ジョンソン長官

 ジョンソン長官はすぐにはその意味を理解することはできなかった。

 音声としてはたしかにその波形はジョンソン長官の鼓膜に達していた。しかし彼はその信号から意味を汲みとることはできなかった。

 彼は顔を上げてしばらくウィスラー総統の方を凝視していた。しかしその視線は、無機質に立ちはだかるウィスラー総統の大きな椅子の背もたれに虚しくさえぎられるばかりだった。

 ジョンソン長官は、まるで飼い主の無意味な指示にも無条件に従ういたいけない犬のように従順な様相でたたずんでいたが、さすがに確認せずにはいられなかった。

 「ウィスラー総統…。いったいなんのことでしょうか…『次はきみの番だ』とは…。ま、まさかわたしに味覚検査を…」

 「ジョンソン長官。きみにしては愚問だな。ほかになにがある。われわれは今モノポリーでもしてるわけではない」

 「し、しかし、ウィスラー総統…、な、なぜわたしが?わたしはこれまでの検査で常に陰性であることは、ウィスラー総統もよくご存知のはずです。なぜこのわたしがあらためて味覚検査など受けなければならないのでしょうか?」

 「ジョンソン長官…」

 ウィスラー総統は抑制された口調で重々しく答えた。

 「フレドリックも同じことを言わなかったか?」

 ジョンソン長官は愕然とした。

 そして気が遠くなりかけ、その場に倒れこみそうになったが、彼の調教された肉体はそれを許さず、直立したまま立ち尽くしていた。

 ほどなく入り口の扉が静かに開き、机と椅子がすみやかに運び込まれた。係員はみな防護服を着てマスクとフェイスシールドを着用している。

 机の上に皿に乗ったビーフステーキが置かれた。まさにフレドリックのときと同じである。

 「さあ、かけたまえ。ジョンソン長官」

 ウィスラー総統は冷静に促した。ジョンソン長官は反射的に指示に従った。

 しかし目の前に置かれたステーキをまじまじと見たとたん、命令には絶対服従のはずのジョンソン長官でさえ、その状況に抵抗を覚えざるをえなかった。それは彼が若い頃に抱いた組織への不満や違和感、あるいは、もはや完全に忘れさっていた正義を貫く、ささやかな反骨の精神をかき立てる結果となってしまったのだった。

 「なぜですか!ウィスラー総統!わたしはこの危険な状況下で、この身を犠牲にしてウイルスと戦っています!それはすべてウィスラー総統、あなたを信頼してるからに他ありません!あなたもこうしてわれわれと同じように、現場に留まって指揮にあたってくださっている。それがどれほど励みになっていることか!わたしはそんなあなたに全幅の信頼をよせているのです!それは忠誠心の源です。それなのになぜ、そんなわたしに、このような仕打ちをするのですか!」

 それはジョンソン長官の渾身の心の吐露だった。それでもウィスラー総統は特に呼応することもなく、なおも後ろを向いたままだった。

 「なぜずっと後ろを向いたままなのですか?こちらを向いてください!わたしに向かいあってください。わたしの思いを真っ正面から受け止めてください!」

 ウィスラー総統は無感情に答えた。

 「ジョンソン長官。きみのわたしへの忠義はよくわかっている。しかし、それはウイルス感染拡大の防止とは無関係だ。いや…、むしろきみのその人並外れた忠誠心が、冷静な判断を狂わすことにもなりかねないのだ」

 ジョンソン長官はまるで捨てられた子犬のように、状況を把握できないままウィスラー総統を一心に見つめていた。ウィスラー総統は淡々と続けた。

 「ジョンソン長官。とにかく試してみたまえ。それが今きみの選べる唯一の選択肢だ。なにもためらう理由はあるまい。きみがこれまで陰性の結果を出し続けてきているというのなら」

 ジョンソン長官は脱力したように肩を落とした。そしてまたあらためて目の前のステーキをじっと見つめた。

 なんの変哲もないステーキ。しかし今の彼には、なにか恐ろしい怪物の肉塊のようであり、決して口にしてはいけない禁断の物体のように映っていた。

 「ジョンソン長官。まだためらうというか?ならばあらためて言おう。わたしはきみにお願いをしているのではない。これは『命令』だ」

 もはやジョンソン長官に反論の余地はなかった。

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