第五話 回答『威厳はあるが軽薄な爺さん』
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駅の裏側にある雑居ビルが顧客の経営する会社だ。実務は部下に任せ、社長自身はいつも自由気ままにあちこち飛び回っているらしい。
空席の目立つオフィスでは数人の社員がモニターやスマホを睨み、電話をかけ、ファイルを繰って忙しそうに仕事している。
「まあまあまあ、お待たせしちゃってごめんなさい。デビエンの……えーと」
「あ、濁沼です。ご無沙汰してます、薄井さん」
「ああ、そうそう! 失礼しました。いやぁね、歳をとるとお若い方のお名前を覚えられなくて。あ、どうぞおかけください」
社長夫人で共同経営者でもある
「もしかして、ウチの薄井がまた?」
「はい、あの……本日が返済期限でして、社長とお約束を」
「あのアホ社長……あら、失礼。いつもすみません。あの人ったらもう、借りるだけ借りてすぐ忘れちゃうんだから!」
正直、そんな気はしていた。が、薄井さんが約束をすっぽかすのはこれが初めてではないので、これくらいでイラついたりはしない。
蕗子夫人はスマホを取り出すと、わたしに軽く会釈してから電話をかけた。
「ちょっと
婦人は目を閉じて、フーッとため息をついた。こめかみがピクピクしている。
「切られたわ。本当にもう、いっつも、こう。ちょっと思いつくとすぐお金借りて、パパーッと使っちゃうんだから。デビエンさんをお財布か何かと勘違いしてるのよ……デビエンさんもねぇ、ホイホイ貸付けちゃうんだもの。困っちゃうわ」
「……すみません」
「あら、あなたが悪いんじゃないことはわかってるのよ。ほらあの、関川さん。いつもニコニコしてらっしゃるけど、抜け目がないったら」
─── はい、確かに。うちの上役、天使の笑顔の裏に悪魔の炎を宿しているんです……なんて言えるはずもなく、わたしは弱々しく「ハハ…」と笑って見せるばかりだ。
眉を顰めながらも部下へテキパキと指示を出しはじめた蕗子夫人にこそ、カルシウムが必要に見える。わたしは「よかったら、これ…」と、そっと本日の緊急用食料を差し出した。
薄井社長とは長い付き合いだし毎回の借入金額も比較的大きいので、振り込みでの返済も選べる。だが生憎、銀行の当日振り込みの受付時間を過ぎていた。
結局、蕗子夫人が外出ついでにATMに寄って、我が社まで直接返済に来る運びとなったため、わたしは一旦手ぶらで帰ることにした。
少し時間が空いたので、せっかくだから柱間さんの家に寄って行こうか。ちょうど、子供が喜びそうなお菓子も持ってるし。
顧客の一人である柱間さんは最近、玲央くんの帰宅後に居酒屋で働いている。マネージャーの鷺岡さんから、「弟妹を守る」という玲央くんの涙ながらの覚悟を聞かされ、心を入れ替えたのだそうだ。だからこの時間なら、双子のチビちゃん達と家にいるはず。
パチンコもやめたらしいし、このまま上手くいってくれるといいな……
▽ ▲
蕗子夫人が息を切らして事務所に入ってきた時、八宇さんが珍しくおしゃべりの途中で黙り込んだ。返済の手続きを終えて関川さんと愚痴混じりの世間話をする蕗子夫人を、じっと見ている。
「どうしました? 八宇さん」
問いかけるも、彼は軽く手を挙げてわたしを制した。
「……やっぱり。ベルトの穴の位置が前と違う。スーツだからわかりにくいけど、薄井さん、かなり痩せてる」
「えっ」
八宇さんの持つ、映像記憶能力だ。見たものを写真のように記憶し、頭の中に保存しておける。その能力は、物言わぬペット達の健康状態を長年観察しているうちに身につけたのだという。彼は自宅に十種類以上の爬虫類を飼育しているのだ。
改めて蕗子夫人を注視してみると、確かに肩の線が薄い気がするし顔色もくすんでいる…が、それも言われて初めて気づく程度だ。だが、汗がなかなか引かないし呼吸が整わない。
わたしは先ほど彼女の会社で覚えた些細な違和感を思い出した。
普段より強めの香水。もしかするとあれは、体調の変化で体臭が変わったことを気にしていたのでは? それにあのスカーフ。顔色の悪さをカバーするためかもしれない。
八宇さんから促されたこともあり、わたしは意を決して彼女に病院の受診を勧めることにした。
▽ ▲
彼女の夫であり、我が社のお得意さん、
蕗子夫人はあの後、すぐに知り合いの病院に予約をねじ込み簡易検査をしたところ、癌の疑いありと言われ、そのまま検査入院したそうだ。
「もちろん検査結果はまだだけどね、でも気づかなければその検査すらしていなかったわけだから。お互い、この年まで病気ひとつしなかったもんで、体調や食欲の変化も加齢のせいだと思い込んでいたんだ。ほんと、濁沼くんのおかげです。ありがとう」
黙っていればダンディな薄井社長なのだが、今日は洒落た夏物のジャケットがシワになるのも構わずソファに放り出し、背を丸めて手を擦り合わせ、しきりにそわそわしている。わたしの返答など耳にも入っていない様子だ。
「ああ、どうしよう。心配でしょうがないよ。病院でもうるさくし過ぎて追い出されちゃったんだ。検査が終わったら電話するから戻ってくるな! って。仕事放り出して帰ってきたのにさ。でも今回ばかりは僕もね、反省しましたよ。いつも思いつきであれこれ企画だけ書き散らして、あとは丸投げ。何もかも妻に任せきり。妻の病気もね、きっと僕が苦労ばかりかけるから」
薄井さんは突然立ち上がったかと思うと、ソファの後ろを往復しはじめた。
「そうだよなー、絶対そうだよなー。よく『口先男ならぬ、筆先男』って怒られるもんなぁ。癌ってストレスが原因とか聞くし。だよね? 濁沼くん」
何とも答えにくい質問に、わたしは「どうでしょうね…」と言葉を濁した。
「僕は本当にね、妻がいないと何もできない。いつもアイデアが浮かぶと突っ走っちゃうばかりでね、段取りとか大事なことは全て彼女がやってくれていたんだ。『あなたは堂々としてるのが仕事です』なんて言われて間に受けちゃってね。いやぁ、まいったなぁ。頭では分かってたんだけどね、彼女のサポートがあればこそ自由に仕事できてるってこと。ちょっとなぁ、どうしよう。心配だなぁ」
薄井さんはウロウロしながら誰にともなく話し続けている。おそらくじっと座っていられる心境ではないのだろう。けど……これ、どうしましょう、関川さん。
助けを求めて目配せすると、上役の関川さんが天使の笑みで頷いた。
「薄井社長、ちょっとご相談があるんですが」
薄井さんの背中に手を添え、ソファへとゆっくり誘導する。
「ちょっと面白い物件がありましてね」
「いや、仕事なんてしてられないよ。できるくらいなら社に戻ってるもん。何も手につかなくてさ」
こちらからしてみれば迷惑な話だ。けれど、その気持ちはわかってしまう。
「いえいえ、仕事といっても、ほんの少しアドバイスをいただけないかなぁ、なんて。ほら、気晴らしの雑談だと思って。あ、濁沼くん、お茶頼めるかな」
「はい!」
助かった。わたしが急いで給湯室に向かうと、八宇さんが後から入ってきた。
「なあ……薄井さん、珍しく喋り倒してるけど………オレって、もしかして普段あんな感じ?」
……またしても答えにくい質問だ。
「まぁ……ちょっと、似てる気もしますかね…」
本当はあの倍くらい喋っていると思うけれど、それは言わないことにした。
お茶を持って戻ると、仕事モードに切り替わった薄井さんが、テーブルに広げられた図面や写真を見比べていた。
「どうです?」
「立地は悪くない。駅からちょっと距離あるけど、バス停が近いし周辺にコインパーキングもいくつかあったはず……目を引く外観、間取りや内装も面白い。これなら色々と使えそうだ」
話しながら、社長は何やらメモ帳に書き付けている。
「そうですか、助かります。そういえばここの元オーナーさん、大腸がんで亡くなったんですよ。薄井社長もこの際ですから、検査してみては?」
「えー、俺はいいよ。病院嫌い。元気だし」
「健康は大事です、薄井社長。わたし、前職では持病を抱えて生活する利用者さんたちやそのご家族の苦労をたくさん見てきましたから…」
しまった。思わず、お茶を差し出しながら口を挟んでしまった。が、関川さんがすかさずフォローしてくれる。
「彼、ここにくる前は介護施設の職員さんだったんです。ね?」
「あ、はい。本当に大変でした。利用者さんはもちろんですが、特にご家族の皆さんが、ほんっっっとうに……心身ともに疲弊されて……」
「ははは……経験者の言葉は重いね……」
「笑い事じゃないんですよ。社長に何かあったら、困るのは蕗子さんです」
「う……うーん……フキちゃんが困るのは、それは困るなぁ」
と、その時、薄井さんが飛び跳ねるように立ち上がった。シャツの胸ポケットから素早くスマホを取り出す。
「フキちゃん? どうだった? 痛くされなかった? …いや、大人だって痛いものは痛いだろう? 僕は病院嫌いだし痛いのも嫌だけど、フキちゃんが痛いのはもっと我慢できないんだよ。…え、今? まだデビエンさんとこだけど………あ、うん。すぐ戻ります。はい、はい、はーい、ほーい」
電話の向こうから、蕗子夫人の声がかすかに聞こえた。声の調子はまるで子供を叱る母親のそれだ。
「フキちゃん検査終わったっていうから、帰りますね。長居しちゃってごめんね」
薄井さんは先ほどのメモを破り取り、テーブルに置いた。
「今思いつくのはこれくらい。後で具体案をいくつか送るから、気になることがあればウチの奥さんに……じゃないや、僕に、連絡ください。え、企画料? いいよ、そんなの。フキちゃんの病気を見つけてくれたお礼」
そう言い置いて、薄井さんは疾風のごとく去って行った。彼の年齢を考えれば、確かにすごい俊敏性だ。
テーブルの上のメモを摘み上げた関川さんが、にっこりと笑う。
「濁沼くん、またまたお手柄です。おかげで寅間邸の活用プランを入手できました。業界で評判の、大金を生み出すという『薄井メモ』。これで大儲けになるかも知れませんよ?」
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