ウィスラー総統

 その一言で「国民のためだ」といったジョンソン長官の言葉は嘘になった。実際は、すべて組織のため、上には逆らえないという保身のためだったのだ。

 しかしフレドリックはそれ以上なにも反論はしなかった。フレドリックはもう年齢的にも血気盛んな若者というわけではない。ウィスラー総統を引き合いに出して、自身の責任を他に転嫁しようとするジョンソン長官の態度に辟易したとしても、上からの指示に板ばさみとなっているジョンソン長官の境遇を察することぐらいはできる経験値は十分に持ち合わせていたからだ。

 一方でジョンソン長官もフレドリックがそういう配慮をする人間であるこはよく知っていた。それほど長く共に働いてきた仲だった。しかしそれがわかるからこそ、ジョンソン長官はなおさら心を痛めていたのだった。

 「この出口の見えないウイルスの蔓延と、それに伴う医療崩壊。死体の山。経済活動の停滞。失業者であふれかえる世界の国々。誰もが自由な明日を夢みながら、目に見えない敵、ウイルスをおそれ、なにかと疑心暗鬼にとわられ、行動を自粛し、お互いに監視しあい、ときには正義の名の下にののしり合う人々。悪いのはすべてこの新型ウイルスだ。突然われわれの前に現れて平穏な日常をまたたくまに奪い去ったウイルス。そして、無情にもそのような試練を人類に与える無慈悲な神。すべてはそのせいにほかならない」と、ジョンソン長官は心の中で自分にそう言い聞かせるしかなかった。

 係員がビデオカメラのメモリーを抜き取りジョンソン長官のもとに運んだ。ジョンソン長官はそれを受け取ると、あらためて気持ちを引き締めるかのように大きく肩で息をつきスーツの襟を正した。

 「ではあとは頼む」

 そう言って、横にいた付き人の肩をポンとたたき、フレドリックの対応を委ねた。

 監視室から出たジョンソン長官が向かった先はウィスラー総統の部屋だった。


 部屋の入り口にあるカメラの前に立つと、即座に顔認証と体温測定が稼働した。カメラの下に一体化されたモニターには入室可能のサインが表示され、部屋の扉が自動的に解錠された。

 ジョンソン長官は入り口のわきに備え付けられた消毒用アルコールを手にまぶし、あごにひっかけていたマスクを鼻の上までかけ直して総統室に入った。

 「失礼します。ジョンソンです」

 薄暗い部屋の中で、アクリル製のパネル越しに、ウィスラー総統は後ろを向いた状態で椅子に座っていた。ジョンソン長官からは椅子の大きな背もたれしか見えなかった。

 「ウィスラー総統。フレドリックの検査を実施しました。検査の録画データもお持ちしましたがご覧になりますか?」

 「いや、いい。で、結果は?」

 ウィスラー総統は後ろを向いたまま尋ねた。

 「味覚は失われていました。ウィスラー総統の懸念の通りかと」

 「そうか」

 ウィスラー総統の返答はその一言だけだった。

 ジョンソン長官はウィスラー総統の次の言葉を待った。「『やはりそうか。わたしの思った通りだ。ジョンソン長官、きみも腹心のフレドリックに予期せぬ疑いをかけるのはよっぽど辛かっただろう。しかしよくやってくれた。これでウイルスのエピセンター(震源=感染源)を一つでもつむことができたわけだからな』などと、ねぎらいの言葉が続くに違いない」と期待していたのだ。

 しかし「そうか」という無感情な一言だけで、その余韻もとっくに消え去るほど、ウィスラー総統の沈黙は続いた。

 軽く頭を下げた状態でジョンソン長官は待っていた。従順なしもべであるジョンソン長官はひたすら待つほかなかった。それは彼の意思がそうさせているわけではない。身体がそのように教えこまれていたのだ。

 しかしジョンソン長官はかすかな違和感を感じていた。なにかがいつもと違う。部屋の中は空調も機能していないと思われるほど空気が淀んでいる。ウィスラー総統のテーブルの上にはお気に入りの葉巻きやブランデーも置かれていない。

 そしてなにより、いつもウィスラー総統のそばを離れない秘書官やSPの姿も見えない。ジョンソン長官は思わず尋ねた。

 「秘書官らがいないようですが…」

 「ジョンソン長官!余計なことは詮索しなくていい」

 ウィスラー総統は声を上げ、ジョンソン長官の言葉をさえぎった。

 「はっ。申し訳ありません」

 ジョンソン長官はすかさず頭を深く下げて謝罪した。

 それでも内心、ジョンソン長官にはふに落ちない部分はあった。しかしそのようなくすぶる感情が意識化される前に、それはまるで最初からなかったかのようにかき消された。長年にわたりそのようなメンタリティを刷り込まれてきたからだ。

 ジョンソン長官にとっては唯一の上司であるウィスラー総統。総統に対してはもはやなにも抗う余地はない。しばらく沈黙を受け入れるしかなかった。

 暗い部屋で、ウィスラー総統には天井の左右の明かりがスポットライトのように差し込んでいる。薄い緑、青と黄色が入り混じるその光の中を、ゆっくり舞い上がっていく細かい埃だけが動いて見えた。それは不思議なほど審美的に輝き、まるで火を灯した無数の紙灯籠が夜空高く舞い上がる様子を眺めているかのようだった。

 そしてジョンソン長官の意識が思わずそのような幻想に吸い込まれそうになったそのときだった。

 「ジョンソン長官」

 ようやくウィスラー総統が口火を切った。

 「次はきみの番だ」

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