第12話 明確な悪意

 ただ俯き、溢れ出てきそうになる涙をこらえる。


 実家にいた頃は、泣いたことなど滅多になかった。なのに、ここに来てから私は泣いてばかりだ。


 ……弱くなったのか。はたまた、幸せを覚えてしまったからなのか。


(いいえ、それはとてもいいことのはずよ。感情を殺さずに生きていいと言うことだもの)


 自分自身にそう言い聞かせつつ、私は顔を上げ、アネット様を見つめた。


 彼女は、その真っ赤な目をぱちぱちと瞬かせる。しかし、すぐににんまりと笑われた。形のいい唇が、露骨に歪められる。


「あぁ、財産目当てなのね」

「……え?」


 アネット様のお言葉に、今度は私がきょとんとする番だった。


「ど、どういう……」

「だって、そうじゃない」


 どういう意味なのか。そう問いかけようとしたものの、アネット様はうんうんと頷く。


 そして、自身の手をパンっとたたいていた。


「貴女みたいな年若い娘が、三十を過ぎた男に嫁ぐなんて、そうじゃないと考えられないものね」


 まるで決めつけたみたいだった。私は本気で旦那様のことを好いている。だからなのか、そう言われたことにカチンとくる。


 でも、アネット様は私に反論は許さないとばかりにぺらぺらとお話を始めた。


「だけど、残念ね。若さで取り入ったのならば、無駄よ。だってそうじゃない、年齢を重ねれば若さは失われる。それすなわち、捨てられるということよ。それとも、自身の子を次期辺境伯にでもするつもりなの?」

「ち、ちがっ……」

「違わないわよ。リスター伯爵家の親族がそれを許すとは思えないもの」


 ゆるゆると首を横に振って、アネット様は挑発的に私のことを見つめてきた。……ずきん。確かに、心が痛んだ。


「アネット様! 奥様にそういう口をたたくことは……!」

「もしかして、サイラスも篭絡されてしまったの? ふふっ、罪な子ね」


 アネット様がサイラスの頬を軽くつつきつつ、そういう。サイラスはその手を振り落としたものの、アネット様は特に気にも留めない。


「この家の使用人は優秀だと思っていたけれど、こんな小娘一人に篭絡されてしまうような愚図の集まりだったのね。……あぁ、期待して損したわ」


 ただ淡々と続けられるアネット様の中傷。私のことを悪く言われるのは、この際構わない。けれど、ほかの人を悪く言わないでほしい。そう、強く思って。


「あ、あのっ!」


 正直なところ、私はアネット様が怖い。こんなにも露骨に悪意を向けられることに、慣れていないからだ。


 お父様やお義母様の悪意には慣れていたから、そこまで思わなかった。エリカの悪意は可愛らしいものだった。


 対する、アネット様はどうだろうか。……完全な悪意に満ちていた。


「私のことはお好きにおっしゃってくださいませ……! ですが、みなさまのことを悪く言うのは、許しません……!」


 震える声でそう言うと、アネット様は一瞬だけぽかんとしていた。


 なのに、すぐにけらけらと笑い始めた。……その笑みは、とても不快だった。


「いい子ぶっているのね。……そりゃあ、みんな篭絡されてしまうわよね」


 はぁ。


 露骨にため息をついたアネット様は、私に視線を向けてくる。その視線はとても鋭くて、まるで私を刺し殺そうとしているかのよう。


「ギルバートに伝えておきなさい。……私が、この小娘の本性を暴いてあげるって」


 アネット様が、私を見下す。彼女の方が背丈が高いのでそれは当然なのだけれど、何となく悔しい。


「奥様……こんなお言葉、気にしないでくださいませ」


 近くにいた年若いメイドが、そう言ってくれる。……そう。そうよね。


 そう思うのに、胸がもやもやとして、グサグサと傷つけられているような感覚だった。


「それにしても、ギルバートは何をしているのかしら? この私が直々に会いに来てやったというのに……!」


 しばらくして、アネット様がそう言いだした。サイラスなんて、人を殺せそうな表情をしている。……あまりにも、横暴だからだろう。


「旦那様は、こちらにいらっしゃいませんよ。……そもそも、あなたさまに会う理由などないでしょう」

「あら、愛し合った元婚約者の出迎えも出来ないの?」


 ころころと。人の気に障りそうなほどに甲高い声でアネット様が笑われる。


 さすがに、そろそろ誰かアネット様に文句を言いそうだ。そんな空気を肌で感じ取って、私は何とか使用人たちを宥める方法を考える。……しかし、何も出てこない。


(このままだったら、アネット様に言われたい放題だし……)


 元々あまり調子のよくない中、こんなことになってしまった。普段の私ならばしっかりと考えられたのに……と思う半面、これでよかったとも思う。だって、もしも普段の調子だったら、アネット様のことを平手打ちしてしまったかもしれないから。


(そうよ。これで、よかったの。私一人が耐えれば、いいのだもの……)


 自分自身にそう言い聞かせ、ワンピースの裾をぎゅっと握ったときだった。


 私の肩が、ふと誰かに引き寄せられる。その後、そちらに視線を向ければ――。


「……旦那様」


 そこには、ほかでもない旦那様がいらっしゃった。

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