ウォーミングアップ
三月某日。私は出来る限りのオシャレをして最寄り駅から四つ離れた駅にまで足を運んだ。
高校生の頃は通学手段として早朝の電車には乗り慣れていたものの、昼少し前に乗る電車にはどこか新鮮な趣があった。
通学の際に利用していた路線は朝方では二車両編成のクセに、多くの学生が利用していた。
私の乗る駅に電車が到着する頃になると、平日だと、十人も座るスペースがないほどに混雑していた。
しかも、水曜日にはほぼ毎週、体臭がマジできついおっさんが乗車して座ることもあった。
電車が来るまでは一本の列が短く並ぶのだが、その列の一つ外れたスペースにおっさんは陣取り、電車が停車すると決まってその真横の列を遮ってまでして、一番に乗車していた。
最初の頃は、そのおっさん、通称水曜日のおっさん(と、私は呼んでいた)が横入りしてまで席に座るのを腹立たしく思っていた。
───が、よくよく考えていたみたら、それは彼なりの気遣いだったのかもしれない。
先述の通り、朝の二車両編成は、需要と供給のバランスが傾いている。満員電車に毎週なっていた。
そんな人混みの中心に、水曜日のおっさんが立ってみたと仮定するならば、きっと車内に彼の臭いが伝染して、車内は阿鼻叫喚の渦となっていたことであろう。あの体臭、持続時間が結構あるくせに、臭い移りもするから困る。
反面、おっさんが席に座れば、おっさんの両サイドにしか被害は至らない。
私はその場面に、倫理の授業で習った、ベンサムの「最大多数の最大幸福」の話を想起した。有名な話である為、その話は割愛しておく。
ある種のマスコット的存在であったおっさんは卒業間近になると、姿を見せなくなった。嬉しいのやら嬉しくないのやら、複雑な気分で私は高校を卒業した。
「……」
当然、私が乗る電車にも水曜日のおっさんはいなかった。
あのおっさんといえば、屋根のある場所で傘を差しながら駅のエレベーターを下っていたという記憶が色濃いが、まぁ追憶してもしょうもないことであった。
高校時代のことなど切り棄てるべきことであり、水曜日のおっさんに関して言えば、その対象なわけで。振り返れば面白かったけれど、しかし前に進むべき人間たる私にとって唾棄すべき記憶なのだ。
こうしてガタンゴトンと静かな車内に揺れる私の体はどこか空っぽであった。
朝の電車の喧騒は私の感情のエネルギーであった。一年生の冬頃から学校を嫌いだった私は、「何故こうも死にたいを抱えながら生きていかなくてはならんのか」と考えながら苛立ちともいえぬ負の感情を抱きながら、電車で眠っていた。
しかし、そんな強かった感情も、進路が決まると、当時の感覚は失ってしまい、今では思い返すことも叶わない。きっとソレは良いことなのだろう。
電車といえば、私にとってその感覚の記憶が強かった為、今こうしてすっきりとした気分で乗る電車は新鮮に感じたのかもしれない。
小学生の純朴な頃に乗った電車とは違って、何とも言えぬ虚無感。
人というのは変わっていくんだなって、当たり前なことを痛感しながらも、気づけば、目的の駅に電車は到着していた。終点であった。
アナウンスも、二月に聞いていた時と全く同じだというのに、違和感を私は覚えた。違和感の出所も分からぬまま、ただボーっとして私は電車を降りて、体の覚えている通りに改札口まで歩いた。
切符を回数券で買うよりも定期券で買った方が安くつくらしいので、私は高校生の頃ほとんど切符を使わなかった。
小学生以来滅多に使わなくなった小さな切符を通して、私は改札口を通過したのであった。
と、改札口の先には一人の男が立っていた。私服で体の大きな、ちょっと下卑た男。
「……」
彼は私と小学生の頃から仲の良い友人である……にしても友人、か。友人とはなんと綺麗すぎる響きだろうか。
彼と左様な間柄は些か気持ちが悪い。ここは百歩譲って悪友ということにしといてやる。親友とはそのくらいの認識の方が、共依存にならんだろうから。
悪友である彼は、私の姿を視認するとこっちを無言で見てきた。
彼は私の通っていた高校よりも偏差値の高いところへ通っていた。受験結果の報告を学校側に報告してきたらしい彼は、わざわざ近場のデパートのトイレで速やかに着替えたらしい。
私と反対に彼は第一志望の大学に合格したそうだ。つまり私はおちた。
つっても、悲観すべきコトじゃない。
私自身の合否は堕落をしていたツケがまわった当然な結果ではあったが、彼は何やら気が使える人物であったため、どこか気まずそうに接しているように感じることもあった。
だが、第二志望の大学に私は特待生合格をしていた為、第一志望の合否は、私にとって重大な問題ではなかった。
しかも、全額免除だったから、私立の大学ではあった為、それなりにはしたものの、大学生活に必要なお金高くはなかったのである。
その話を悪友にすると、明るく返答してくれた。
小学生の頃であれば、自分の話したいことばかりを好き勝手話していたなと、今になって反省する。
歳を重ねれば重ねるほど、人は一つの感情を失うのだけれど、でも、人との話し方は、ちょっとずつ上達するのである。
「たのしみだ」
思わず私は呟く。
エロゲーを買うということが楽しみというのもあったのだけれど、十八禁の世界に足を踏み入れるというのは、知らない世界を知るということであり、自分が人として成長できるのではないのかと期待を膨らませていたのだ。
聞くとミチルはお金を持ってきたと言っていた。だが、四千円程度しか手持ちが無かった……。
「なめとんのか?」
エロゲーをある程度知っている人であれば、こういう感想が漏れるのは普通だと思う。
エロゲーってのはPCゲームがポピュラーで(てかPC以外無いんじゃね?)、となると、値が張るのは当然なワケで。
私が行こうと思っていた店は中古ソフトしかないから、どうとも言えないが、その時分の私には、無茶だとしか思えなかった。もっとも、彼はその手の業界を詳しくないから仕方がないのだけど。エロゲー買うのには一万でも足りないのよね。
しかし、ここは許す。何故ならば、私が向かおうと考えていたエロゲーを取り扱う店までの道順を、ミチルが知っているらしいのだ。
彼とエロゲーを買いに行く約束をするまでは、スマホのグーグル先生を頼りに向かう予定だったんだけれど、彼が知っているとのことだったので、俺はすっかり安心しきって彼の案内に従ったのであった。
***
「いや、此処じゃねーけど」
と、彼が着いたぞと言って指を差した場所は、俺の目的としていた店とは違った。
某DVDレンタルショップに私たちは着いた。
けれど、私が元来行こうと思っていたのは中古の品を買いとる系ショップ。つまりレンタルショップだった。
どうやら打ち合わせに穴があったらしい。てか、打ち合わせもクソもなかった。
あれき「誕生日エロゲー買いに行く」
ミチル「俺も行きて―」
……という単調な会話だけ。
これにはミチルも俺も焦った。意思疎通へたくそすぎるだろ、十二年の仲なのに。
寧ろお互い歳をとるにつれて、言いたいことを好き勝手言わないようになったから、却って、伝えたいことを上手く伝えられなくなったのかもしれなかった。
もっとも、無事アイデンティティの拡散を成し遂げた私だけが問題だったのかもしれなかったのだけれど。私の高校時代の病が、起因していたのかもしれない。
しかし、某レンタルショップとて黒い暖簾があって、その先にはユートピアが広がっているのは間違いなかった。
どうせエロゲーは売ってないだろうと思ってたけど、ウォーミングアップのつもりでひとまず入店してみることにした。
***
エレベーターに乗ってDVDコーナー。
DVDコーナーとゲームコーナーは同じ階にあるため、私たちは其処に足を運ばした。
十八禁ゾーンを探すこと三分ほど、端っこの方に発見した。
「─────────」
エロ。エロ。エロ。
私の元来の目的はエロゲーを買うことであった。
しかし、パッと見、例のエリアはくそ狭いのである。
で、この階では、確かにゲームも取り扱っているのだけど、ほとんどDVDが占めているのだ。
ともすれば、この店で十八禁コーナーに入るメリットというのはやっぱり全然無かった。どうせゲームは売っていないだろう。
……。……。…………。
だが、真面目な話。私とて一人の男なのだ。
AVに興味ないという、変な意地を張る理由ない。至極当たり前な興味を否定するってのは、少々風情に欠ける。
一介の男として、私は悪友とともに人生初の十八禁ゾーンに入場したのであった。
***
「……なるほどね」
予想通り、一通り確認したけれど、DVDしか置いていなかった。
平日に出向いたためか、中には中年のおじさんやら、六十代くらいのおじさんしかないなかった。
ここで水曜日のおじさんもいたら面白かったのだろうが、いなかった。
聞いた話によると男性は歳をとると性欲がエグイくらい弱くなるとのことだったが、百聞は一見に如かずという言葉がある通り、ある種幻想的な世界に感ぜられた。
……。
いや、ばっちぃよ!やだよ、幻想的な世界がおっさんまみれとか!!
『夢喫茶のウツツちゃん』という私の作品にも、幻想的な世界が物語の舞台になっているのだが、それと同等に扱うのは自分でも嫌だな。
けれどそう一瞬感じてしまうほどに、暖簾の奥の世界は新鮮であった。
海鮮市場並みの純度だよ。いや、でも、これも何となく想像の範囲内だったし、ある意味予想通りだったのかも、この光景。
男ってほんと馬鹿だよ。だって歳くってまでもこうして性執着するんだから。
俺としてはまだAV広場を冷やかしていても良かったのだが、ミチルがさほど興味を強く示していなかった為、私たちは満場一致でその場を去った。
退場する時の私とミチルの会話は淡泊なものであったが、短い会話で意思疎通が完璧に為された。
ミチルの勘違いと私の言葉不足で来店したけれど、エロを通じて速やかなコミュニケーションを出来たというのは実に爽快であった。
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