第16話:優良物件
突然の死ぬ発言。
手には包丁を握りしめ、ぷるぷると震えている。
刃先は自分ではなく、何故か俺の方だ。
以前から突拍子もないことを言い出す奴だった。
だが、今回ばかりは悠長にすることはできなさそうである。死人が出ては困る。
目覚めが悪いのは嫌なのだ。
「死ぬとか言うなよ」
「なら謝って!! 今すぐに!!」
「謝るって何を? 俺が何かしたか?」
「したわよ。気付いてないの? 自分の都合が悪くなったら、離婚だの言い出してきて。わたしたちの関係ってそんなものだったの? 違うでしょ!」
都合が悪くなったら、ごちゃごちゃ喚くのはどっちだと言ってやりたい。でもこれ以上ヒートアップすると、何をしでかすか分からない。
心中を迫られるかもしれん。それは絶対嫌だ。
「悪かった。俺が悪かった。だから刃物は」
「信じられない。今まで騙されてきてたし」
「騙されてきた??」
「普通の夫なら妻を信じるものでしょ。それなのに……探偵なんかを雇って陥れてきて。もう最低! やりかたが汚いのよ! 男なら真っ向から!!」
「そんなことしても、どうせ証拠を出せとか言ってくるだろうが。そのくせに何だ、その言い方は!」
「逆ギレしないでよ!! どうして素直に謝れないの? レディファーストって言葉を知らないの?」
「何がレディファーストだ。ていうか、俺を悪者扱いするな。元はと言えば、お前が原因だろうが!」
「少しだけじゃない。ケチね」
「貯金がガンガン減ってるんだぞ。俺が頑張って働いてきたお金が!!」
「なら、もっと出世すればいいでしょ?」
「違う! お前が我慢すればいいんだよ!」
「責任転嫁ですか?? 自分は悪くないの一点張りですか? それで気が済むなら、どうぞご自由に」
「そうさせてもらうって言ってんだろ。離婚だ!」
「…………それは認めないから」
「あのさー何? お前は離婚したくないのか?」
「そうだって言ってるじゃん。離婚はしない」
「却下だ」
その言葉を聞き、堕落嫁は「ふふっ」と微笑む。
それからギュッと包丁を掴んで、俺へと刃先を向けたままに。
「なら、殺す。一人だけ幸せになるとかズルい」
逃げ場は何処にもない。
小さな部屋の中での鬼ごっこ。
捕まるのは時間の問題。
一度、当たれば致命傷だ。
立ち向かうしかない。
逆に逃げ出して、背中を見せるのは危険だ。
辺りを見渡す。
ソファーの上にあるマカロン型のクッション。
これなら……大丈夫かもしれない。
獲物を見つけた肉食獣のように堕落嫁は迫ってくる。
最初は浮足気味だった。
だが、殺せると確信したのか、彼女は勢いよく駆け出してきた。
「――――ッ!!」
「残念だったな。俺は死なないよ」
無駄にデカいクッションのおかげで、俺の体は傷付かなかった。
油断は禁物だ。
一発目は防いだものの、次の一手が繰り出される可能性があるからだ。
素早く刃物を叩き落とし、足で蹴り飛ばす。
無事に安全確保。もう刺される心配はなくなった。
「……うう……ぅぅ……ど、どうして……?」
「お前の負けだ。もう諦めろ」
「あ、あ、諦めない……ぜ、絶対に……わ、わたしは……」
「どうして俺に固執するんだ?」
「す、好きだからよ……す、好きだから……か、海斗くんのこ、ことが……」
目線は合わせてくれないものの、本気で好きなんだと言うのは分かる。
だが、何か不自然な感じがするのはどうしてだろうか。
俺は見落としているのだろうか。
何はともあれ、離婚するのだ。関係ない。
「お、お願いします……お、お願いします……わ、わ……別れないでください」
堕落嫁が土下座してきた。
普段では考えられないことだ。
この女が、この堕落嫁が人様にしっかりと頭を下げてくるなんて。
「今更言われても困るんだが。俺はもう別れたいんだ」
「やだ……そ、そんなの……み、認められない……認めないッ!?」
ズボンの裾を掴まれたものの、振り解いた。
「貯金を勝手に使われるし。問い詰めたら死ぬとか言い出すし。挙げ句の果てには殺されかけたし」
「反省します……お、お願いします……一回だけ……ちゃ、チャンスをください」
「チャンスをくれ? 今まで俺は何度もチャンスを与えてきたつもりだぞ」
「今回だけ。特別に……お、お願いします。もう悪いことはしないから」
何度も何度もお願いしますと頭を下げられると、段々と自分の方にも罪悪感が湧いてきた。
相手は俺の嫁だ。
ギャンブル中毒者だったけど、浮気をしていたわけではない。
他の男と付き合っていたなどであれば、有無も言わずに別れていただろう。
だが……今回はギャンブル。それも中毒性が高いパチンコだ。
「分かった……わ、分かったよ。特別だぞ」
「……あ、ありがとう……ありがとう……」
「ただこっちにも言い分がある。今後はお金を勝手に使うな。約束だ」
もしも、と呟きながら、俺は目元を赤くしている堕落嫁に手を伸ばした。
「一回でも約束を破ったら、即刻に離婚だ。その条件が守れるなら握れ」
堕落嫁の解答は勿論決まっていた。
「分かった。約束する……ぜ、絶対に……もう勝手に使わない。約束する!」
目尻に涙を浮かべて、決意に満ちた声で言った。
返事だけは良いのだが、もう表情はケロッとしてやがる。
「海斗くん、ちょっとだけ待ってて!」
そう言うと、堕落嫁はA4サイズの紙とペンを持ってきた。
テーブルの上で何かを書き始めて、少しばかり経ってから。
「はい!! これで良いでしょ??」
契約書だった。長ったらしい文章だ。
要するに『楓が勝手にお金を使わない限り、俺が離婚宣言しない』ということだ。
「サインして!!」
「その前に……お前からここに名前を書き込んでもらおうか?」
俺が取り出したのは、離婚届。
相手側の契約書は何の役にも立たない。
でも、俺のは公的な書類でもあるのだ。
「名前を書き込んで役所に持っていくとか言わないよね?」
「そこまで俺は鬼じゃない。約束を守る限り、持ってくつもりはない」
「分かった……し、信じる。こ、今回だけは……ならせーので書こう」
お互いの書類を交換し合い、それから名前を書き込んだ。
破り捨ててくるかもと思ったので、厳重に注意した。
だが、そんな素振りを見せることはなかった。
これで一件落着。
そう思っていたのだが、楓はポツリと小さな声で呟いてきた。
「海斗くん……これ以上わたしを怒らせないほうがいいよ」
「どんな意味だ?」
「言葉通りの意味。わたしの幸せを壊そうとするなら容赦しないからね」
わたしの幸せ……?
一体どんなものなのだろうか??
さっぱり分からない。
「隠れてパチンコに行こうと思うなよ。すぐにバレるんだからな」
「うん。行かないよ。だって、こんな優良物件を離すわけがないでしょ?」
優良物件??
戸惑いの表情を浮かべる俺に対して、堕落嫁はふふっと笑みを漏らして。
「一生逃さないんだからね……逃げられないよ。どこに行ってもね」
先程までの反省してます感はどこへやら。
もう、勝者の笑みへと変わっていた。
—————————
残り3〜4話で完結予定。
ただ話数的には20話完結が望ましい。
なので、残り4話が有力かもしれない。
ここから先は平日黒髪ワールド全開で書く予定。
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