! この家はわたしのでしょ。普通に考えて!」
「それならお前が残りのローンを全部返済できるのか? それならお前に明け渡すが」
「そ、それは……あ、もういいわ。そっちがその気ならもう実家に帰らせていただきます!」
「あーどうぞ。ご自由に。もう二度とこの家に戻ってくるなよ!?」
「……よ、呼び止めないの……?」
「呼び止める? バカじゃないのか? さっさと出てけよ。この堕落嫁がァ!?」
「…………言いつけてやる。絶対に……絶対に……言いつけてやるんだから」
「勝手にしろ。もう俺たちは終わりなんだからさ」
「……罵倒……度重なる罵詈雑言……こ、これはDV!? 言葉の暴力!?」
「もうそーいうの面倒だから、さっさとまとめて出てけ」
立ち上がった堕落嫁は俺の前を素通りして、自分の部屋へと向かった。
俺は辺りに散らばったコップや皿の破片を片付けることにした。
暫くすると、実家に帰る支度をしてきたのか、スーツバッグと大きな鞄を持った堕落嫁が現れた。
「今までどうもお世話になりました。慰謝料を覚悟しておきなさい。今更謝っても遅いからね」
「あーどうもこちらこそ。お前のお世話は大変だったよ。じゃあな、もう二度と戻ってくるなよ」
「そのつもりよ。次は法廷で会いましょう!! 泣いて謝って来てももう許さないんだからね!」
どこからその自信は来るのか。
堕落嫁は調子の良い言葉を吐いて、この家から出て行くのであった。
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