第四話 坂
予定より少し遅れながらも、アンネはハンスと共に家を出た。
アンネは魔法を使うことにしたが、ハンスは必要ないと言い出す。自分の足でも平気だと言う彼を浮かび上がらせると、アンネも魔法で空へと飛び上がり、二人は短い空の旅を始めることとなった。
初めて魔法をかけられたハンスは、はるか下にある地面を見られずに目を閉じている。その様子を心配そうに見ていたアンネだが、ふと昔を思い出して悲しい顔になった。
「あの、まだ着きませんか」
怯えを隠すハンスに尋ねられ、アンネは我に返る。いつの間にか山の麓近くまで来ていたので、急いで杖を下に振ると、ゆっくりと地面へと降り立った。
ハンスも続いて降りるが、浮いていた感覚に足をとられ転んでしまった。手を貸そうとしたが、彼は騎士だ。笑顔で立ち上がり、何事もなく騎士の礼をして、取り繕われてしまった。彼なりのプライドなのだろうが、その手は少し震えていた。
気づかないふりをして歩き出すと、彼も後についてくる。いつもはもう少し下で降りるのだが、慣れないハンスに無理を強いたくなかったため、今日は歩く距離が長くなってしまっている。
時間をかけて坂を降りると、太陽はだいぶ上がっていて、街からは、風に乗って昼食の良い香りが漂ってきた。釣られて足を早めると、ハンスも何も言わずについて来てくれる。アンネはそれに気づきながらもさらに足を早め、香りのする方へと進んでいった。
お昼時を迎えた街には昨日より人が溢れていて、観光客らしい人の数も増えている。昨日の騒ぎなど嘘のように賑わうリサの家を通り過ぎ、村を出ると、城のある町へ向かって歩き出した。
ここから先はアンネに代わり、自分のマントを頭から被ったハンスが案内役になった。彼の馬は実家に置いて来たそうで、二人揃って長い道のりを歩いていくことになってしまったが、どちらも足腰がしっかりしているからか、問題はなさそうだ。
ラインヒル国は、全体的に勾配が多い国だ。平地が少ないため、農作物を大量に作ることは難しいが、畜産や林業など、様々なことを手掛けては周辺国へ輸出していて、周辺国に負けない豊かさがある。そのため貿易も盛んに行われていて、田舎であっても他国の品物が並んでいることが多い。
そのうえ、他国では流通しにくい作物を多く栽培し輸出しているので、ラインヒル国をよく知らない人は、豊かな土壌がある平地の国だと思っているらしい。なので、初めて訪れた人は坂の多さと急さに驚くと聞くが、国民であっても、場所が違うだけで勾配が変わるため、その変化に驚いてしまうそうなのだ。
途中、人気のない場所では浮遊魔法を使って移動できたため、馬がなくても一時間ほどで町に到着した。
アンネが買い物に行く麓の街は、東側では城がある町に一番近いため、城だけは街からも見える。街の人達は嬉しがったりありがたがったりしていたが、彼女にとってはあまり嬉しくないものだった。観光客が訪れるからか、たまに城までの道を聞かれたり、案内を頼まれたりすることもあり、山から離れたくない彼女にとっては断るのが大変だったからだ。
中には、若い女性がいつまでもフラフラしているなと説教していくる人もいて、息子や孫を紹介されたこともある。独り身でも充分に暮らせているアンネにしてみれば、城の話題から発展する恋愛話ほど迷惑なものはなかった。
町に入った二人は、城に続く道の前で一度立ち止まった。アンネの目には、傾きが急すぎる坂がどこまでも伸びているように見えてしまい、軽くめまいがする。しかしハンスは笑顔になると、城へと続く目の前の坂を指で示したのだ。
「普段は足腰の強い馬に乗ったり、輿に乗って移動したりしますが、今日はお忍びという形なので徒歩になります。途中には店がいくつかありますので休憩しながら行きましょう」
「わかりました」
容赦ないハンスの言葉に、アンネは黙って従うことを選んだ。ここで断っても何にもならないということを、彼女は知っていたからだ。
騎士団と国のために動くハンスとは違い、アンネは病気の原因について興味があるだけだ。しかしハンスが、立場上、その気持ちを表に出せないものの、仲間や上司の回復を強く望んでいることはよくわかっていた。その気持ちを真っ直ぐな目で知らされてしまったからこそ、アンネは城に入る気になれたのだ。
そうでもなければ、あの場所になど二度と入るものか。
心の中でそんな言葉を吐き出しながらも、アンネはハンスの背を追った。
ハンスが歩くために選んだ道は、貴族や兵士達が利用できる広い通りではなかった。
城へ行く道は多数あるが、東西南北に敷かれた大通り、または正門通りと呼ばれる広い道がそれぞれある。そこは今年行われる行進や、貴族達の入退城、または兵士達の移動に使われる道なので、庶民は利用できない。利用できる人達も、正装の上で馬か輿に乗らなければならないため、ほとんどの人は横道や裏道と呼ばれる狭い道を通るのだ。
ここからはハンスについていく形で歩いていき、急勾配になっていく坂をひたすら上る。かなりきついが、華やかになっていく建物には目を楽しませられた。普段行く街にも勾配があるものの、それほど気にならないためさっさと歩いてしまうが、ゆっくりと歩かなければ進めないこの場所では、豪華な外装の家々が疲れを癒やしてくれるように思われ、家ごとに違う装飾や飾りに目をやっては、心の中で綺麗だとつぶやいた。
時々馬に乗った貴族の男や、輿に乗って薄布で姿を隠す貴族の女性などとすれ違ったが、誰もアンネを気にしない。前を歩くハンスは、帽子代わりにかぶっていたマントをとって顔を出しているが、やはり誰も気にしないのだ。
アンネの中で貴族は、人目を気にしたり見慣れない人を警戒したりする印象が強かった。しかし、ここら辺に住む人は庶民と交流を持つことが多いため、誰が道を歩いていても、さほど気にしないらしいのだ。けして身分が低い人たちではないのに、彼らは家の前を庶民が歩いていても気にならないらしい。
王立騎士団の団員であるハンスも、普段は人前に出ない立場であるため、以前通っていた道では城に入るまで好奇の目で見られることがあった。それが嫌で何度か道を変えていたところ、この道を見つけたらしい。ここら辺に住む人達はハンスが騎士であると気づいているようだが、あからさまな態度を取ることも、好奇の目を向けてくることもほとんどしないのだそうだ。なので気楽だからと、移動する時にはこの道を利用しているのだという。
半分ほど上ったところで、休憩にしようとハンスが提案する。山道でそれなりに鍛えられたアンネの足はそろそろ限界だったので、彼女は喜んでその提案を受け入れた。
しかし、貴族の家が建ち並ぶこの場所で、庶民の格好をした人を、簡単に受け入れてくれる店があるのだろうか。
そんな心配が頭をよぎったが、ハンスに案内されて入ったレストランはかなり落ち着いていて、アンネは自分の考えがいかに極端であったのかを認めざるを得なかった。店の内装は豪華だが、派手なだけの装飾はされておらず、店員も普通にアンネを受け入れてくれたからだ。
料理名だけでは、どんな料理なのかがわからなかったので、ハンスに任せた。運ばれてきた料理をおそるおそる口にすると、その美味しさに顔が綻ぶ。この店では、町に住む庶民も食べている料理が多いらしくて、値段もそんなに高くないとハンスから説明されたが、街の食堂で出される料理よりも数段美味しかった。あまりの美味しさに驚きながらも、アンネは全てを食べ切ることができたので、ハンスも満足そうだ。常連の彼に声をかける従業員は多く、そのたびに仲を勘ぐられたが、彼はうまい具合にかわしてくれたため、変な誤解はされていないだろう。
お腹を満たして水分を取ると、残り半分を上り切るために外へと出た。太陽はだいぶ西へ傾いてきていて、店に入る前よりは暑く感じなくなってきたが、風がない分、日光がきつい。早く上りきりましょうとハンスに言われて坂を上り始めると、突然背後から声をかけられた。
「なーんだ。さえない子がいると思ったらアンネじゃないの。こんなところで何してんのよ」
会いたくない人ほど、思いがけないところで会ってしまうのはなぜなのだろう。アンネは会いたくなかったという気持ちを気づかれないように、何度も深呼吸をして振り向くと、ニヤニヤと笑うリサに笑顔で挨拶をした。しかしリサは挨拶を返さずに、彼女を上から下まで見て鼻で笑った。
「あんた、今日もダサいわね。いつも安い店しか行かないのに、今日はどうしたのよ。まさか、今さら結婚相手でも探しに来たの? だったら探す場所を間違えてるじゃない。ここは貴族も立ち寄る店よ。あんたみたいな森の引きこもりが来ていい場所じゃないわ」
「別に、私がどこで食べたっていいでしょう。あなたこそ、こんなところで何やってるのよ。祭りの準備はどうしたの」
「ふん、そんなのどうだっていいでしょ。お父さん達が忙しいから、私が代わりに貴族の女達に配達に来ただけよ。無駄に着飾ってるわりに金払いが悪いから、ほんと手間がかかってしょうがなかったわ。この坂だって上るのが大変なのに、あいつらったら『まあ大変ね、ご苦労様』よ? ほんと、貴族の女って呑気よねえ」
リサはハンスに気づいていないのか、それとも彼の立場を知らないのか、ペラペラと悪口を言い出した。多忙の両親に変わって注文の品を届けに来たようだが、その時に貴族の女性から言われた言葉が気に食わなかったらしい。ひどい顔で悪口を言う彼女を見ながら、相変わらずだなとため息をつきたくなってしまう。ハンスは口出しする気がないのか、距離を置いて見守ってくれているので、私も下手に言い返さず黙って聞いていた。
ある程度言って満足したのか、彼女は「まあ、せいぜい行き遅れでも貰ってくれる人を見つけなさいよ」と笑う。
「後ろにいる男、身なりはいいけど顔は普通ね。まあ、そんな男しか捕まえられないんだから、さっさと山へ帰ったら? 森の動物くらいは慰めに来てくれるでしょう。まあ、そんなこともありえないくらい魅力がないけどね」
声をあげて笑いながら、彼女はさっさと坂を下りて行ってしまった。その背中を見送ると、残された二人は同時にため息を吐き、ようやく帰ってくれたと同じ事を思った。これまでの嫌な気持ちを吐き出すように息は重く、しばらく二人は無言だったが、アンネはチラリとハンスの顔を見た。
貴族だということもあり、彼の顔は整っていると思うのだが、絵に描いたような美形を望んでは理想通りじゃないからと振っているリサには、彼の素朴さに魅力を感じなかったのだろう。ハンスが落ち込んでいないことだけは救いだったが、リサがしでかしたあまりの無礼な態度に、アンネは憤りを感じた。
リサの無礼な態度もそうだが、何も言い返せなかった自分にもだ。彼女と自分に対して、ふつふつと怒りが込み上げてきたが、このままここに留まるわけにはいかないので坂を上り始める。黙って前を行くアンネを追っていたハンスだが、途中で場所を入れ替えると、彼も何かを察したのか黙って上へと歩いていく。
その背中を追いながら、アンネはごめんなさいと心の中で謝った。
坂を上るほど大きく広くなっていく屋敷が影を作ってくれるため、後半は前半よりも辛くないように思えた。が、坂を上り切ったところで息が上がっていることに気づき、アンネの足は自分の意志に反して震えだした。思わず振り返ると町は遥か下にあって、転がり落ちたら命はないだろう。
そのまま二人で東の門と呼ばれる城の大きな門の前まで行き、中へ入ろうとしたが、門兵に止められてしまった。
「通行許可証はお持ちですか」
門兵に言われ、ハンスが許可証を出す。同時にアンネの入城許可証も見せくれたためか、特に何も言われず入ることができた。どうやら事前に用意してくれていたようで、思ったよりも高待遇だと、この時初めて知った。
普通の場合、庶民が城を出入りするには、いくつもの検査と調査をされた後で、入城審査を毎回受けなければならず、毎日出入りしている人でも、時々入れなくなることがあるらしい。ここ数年は周辺国との関係が悪化しているため、王族や城の中の安全を守るための措置として、人員を増やしてでも審査を行い続けているのだと、ハンスは歩きながら話してくれた。
二人でレンガ造りの長い道を歩いて行き、途中、十字路になった道があったため、ハンスは迷わず右へ曲がった。
「左は兵士の詰め所です。右が騎士団がいる詰め所なので、間違えないようにしてくださいね」
言われて振り返ると、十字路にはバラの花が植えられていることに気がついた。まだ半分しか咲いていないので気づきにくいが、右が赤で左が白だ。間違えれば大事になると、どうにか記憶するが、すぐに忘れそうだとアンネは思ってしまった。さほど記憶力が良いわけではないので、後でもう一度確認しようとハンスについていく。
曲がった先には、庭園のように整備された、草木の植わった場所が広がっていて、緑の中に白やピンク、黄色や赤の花がいくつも咲いている。種類まではわからないが、目を楽しませてくるそれらの植物を見ていると、ハンスが小さく笑った。しかしアンネは気づかなかったようで、ハンスの方を向いた時にはもう、彼の顔は騎士になっていた。
ハンスには、この場所が城の庭師に整備されている庭園だと教えられた。アンネには縁のない広く整った庭は、今の国王が庭師に命じて作らせたらしく、元々は何もない砂と岩だけの場所だったらしい。以前は城の鍛錬所の一つとして利用されていたのだが、騎士団の詰め所ができてからは、庭園として生まれ変わり、女性も訪れやすい安全な場所を提供できるようになったのだという。
「王立騎士団は、国内外を問わず、設立されてから日が浅いため、犬猿の仲と呼ばれる兵士達とは離されているんです。この庭園は昔、場所の取り合いで揉めるほど人が来ていたのですが、喧嘩が絶えない上に城の内部に通じる道に近いということで、庭園に変わったというわけなんです。国王に寵妃がおられた頃は、何人もの女性が毎日出入りしていましたが、後宮に人がいなくなってしまった今は、興味のある人や一部の王族以外、誰も訪れなくなってしまったんですよ」
城の壁伝いに造られた廊下に入ると、庭に面した側が美しい彫刻の柱で支えられていて、腰の高さほどの壁で覆われている。そのため、広い庭園が一望できた。城全体が淡いクリーム色に白を溶かしたような絶妙な色合いのため、同じ色の壁や柱も太陽の光を反射しやすいのだろう。遠くに見える城壁も輝いて眩しい。しかし、夕日に変わり始めた太陽が、城を囲む壁に阻まれて消えていく様が絵になっていて、廊下の壁や柱に反射する光はさほど強く感じられなかった。
しばらく廊下を歩いていくと、広く長い渡り廊下に出る。その下は崖になっていて、底からは水の音が聞こえてくるため、川でも流れているのだろう。暗くなり始めていてよく見えないが、攻め入られた時の仕掛けになるのかもしれないと考えると、崩れるイメージが体を震わせた。
足早に渡り廊下を渡り切ってしまえば、ここはもう騎士団の管轄になるらしい。門兵の代わりに紺色の団服を纏った男が二人、両開きの門の前に立っていた。
「ハンスだが、団長はおられるか?」
「はい、執務室におられます」
いかつい顔つきの男が答えると、ハンスは「開けてくれ」と言い、巨大な門を開けさせる。ハンスに続くようにアンネも門を潜ると、すぐに門が閉まり始めた。驚いて振り返るが、二人はアンネを見ることはせず、静かに門を閉めてしまった。アンネとは終始目を合わせずに、あまりにも淡々とした態度だった。
騎士団の管轄である西の塔は、どこを見ても団服姿の男達しかいない。ハンスに気がつくと声をかけてくるが、アンネに気がついても声をかけてくることはない。それどころか、ここでも視線すら合わせてくれないため、彼女にとっては奇妙な場所に思えてきた。
注目を浴びたいわけではないが、あからさまに無視されるのは気分が悪い、居心地が悪いとまで思ってしまったが、その様子に気づいたハンスは、今度こそアンネにわかるように小さく笑った。
「そんなに気にしなくていいですよ。騎士はご婦人ーー既婚の女性であれば、声をかけたり触れたりできますが、未婚の女性相手では、それらを行うのが失礼に当たるため、事情や理由がなければ自分から声をかけたりできないんです。私の場合は依頼する立場だったので、作法に則って触れさせていただきましたが、普通はあのような対応なんです。初対面の女性であれば、誰でも通る道ですよ」
「そうだったんですね。てっきり、女性がいることを好ましく思っていないのか思ってしまいました」
「王立騎士団はそこまで厳しくはありません。ある程度の節度を持って、職務を全うするのが理念だと言われているので、根本さえ違えなければ、かなり自由なんです。見習いだと浮き足だったりしますが、騎士としてある程度年数を重ねている人だと、そこら辺はしっかりしていますので、驚かせることはまずないと思います」
ハンスに言われて周りを見回してみると、確かに誰もこちらを見てこない。しかし関心がないわけではなく、あくまでも見ないようにしているだけのようだ。すれ違うと礼をされるし、ハンスが壁に寄って頭を下げる人であっても、アンネにはきちんと礼をしてくれる。今まで見てきた男性とは違うなと思いながら先を進んでいくと、三階にある団長の執務室へと着いた。
王立騎士団が詰める西の塔は五階建てだが、日常的に使用しているのは三階までらしく、四階は武器や防具などの倉庫、五階は有事の際に見張り台として使うのだと歩きながら教えられた。ハンスは見習い時代に一通り回ったらしいが、三階は騎士団の中でも立場のある人達が常にいるため、数えるほどしか足を踏み入れたことがないらしい。
絨毯が敷かれた廊下には、扉の前に立つ団員が数人がいるだけで、二階までの喧騒が嘘のように静かだ。恐る恐る足を出すと、緊張するハンスに続いて奥の部屋へと向かう。
ハンスは廊下の一番奥にある扉の前で立ち止まり、両隣に立つ団員に入室の許可を求めると、片方の団員が室内の団長へ声をかけた。入っていいとの了解が出たので、大きな扉が二人がかりで開かれ、ハンスの緊張が一気に高まるのを感じた。アンネも自然と拳に力が入る。
扉が開かれた部屋の奥にいたのは、厳つい顔の団長アルベルトだった。
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