もう戻れないのだから

イチカは息も絶え絶えにギスタのカタパルトへ帰還した。腕と脚は無駄に力み過ぎていたようで、思うように力の入れ抜きができない。操縦桿を握る手とペダルを踏んでいた足は小刻みに震えており、まるで生まれたての子鹿のようだ。感覚も鈍い。体中汗まみれで顔に張り付く髪が鬱陶しい。


ベニのトリニティを破壊してからの記憶は曖昧で、どうやって敵戦艦を撃墜したか詳細は覚えていない。ひたすら無我夢中に敵戦艦を落とすことだけを考え、攻撃をし続けていたことだけは感覚が覚えている。アキトからの『帰還命令だ』という言葉が鮮明な直近の記憶だ。目下、敵戦艦の残骸が山の中に埋もれていたので、撃墜に成功したことは確かなようだが。


イチカはヨンゴをトリニティ専用台にのせるとシステムをスリープモードにする。コックピットは暗くなり、以前ナナミとの緊張感あるやりとりがあった環境と同じものになる。あれからまだ数時間しか経っていないのか。随分と遠い昔のように感じる。


イチカはシートベルトを外すと全身の力を抜きシートに体を預けた。両手を目の前に持ってくるがまだ震えは止まらない。今日だけでこの手は何人を殺めたのだろう。イチカは思わず自分の顔を覆った。視界が伏せられたことで、専用台に運ばれている振動がより明確にイチカの体に伝わる。


暗闇の中、イチカの頭には自分が攻撃した光景が走馬灯のように上映されていた。N-50、ベニのトリニティ……あ、トリニティにベニが乗っていたということは、他の4機にもアカデミーの生徒が乗っていたかもしれないのか。通信が繋がっていなかっただけで、彼らも悲痛な断末魔を上げていたのかもしれない。

なぜか考えなくてもいいことを悪い方、悪い方へと考えてしまう。これは良くない流れだ。自己嫌悪が止まらなくなるやつだ。考えるな。思考を止めろ。


イチカは思考を止めようとするが、なかなか止めることができない。しばらくして、自分の理性を凌駕し思考が動いていることに気づく。脳が覚醒し興奮しているのだ。同時に体も芯が火照るような、性的興奮にも似た熱さを持っていることにも。

心が感じる感情と脳と体が感じている状況のギャップに、イチカは更なる嫌悪感を覚える。


……とりあえずシャワーでも浴びよう。


いつの間にかヨンゴは整備位置に静止していた。イチカはコックピットハッチを開けると、言うことを聞かない脚を奮い立たせて、これまたいつの間にか設置されたタラップに降り立った。手すりに捕まりながらゆっくりと階段を降りる。宇宙空間であれば無重力の中、もっと楽に移動できるのになと思いながら。


「イチカ、おかえり〜!」


3階ほど下にあるギスタの床に到着するやいなや、ナナミが駆け寄ってくる。そして駆け寄ってくる勢いのまま超至近距離まで顔が近づき、目の奥の奥までのぞき込まれそうなほど凝視される。


「…よかったぁ。壊れてなくて!」


ナナミは何かに満足した様子で顔を離す。

出撃前は気に入らなければ整備不良を起こすだの言われたが、この調子なら大丈夫そうだ。

イチカが安心したのも束の間、ナナミは屈託のない笑顔でえげつない質問を投げかける。


「それでどう?初めて人を殺した感想は?」


頭を鈍器で殴られたようだった。分かってはいたが、他人から改めて現実を叩きつけられる衝撃は想像以上に堪えるものだった。


「っ…ぁ……」


何か言おうにも喉に何かがつっかえたように何も言葉が出てこない。そんなイチカにナナミは恍惚を含ませた目を細めてイチカの頬を撫でた。


「もうイチカ、そんなかわいい顔しないでよ。せっかくナナミも我慢してるんだから」


ナナミはイチカの頬にキスをすると、そんじゃ整備してくるねぇと走り去っていった。残されたのは呆然としたイチカだけ。


イチカはしばらくその場を動けずにいたが、ノロリと歩き始める。ロッカールームにつき、パイロットスーツを脱いでそのまま隣接するシャワー室へ。頭から熱い湯を浴び、その湯が排水口に流されるのを何故かぼうっと見てしまっていた。そして、先程ナナミから言われた質問を思い出す。


人を殺した感想?そんなもの……


「殺したく、なかったっ……!」


イチカの目から涙がこぼれ、シャワーと一緒に流れていく。一度言葉を発してしまったら最後、ぼろぼろと涙はこぼれ、最初は小さかったその嗚咽は徐々にシャワーの音で隠せないくらいのものになっていた。


今日だけでいくつもの死に際に歪む顔を見た。それらは呪いのようにイチカの頭にこびりついて離れない。悲痛な叫び、恐怖に見開いた目、それらを無慈悲に焼いてしまった自分。彼らの人生を奪ったのは何者でもない、自分自身という現実が重くイチカを蝕んでいく。


この水たちのように洗い流れてくれたらどんなに楽だろう。あまりにも重い。他人の死を背負うとはこれ程までに重いものなのか。


他に誰もいないシャワールームに虚しく嗚咽が響きわたる中、艦内放送が流れた。


『ギスタはこれより出港する。10分後には艦内全域無重力となるため各員準備。なお、キリシマ少佐はミーティングルームAへ』


……私は軍人になったんだ。こんなところで泣いてはいられない。行かなければ。


イチカは奥歯をギリッと噛みしめるとぐしゃぐしゃだろう自分の顔をゴシゴシと洗った。いつの間にか指先は体温だけは取り戻して感覚が戻っている。イチカはグッと手を握りしめると、身支度もそこそこにシャワールームを後にした。

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