味覚

今居一彦

フレドリック

 「どうだ、フレドリック。味はわかるか?」

 フレドリックは暗闇にポッカリと浮かんだライトを見上げた。しかしそのあまりの眩しさに思わず顔をそむけた。同時に、不用意に光に目を向けた自分の愚かさに後悔した。

 「ジョンソン長官。ライトの光を弱めてくれませんか?これでは目がくらんで…」

 「わかった。ちょっと待ってくれ」

 ジョンソン長官は手振りで係りに指示して、ライトの光を弱めた。フレドリックはしばらく両まなこを指で押さえてから、ゆっくりと慎重に目を開けた。目の前には光の残像がチラチラしているのか、まだしきりにまばたきをしている。

 フレドリックは取調べ室のような暗い部屋に一人で座らされていた。目の前のテーブルの上にはビーフステーキが一枚皿に置かれている。テーブルの向こうには昔の8ミリカメラのような仰々しいカメラがセットされ、フレドリックの振る舞いを終始フィルムに収めている。ビデオカメラは冷徹なたたずまいの中にも、ライトに反射した金属の光が静かに存在を主張していた。被写体の言動を漏れなく記録するという使命と熱意を感じさせるかのようにも見えた。

 ジョンソン長官がフレドリックに話しかけたのは、フレドリックが薄く切ったステーキを一切れを口に入れた、まさにその直後だった。


 ジョンソン長官は隣の部屋から大きなガラス越しにフレドリックを様子を見守っていた。

 「どうだ?フレドリック」

 ジョンソン長官はもう一度尋ねた。フレドリックの回答が待ちきれないのか、万年筆の尾尻をコンコンとしきりにテーブルに打ちつけていた。

 「なんというか…。肉厚で…、ジューシーです」

 フレドリックにはどこかで聞いたようなフレーズしか思い浮かばなかった。あらためて味を聞かれても、うまく表現できる語彙を持ち合わせていないことに初めて気がついた。

 しかしジョンソン長官が期待していたのは特別に気の利いた言い回しなどではなかった。ステーキの味を評価したいわけではない。単に味がするかしないか、ただそれだけだったのだ。

 「フレドリック。肉厚かどうか、ジューシーかどうか、それはどちらかというと食感の部類だ。味はどうだ?分かるのか分からないのか?それだけだ。YESか NOで答えてくれ」

 フレドリックは「そう言われても…」と困惑の表情を隠さなかった。味覚に集中しようとすればするほど、「そもそも味とはなんなのか。なにをもって味がわかったと定義するのか」といった形而上的な思いにとらわれていたのだった。

 しかし、ジョンソン長官の視線(実際には念のようなもの)についに耐えきれなくなったフレドリックは、しばらくうつむいた後で小さくつぶやいた。

 「NO…」

 「そうか…」

 ジョンソン長官はがっくりと肩を落とした。

 「それは残念だ。悪いが当面きみを隔離させてもらうよ。きみのような優秀な人材が職務を離れなければならないとなると、現場としては相当な痛手とはなるが。これもやむを得まい。われわれ公衆衛生省の内部からウイルス感染者が出たとなれば、世間的にも大きな混乱を招きかねないからな」

 「長官、お言葉ですが、わたしが本当に感染しているなら、血液検査で陽性反応が出るはずです。この前の結果は陰性でした。なぜわざわざこのような味覚の試験をしなければならないのですか?」

 「やぼなことをきくな。きみも実情はよく承知しているはずだ。この新型ウイルスに関しては、今の医療レベルでは血液検査の結果はあてにらん。もちろん国民には公表できないがな。そしていろいろな方法を多角的に試した結果、現時点でもっとも信頼できる判断がこの味覚試験なんだ」

 「しかし長官、味がわかるかどうか、それだけではまったく客観的な評価になりません。今だって、わたしはNOと答えましたが、YESと言おうと思えばいくらでも言えるんです。実際にわたしは相当迷いました。YESなのかNOなのか。この暗闇でライトだけあてられながら、あらためて問われると正直わからなくなるのです。それに、実をいうと、自分でも気づかないうちに打算的な意識が働いてしまったかもしれません。純粋に味がするかしないかではなく、ここでYESと言ったほうが得なのか損なのか。どちらを答えるかによって、この先の展開がどう変わるのか、というようなことです。わたしにも妻子があります。今ここで簡単に職を失うわけにはいきません。とはいえ一方で、わたしの職務は公衆衛生省の職員としてこのウイルスと対峙することでもあります。そのわたしがここで嘘をついてどうするというのか。ここでやすやすと体裁をつくろってどうするというのか。わたしの個人的な保身にこだわったところでなに一つ真実は解明されない。国民は誰一人として救われない。だからこそわたしは真剣に自分と向き合い率直に答えました。たとえその結果、隔離され、最終的に職を失おうとも、真実に忠実であろうと判断したのです。それがまさに国民に奉仕する公僕のあるべき姿でもあるのかと思い…」

 「それはわかっている!」

 ジョンソン長官は思わず感情的になり声高にフレドリックの申告をさえぎった。しかし、まるで自分自身が一番驚いたといわんばかりにすぐに言葉を詰まらせると、今度は逆に感情を押し殺すように言葉を続けた。

 「それはわかっている…。すまないがしばらくの間、きみを隔離させてくれ…。これもすべて、きみのいう『国民のため』だ…」

 「しかし、ジョンソン長官…」

 「わかってくれフレドリック!わたしだってきみを疑っているわけではない!」

 もはやジョンソン長官は自分の気持ち制御できず、抑制と衝動の間を行ったり来たり繰り返していた。

 「今回のきみの検査は…、ウィスラー総統からの直々の指示でもあるんだ…」

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