第二話 魔女
王族が住む城の周囲には町がいくつもあり、その周りを囲むように深い森がある。その森には魔女が住んでいて、けして入ってはいけないと言われる場所がいくつもあるのだ。
さらにその奥には険しい山々がいくつも連なっていて、移動には困らせられるが、防衛には役立つそれらには、兵士達でも簡単には近づけないらしい。有事の際には、いくつもの注意事項や決まりを守りつつ入らなければならないらしく、ここで命を落とす人が多いという噂もあるくらいだ。
東西南北にそれぞれ存在する立ち入り禁止の場所の一つ、東のエリアに住むアンネは、街で買った物を担ぎながら険しい道のりをひたすら登っていた。
東の山はオフトと呼ばれ、麓の村からは雨の山とも呼ばれている。ひとたび足を踏み入れると雨が降り出し、限られた場所にしか入れないためだ。
そんな山の中腹を歩くアンネの頭上には、雲一つない青空が広がり、心地よい風が彼女を後押しするかのように吹いている。道自体は舗装されたように綺麗な地面だが、その勾配は急で、横から見ると斜めになって見えるほど体が傾くほどだ。雨など降らずとも、大人の男ですら登り切るのは難しい坂を前に、後ろを振り返ったアンネは、そろそろいいかと荷物を下ろす。そして、街を出る際に纏ったローブの内側から杖を取り出した。
木の枝のような歪さはあるものの、光沢がある黒い杖を軽く振ると、地面に置かれた荷物が浮く。腰の高さまで浮いた荷物に満足したアンネは、もう一度杖を軽く振ると、今度は自身を浮かせて荷物に腰を下ろした。
そのまま杖を前に突き出すと、浮いた荷物と共にアンネも坂を登り出す。何度か突き出す真似をするたびにスピードが上がり、風がアンネの肌に強く触れ出した。
そろそろかなと杖を下ろすと、そのままのスピードで進む荷物とアンネ。
先の長い坂を登りながら、椅子のようになった荷物の上で空を見上げる彼女は、人気のない森の奥へと一直線に駆け上がった。
彼女が使ったのは魔法だ。
この国では使える者が限られていて、千人に一人いればいいと言われるほど貴重な存在だ。人口が一万人ほどの国内では大変珍しく、魔法が使えるとわかれば、良くも悪くも注目されてしまう。かつては魔法によって国を大きくしたこともあるため、他国に比べれば扱いは優しいが、風当たりは強い。それもそのはずで、昔からどの国でも、魔法が使える人は高いお金を払ってでも王族が独り占めするため、「魔法使い=国の所有物」という考え方が根強いのだ。
かつては国王の側近になった人もいたため、国が傾くと魔法使いのせいにされて処刑されることもあり、今では理不尽な扱いをされたくないからと、人里離れた場所に暮らす魔法使いは少なくない。
他国では大切に扱われたり、悪魔の手先として酷い扱いを受けたりと様々だが、それでも魔法使いを個人として扱い、考えを尊重してくれるこの国は居心地が良かった。アンネにとってこの国は、自分らしい自由な暮らしができる場所なのだ。
今の国王は最たるもので、魔法使いも庶民も奴隷も等しく見てくれている。先王まで残っていた奴隷制度を撤廃し、人権という言葉を生み出した彼を英雄視する人は多く、過去最高の支持率を得ているとも聞いているため、アンネも良い印象を持ってはいた。
しかし残念なことに、皇太子に関しては決定が遅く、他国から干渉されかねない状況を作り出してしまった点に関しては、国民も苦い顔をしてはいるのだ。当然アンネも同じ気持ちで、いったい何が国王を悩ませたのかと不思議に思っていたくらいだ。
国王には寵妃と呼ばれた側室の女性との間に王子が一人いて、その人しか子供はいない。先代の国王には五人の王子と十三人の王女がいたが、そのうちの半分は事故や不審死で死亡している。今の国王は第五王子であったため、皇太子時代は何かと噂されていたようだが、即位してからは嘘のように消えたらしい。
そのため、今の国王も歴代の王と同等か、それ以上の子供ができるだろうと国民が噂していたのだが、予想を裏切るように王妃とは不仲で別居。のちに離婚している。慣例として側室を何人も迎えたが、気に入らないからと一人を残して他の全員を家に帰し、唯一残された側室との間に王子を一人授かった。しかしその側室も、王子が生まれるとすぐに家に帰されてしまい、以来、国王は前代未聞の独り身を貫き通しているというわけなのだ。
それ以外では文句がないほど完璧なのに、どうしてか国王は女性を自分に近づけさせないらしく、貴族達もあの手この手で自分の娘や血縁の娘を紹介するも、全て断られているらしい。そのため、国王には後継者に関してあらゆる噂が流れているのだが、それも今回の祭りで落ち着くかもしれない。
ラインヒル国第一王子ハラルド。現代の軍神と名高い騎士の一人だ。
彼目当てで名乗りを上げる女性は多く、皇太子として即位が決まった今、妃にはなれずとも一度くらいはお相手していただきたいと願う女性も多い。貴族ではない女性にとっては、たとえ一夜の夢であってもそうなりたいと思い、少しでも目立とうと躍起になっているというわけだ。
あのリサのように、祭りが終わるまで異性と会うことはせず、貞淑であることをアピールする女性は多いが、すでに国民の素性やこれまでのことも全てを調べられているため、意外な事実が把握されていたりする。なので、店先で起こったあの揉め事の件も、庶民の間では知らなくても、王族や一部の家臣達には知られているというわけなのだ。
貴族達には明かされない秘密の諜報員がいるとか、国内外に多くのスパイがいるだとか、あれこれ話には聞くのだけれど、アンネにとってはなんの興味も湧かないため意味がない。空を見上げながらリサの今後を想像すると、少しだけかわいそうにと思うくらいだ。
ようやく坂を登り切ると、今度は険しい岩場が見える。ここからは女性の足で進めないため、魔法が使えるアンネ以外では、ほとんどの人が引き返す場所なのだ。
再び杖を上げて荷物の高さを上げると、岩場の上を進んでいく。少しも揺れない様は見事の一言だが、それを判断してくれる人は誰もおらず、彼女は一人、風を受けながら岩場の道なき道を進んだ。
すぐに岩場を抜けるが、そこからも険しい道は続いていく。棘の生えた植物が生い茂る場所や、毒を持つ生物が出現する場所、切り立った崖が行く手を阻む場所など。魔法が使えなければ生身の人間は入れない場所まで行くと、ようやくアンネは気持ちが落ち着く気がしたのだ。
――やっぱり、人がいる場所は苦手だな。
心の中でそう呟くと、途端に疲れが出てきた。すぐにでもベッドに横になりたいが、まずは食料を保管しなければならないため、疲れの原因になったリサの件を思い出しては、少し落ち込んでしまった。元凶はリサだろうが、一番の被害者は巻き込まれた両親だろう。本当ならリサに出て来てほしかったが、あの子が素直に言うことを聞くはずがない。
彼女の両親は街でも有名な仲良し夫婦で、いつも子供やお年寄りのためにボランティアのようなことをしている。その行動に助けられた人が多いため、彼らを信頼する人はとても多いのだが、娘のリサはその反対だ。いつも人に迷惑をかけ、自分優先で他人を気遣うことなど一切しない。そのため、美貌に騙されない人達からは嫌われていて、今回の件で両親の肩身が狭くなることだろう。
思わずため息を吐き出すと、とっさに口元を押さえる。アンネがいるのは危険な野生動物が生息する場所のため、物音一つ、ため息一つで襲われることがある場所なのだ。
魔法である程度は対処できるが、むやみやたらに動物を傷つけると、血の匂いでさらに別の動物を呼び寄せてしまうし、人の匂いを覚えられてしまったら、家にまできてしまうかもしれない。中には皮膚が硬く頑丈な個体もいるため、あまり刺激したくないのが本音なのだ。
あたりを見回して安全を確認すると、ゆっくりと緊張を解く。どうやら近くに何もいなかったようで、今日は無事に家に着けそうだとホッとした。
少しだけスピードを上げようと杖を上げた時、遠くから獣の咆哮が聞こえた。
咆哮の主はオオイノシシだろう。独特の甲高さを持つ鳴き声が聞こえた方向を見るが、遠いのか何も見えない。いつの間にか生い茂る木々の中に入っていたようで、先ほどまでの拓けた道とは違う視界の悪さに、アンネは少しだけ焦りを覚えた。
(この森にいるオオイノシシは、比較的大人しい個体のはず。動物同士の争いにしては静かすぎるし、危険な生物が現れたのなら逃げる音も聞こえるのに、音はさらに奥へと向かっている。家の方向とは反対だけど、これはいったい……)
彼女が暮らす家は、危険動物がいる森を抜けた先にある。そこへ向かうアンネから遠ざかっていく音が聞こえるため、自分自身が今すぐ危険にさらされる心配はなさそうだが、今まで感じたことのない違和感が彼女を考えさせていたのだ。
聞こえなくなっていく音。このままにしておいてもいいはずなのだが、なぜか気になる。荷物をいったん高く上げて、自身も木より上へ上がると、そのまま音のする方へと杖を振った。
だんだんと近づくオオイノシシの咆哮を頼りに進むが、森の一部が壊れ、木々が倒れているのが見えてきた。どうやらあそこが現場らしい。アンネは荷物から降りて身一つで進むと、倒れた木の間には、オオイノシシに囲まれた何かがいた。
オオイノシシの体長は三メートルを超える。子供でも一メートル前後のため、人間など襲われればひとたまりもない。なのに、囲まれた何かが腕を振ると、オオイノシシの近くにある木が切れて真っ二つになる。それを見たオオイノシシが後ろに下がるものの、血の気の多いオスばかりのためか、再び抵抗する何かに近づいていくのだ。
人だ。青い服を纏った男が剣を手に、オオイノシシとやり合っている。それをアンネが理解した瞬間、後方にいた巨大オオイノシシが口を開け、腹の底から咆哮を響かせたのだ。思わず耳を塞ぐが声はおさまらず、数秒から数十秒の間隔で吠え続ける。まるで制圧するかのような鳴き声に、男も耳を塞いでうつむいた。
その時を待っていたかのように、囲んでいたオオイノシシが動いた。一気に距離を詰め、倒れた木々の高さなど関係なしに近づいていく様は、狼よりも豪快だ。しかしその動きはけして愚鈍ではない。わずか十秒足らずで男のそばにたどり着いた数頭は、軽く鳴くと、大口を開けて男へと襲いかかった。
「危ない!」
叫んだアンナが杖を振ると、倒れた木々が浮き上がる。杖を突き出した瞬間、無数の丸太がオオイノシシ達を押し潰し、あっという間に丸太の山が男の周りに出来上がった。後方にいた巨大オオイノシシはアンネを見上げると、低い唸り声を上げるが、状況から不利だと判断したのか、名残惜しそうに森の中へと消えていった。残されたオオイノシシ達は気絶しているのか動く気配がないため、急いで男の元へと飛んでいく。
「大丈夫ですか。怪我はありませんか」
そう尋ねると、男はアンネの顔を見て目を見開き、唇を軽く動かしてよろけだす。そのまま何度か踏ん張ろうとしていたが、緊張が途切れたのか、ゆっくりと倒れてしまったのだ。
アンネが男を仰向けにすると、顔と頭には泥と砂がついているだけで怪我はないようだ。体も見た目は無事なようだが、詳しいことはわからなかったため、とりあえずこのままにはしておけないと杖を振った。男を浮かせて自分も浮かび上がると、荷物と共に男を連れて家へと戻った。
二階建ての我が家に戻ったアンネは、疲れなど吹き飛んでしまったようで、急いで荷物と男を家の中へ入れると、暖炉に火をつける。標高が高いため、山の麓より寒いこの場所では、慣れない人には厳しいからだ。アンネ一人だけならば必要ないため、汗をかく前にローブと上着を脱ぐと、置きっぱなしにしていた薪をくべて火を大きくした。
暖炉の火が安定したところで、浮かせたままの男を二階へと運んでいく。客室として念のためにとっておいた空き部屋へ入れ、ベッドに寝かせてシーツをかけた。彼の持っていた剣とわずかな荷物をテーブルの上に置くと、彼が目覚めるまでにやることをやるため一階へと戻った。
一階はすでに暖かくなっていて、じきに二階にも暖気がいくだろう。買ってきたものをいつもの場所に置くと、汗ばむ額を手の甲でぬぐいながら、夕食の準備を始めた。
しばらくすると、階段を下りてくる音が聞こえてきた。どうやら男が目覚めたようで、慎重に降りてきているのを感じ、ナイフを置いて階段の方へ向かう。すると、警戒した様子の男がアンネを見下ろしていた。
「……ここは?」
「オフトにある私の家です。オオイノシシに襲われていたところを見つけたので、ここまで運びました」
簡単に説明すると、男は思い出したのか顔をしかめる。どうやらオオイノシシへの恐怖心はないようで、震え上がる様子はない。しかしアンネへの警戒心はあるらしく、その場を動かずに「お前は何者だ」と聞いた。アンネは「オフトに住む者です」とだけ答えたが、男はふと笑い、てすりに片手を乗せた。
「オフトの魔女か」
「どうやら、説明は不要だったようですね」
オフトの魔女。それがアンネの呼び名だ。
魔法を使えるものはごく僅かで、時代によって男女の比率が変わっていく。ここ二百年は魔法使いの方が多かったため、魔女は珍しがられることもあり、オフトに住む女といえば魔女だと思い込む人も多い。特に麓の村はオフト村と呼ばれているため、勘違いで女性が連れ去られそうになったりしたこともあるのだ。そのため、麓の村も、その近辺の町や村でも、アンネはよく思われていないのだ。
山の奥にまで入って来られるほどの男であれば、アンネが魔女だと容易にわかるだろうが、男は確信しつつも試したのだろうか。しかし表情からは、アンネをただの怪しい女だと思ったようにも見えた。薄い青の瞳が見下ろす中で、アンネも静かに警戒していると、男はゆっくりと階段を降り出す。最後の一段を下りると膝をつき、アンネの右手を両手で持ち上げた。
「オフトの魔女である貴女に会いに参りました。私は王立騎士団のハンスと申します。どうか貴女の力を貸していただきたいのです」
「王立、騎士団? そんな方がどうして私に……というよりも、力を貸すとはいったい……?」
王立騎士団といえば、第一王子が所属する名門の騎士団だ。
国内外には多数の騎士団が存在するものの、ラインヒル国の王立騎士団は国王直属の精鋭部隊として名高く、他国でも人気のある騎士団のため、滅多に人前に出てこない。アンネも名前だけしか知らないため、目の前の男が本物かどうかはわからないが、その目は真剣そのものだった。そんな凄い所に所属している人がアンネを頼ってくるとは、いったいどういうことなのだろうか。
気持ちを落ち着けるため、夕食作りが途中だからと言って台所に戻るが、アンネはハンスの言葉を何度も思い出しては、どうしても納得できないでいる。鍋をかき混ぜながら、隣の部屋にある椅子で姿勢よく待つハンスをこっそりと確認するが、家捜しする気配はなかった。
城の人間と関わりたくはないのだが、無常にも出来上がってしまったスープを前に、これ以上は誤魔化せないと皿を出すと、ハンスの分もよそう。食べてもらえるかわからなかったが、まずは夕食をと誘うと、意外にも美味しそうに食べてもらうことができたので驚いたくらいだ。
名門騎士団といえば、貴族や王族がほとんどを占めているため、塩で味付けしただけの野菜スープと、今日買った安いパンでは口に合わないだろうと思っていたからだ。しかし彼は、質素な食事であっても嬉しそうに平らげてくれたのだ。
おかわりを聞くと、彼は恥ずかしそうに器を差し出してくれたので、少しだけアンネも嬉しくなる。少し多めによそってみたが、全て綺麗に平らげてくれたため、洗い物の間も機嫌がいい。食べ終えたハンスは机を綺麗に拭いてくれたので、後片付けも少し楽になったからだ。
買ったばかりのお茶をいれてハンスに渡すと、彼は笑顔で受け取り、ためらいなく口をつける。その行動が、彼にとってアンネは、警戒する相手ではなくなったという証明になり、アンネも少しだけ緊張が解くことができた。そのまま数口お茶に口をつけたところで、ハンスはアンネに頭を下げて力を貸してほしいと言い出した。
ためらいはあるようだが、とりあえず話だけでも聞こうとするアンネに、ハンスは安堵の笑みを浮かべると、姿勢を正し説明を始める。
外は闇夜になっていた。
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