培養肉の責任論
培養肉がNHKで取り上げられてる。そんなのが出回ったら食に対するありがたみがなくなる。それがどんな不幸を生み出してしまうのだろうか。
命を命で繋ぐ習慣がなくなってしまうことに不安を感じる。まさしく人間とは何かを問われる問題だと考える。私達は動植物の命を頂きながら生きている。ヒトというのは食物連鎖の頂上にいる。完全に私の持論だが、トップには重い責任がある。今まで殺して食べてきた動物や植物に対してだ。
例えば、私が一頭の牛を食べたとする。牛を殺して食べたなら、その牛の分まで生きる責任がある。牛は沢山の牧草を食べて育ったかも知れない。牧草はそもそも子孫を残したかったはずだが、あえなく牛に食べられてしまった。牛は牧草に対して生きる責任があった。ところがその牛は人間に殺された。では、人間が牛が牧草に対して負った責任を引き継がなくてはならない。
この責任論は私たちがなぜ生きるのかも説明できる。『今までに頂いた命の為に生きる。』これは1つの大きな生きる意味となりうる。
しかしどんなタフガイでもやがては死ぬ。それで全責任を全うできたと思うならそれでいいだろう。そうでないとしても、その責任は子孫や他の人に引き継ぐこともできるのではないだろうか。ウラを返せば、今まで死んだ友人や我々の先祖の責任を我々がもっているということもできる。決してひとりで背負うことはできない。生きている皆で全うすべき責任である。先祖に感謝したり、他の人を助けようとしたりするのはそういうところから来ているのではないだろうか。
さて、培養肉の技術によって牛を殺さずに食べられたとする。百億人で分けて食べる。きっと多くの人が飢餓から救われるだろう。皆その技術革新に感謝するはずだ。しかし問題がある。命に対する責任は生じない。命を大切にする必要もなくなってしまう。もう他人を助ける必要もなくなる。食物の価値がなくなることで、人としての価値がなくなってしまうようにも感じる。人を生かす為に発達した技術が結果的に人を殺すことにならないことを祈る。
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