第二話 回答『やたらとドラマチックなお婆さん』
🍻
「わざわざすみません、町井さん。でも助かります。初めてのお客さんだから、一人じゃ少し不安で」
「いや、関川さん命令だし。出社したらちょうどキミと行き違ったみたいでさ、すぐ追いつけてよかったぁ」
スカジャンのポケットに両手を突っ込んだままわたしの隣を歩く小柄な女性は、カリスマ回収人、
「あたしも一度見てみたかったんだよね、ドラバァ。
「ですね。最初びっくりしましたけど、沈黙が怖いって言ってましたね」
八宇さんには数回しか会ったことがないけれど、いつも気さくに話しかけてくれる……というか、本当にずっと喋ってる。目についたことや頭に浮かんだことを、脳みそを通さずダイレクトに口から垂れ流しているんじゃないかと思うくらいだ。
「あいつ、家でペットの爬虫類を眺めてる時が唯一、静かに黙っていられる時間なんだって」
「爬虫類……ああ、それで『
その家は閑静な住宅地に佇む豪奢な一軒家だが、よく見るとかなり古びていて、半開きになった黒い鉄製の門扉には錆びが浮いている。伸び放題の生垣に囲まれた前庭、植え込みの低木からは雑草が突き出して小さな花を咲かせていた。
「門のインターホンは壊れてるんで、直接入っていいそうです」
「八宇情報によれば、昔は舞台女優だかで羽振り良かったらしいけどねぇ…」
目地から雑草が覗く短いレンガ小道を進み、玄関のベルを鳴らす。キンコ〜ンというクラシカルな音の後に、頭上から歌うような声が降ってきた。
「ドアは空いてるわ、入っていらして」
振り仰ぐと、南側の二階の窓が開いていた。そこから顔だけ出して声をかけ、すぐに引っ込んだのだろう。
白と砂色を配した岩肌のような質感の洒落た外壁タイルは、ところどころ苔に覆われ、ひび割れて哀れを誘う。
一応「お邪魔します」と声をかけ、褪せたミントグリーンの玄関ドアを開けると、思わずため息が漏れた。
「ふわぁ、すげえ……」
「ひろっ!」
高い吹き抜けに大理石張りの悠々とした玄関ホール、大きな四角い日焼け跡が残る真正面の壁を、飴色に磨き込まれた階段の手すりが斜めに横切り、ステンドグラス越しの光を落とす踊り場で折れてさらに上り、二階の廊下へ続く。今しもその廊下を渡り階段のてっぺんに姿を見せたのが、今回の客である
「随分と恭しいご登場で。さすがドラバァ」
「しーっ」
資料によれば75歳。その年代の女性にしては背が高く、若い頃は大層優美であっただろう首筋に緩くまとめられた銀髪は豊かに波打っている。何より背筋がしゃんと伸びていて、体の線を際立たせる装いはすっきりと見栄えが良い。
「時間どおりね。あたくしもちょうど朝のトレーニングを終えて着替えたところよ」
カーペット敷きの階段を、急ぐ様子もなくしずしずと降りてくる。踊り場で一度足を止め、羽織っていた銀色のショールを芝居っけたっぷりに巻き直す一瞬、大きく開いた襟ぐりから鎖骨がのぞき、また隠れた。
「一階は靴のままでいいのだけれど、
長い腕を優雅に開き、階段の裏側を示す。
「スリッパに履き替えてくださる?」
声音といい仕草といい、その儚げな幽玄さにすぅっと取り込まれそうになる。が、隣にいる町井さんの小さな咳払いで我に返った。
「いえ、我々はここで」
「そう?」
革製のルームシューズに包まれたつま先をすっと伸ばし、そっと下ろす。バレエのような足取りで階段を下り切ると、寅間華夜は手すりに片手を添えたまま微笑んだ。
「そこの壁にはね、大きなタペストリーがかけてあったの。ここには素敵な花瓶があって、いつも花がたっぷり生けてあったのよ。お客様が休まれる小さなソファも、海外で買い集めたたくさんの置き物や飾り物も、みんなお譲りするか処分してしまったわ」
思い出を辿るように目を伏せて、彼女は滑るように階段の裏へ周り、尖ったつま先の華奢なミュールへと履き替えた。
「こちらへどうぞ。と言っても、何のお構いもできないけれど」
彼女を先頭に、わたしたちは階段の踊り場下の空間を潜って奥の部屋へ
トンネルのような薄暗く短い通路、灯りは反対側の壁に等間隔に穿たれたニッチ上部の小さなダウンライトのみ。そこへ美術品でも飾ってあれば美術館のようであっただろうが、隅の方に埃が溜まっているだけ。どちらかというと秘密基地への入り口みたいな雰囲気だ。
突き当たりを右に折れる瞬間、彼女は笑みを潜ませて僅かにこちらを振り返った。その視線を疑問に思う間もなく薄暗い通路を抜けると、そこは陽光溢れるひらけた空間だった。東南の大きな窓から部屋いっぱいに燦々と光が差し込み、目が眩む。
滑るように広間の中央まで進み出た彼女は、大きく両腕を開いてゆったりと回転し、ぴたりと止まってわたし達に笑いかけた。
「どう? 素敵なおうちでしょう?」
─── たしかに。広い吹き抜けに始まり真正面を横切る階段、薄暗い通路を潜ってこの明るい大広間へ。家の造りまでもがドラマチックだとは。
「……ここでよくホームパーティーをしたの。お友達や業界人が大勢集まってね、食べて飲んで歌って踊って。朝まで騒いで笑い疲れて眠ったわ。でもそれももう、昔のお話。大きなダイニングセットもお気に入りの食器達も、上等なオーディオシステムも。今はみんな無くなってしまった……」
くるりとわたし達に背を向け、彼女は窓の外の広い奥庭に目を向けた。
「今あたくしが持っているのは、あの人が遺してくれたこのおうちだけ」
大きな窓に歩み寄り、一瞬こちらを振り返って悲し気に笑い、また庭を眺める。
「彼の死を知らされて、少しおかしくなってしまったのね。あたくし……」
荒れ果てた奥庭を背景に、彼女は体ごとこちらを振り向いた。
「その場にあったフォークで、喉を突いたの」
「えっ」
思わず声が出てしまった。隣の町井さんも、小さく息を呑んだ。
「発作的にやってしまったのね。幸い傷は浅く、命に別状はなかった。でも……声帯を傷つけて女優生命は絶たれたわ。普通の会話程度ならできるけれど、歌えない舞台女優なんてお払い箱。ましてや死んだ舞台監督の愛人なんて、ね」
背後から強烈な陽射しを浴びる彼女の顔は翳で覆われ、かつての美しさの名残を留める面差しは侘しさを湛えて見えた。
「愛するもの、大切なものを全て失ったあたくしは、─── あ…」
わたしの反射神経も捨てたものではない。突然よろめいた彼女を、倒れる寸前で抱き止めることができた。まるで枯れ枝でも抱いたように軽くて、少し力加減を謝れば折れてしまいそうだ。
「大丈夫ですか」
「……ええ、ごめんなさい。朝のお薬がまだだったわ。最近は食事を摂るのもすぐに忘れてしまうの」
彼女を支えながら台所へ入る。コンセントを抜かれ戸棚がわりに使われている大きな冷蔵庫から、干からびかけた薄っぺらい黒パンをひと切れ。調理台の上の小型冷蔵庫から取り出したチーズをひとかけら挟む。それが彼女の朝食だった。
「この歳になるとね、これでもう十分。あとはお薬でお腹いっぱいになってしまうのよ。もしお腹がすけば、お庭に生っているグミでも摘めばいいし。もうじきブルーベリーも実るわ」
大量の薬を時間をかけて飲みくだし、彼女は穏やかに微笑んだ。
「もっと小さな家に引っ越せとも言われたけれど、あたくしここを離れる気はないの。家財もお金もない、どんなに貧しい暮らしでもいい。あの人との思い出と一緒に、最期まで女優として……ここに居たいのよ」
口元に微笑みを残したまま目を伏せた彼女の声は憂いを含み、空のグラスを握った手には力が込もる。筋張った細い指には指輪ひとつ嵌っていない。
おそらくこの家は、女優生命を絶たれた彼女にとって唯一の劇場なのだ。広いホール、開演前の客席の薄暗さ、そして眩い舞台の上。最も華やかな時代を過ごし、今や彼女と共に年老いて寂れゆく運命の、温かな思い出の詰まった離れ難い場所。だからこそ、家中のものを売り払ってでもこの家に───
「……で? だから今月の支払いを待ってくれって?」
揶揄うような声で冷や水を浴びせたのは、町井さん。見れば、彼女は小型冷蔵庫を勝手に開けて中を検分している。
「ワインを買う金はあるんじゃない。1日だって待たないよ。払わないならこの冷蔵庫ごと没収ね」
容赦のない声音に、寅間華夜はフッと笑いを漏らした。
「目敏い
さっきまでの儚さはどこへやら、寅間華夜はスタスタと軽快に歩き去っていった。
「アナタも舞台人ね」
「わかる? あたしはダンサーだけどね」
「見ればわかるわ」
「そっちこそ。病人ぶってるけど、初っ端で『トレーニングしてた』って言ってたじゃん」
「……言ったわね、そういえば」
あはは、と声を合わせて笑う二人を、わたしは苦笑いで見守るしかなかった。わかっていたのに、いつの間にかすっかり寅間華夜劇場に引き摺り込まれていたのだ。町井さんはさすが先輩、騙されなかったうえに、まだ昼前だというのにちゃっかり白ワインをご馳走になっている。
「アナタも食べる? チーズしかないけど」
「あー、あたしこれでいいや」
町井さんはスカジャンのポケットから、やはり関川さんにねじ込まれたのであろうチーズアーモンドおかきを出して、口に放り込んだ。
「うん、このチープな味が安ワインに合う」
「安ワインで悪かったわね」
「ドラバァもいる?」
「誰がドラバァよ。全く、八宇のやつ…変なあだ名なんか付けて、忌々しいったら。あら、これ悪くないわね」
「でしょ?」
チーズアーモンドおかきをつまみに白ワインを楽しんでいる二人を残し、わたしは大人しく、無事に回収した現金を持って社に戻った。
ドラバァ、もとい寅間華夜さんの訃報に接したのは、その4日後のことだった。
救急車で病院へ運ばれ、数時間後に亡くなったのだ。その間付き添っていたのは、なんと八宇さんだったという。
「具合が悪いから来てくれ、って呼び出されたんスよ。急いで行ったら床に蹲って苦しんでてさ、末期の直腸がんだったんだって。慌てて救急車呼んで、そのまま入院。で、何でもいいからしゃべってくれって言うからいつもみたいにくだらない話をダラダラしてたら、あのドラバァ、いつの間にか死んでやがった。人に散々しゃべらせといて幸せそうな顔しやがって。最期の最後までどんだけドラマチックなババァだ、全く……」
八宇さんはいきなり黙り込み、そのまま席を立って蛇革のジップアップジャケットを掴んで部屋を出て行った。いつもの調子で延々と喋るかと思っていたのに。
「……ドラバァ、なんだかんだで八宇のこと気に入ってたんだよ」
ポツリと漏らしたのは、町井さんだ。
「あの後あたし、ドラバァのレッスンルームで稽古つけてもらったのね」
「ああ、ワイン飲みながら…痛っ!」
脇腹をどつかれた。関川さんからは見えない角度で。どうやらあの日の飲酒については秘密らしい。
「『おチビにはおチビなりの魅せ方がある』ってさ。壁一面鏡張りでレッスンバーが置いてあって、立派な部屋なんだ。そこで以前、八宇と『ヤモリの動き』を研究したんだって、楽しそうに話してたよ。『このあたくしに、一切の妥協を許さない演技指導を付けてきた』って」
関川さんがスマホを内ポケットにしまいながらやって来た。
「電話、社長からでした。寅間さん、町井さんのことも気に入ったみたいですね。例のレッスン室、自由に使っていいそうです」
「へ?」
町井さんが素っ頓狂な声を上げる。
「あのお屋敷、ウチが譲り受けることになりました。売却後に返済額を差し引いて、あとはウチで提携してる児童養護施設に寄付する取り決めになっていたとか。寅間さんと社長との間の話なので、私もそれ以上はわかりませんが……とにかく、屋敷を取り壊すまではウチの社員は出入り自由。欲しいものがあれば勝手に持って行け、と」
「……死んだ後まで泣かしにかかるなんて、反則じゃん」
町井さんが涙の滲む声で呟いた。
結局一度しか会わなかった、寅間華夜さんの最期に想いを馳せる。
言動がいちいち芝居がかってはいたけれど、彼女の言葉に嘘はなかったのだろう。抱き抱えた時の枯れ枝のような心許なさは、病気のためだったのだ。
金もなく友人も去り、家政婦や庭師も雇えなくなって。荒れていく家に独り、人恋しくなってウチから金を借りたのかもしれない。定期的に回収人が会いに来るから。
お気に入りの八宇さんのおしゃべりを聞きながら、眠るように亡くなった寅間さん。一体、どんな気持ちで……
「ドラバァ、病気が見つかるまでは結構楽しくやってたんだって。葬式は『元カレ達』で賑わうんじゃない?」
「往年の、恋多き女優ってやつですね。恋人と別れるたびにウチで借金しては散財してたらしいですね」
……しんみりした気持ちを返せ、ドラバァめ。
彼女の言葉は、一体どこまでが本当だったんだろう。もうそれを知る術もないけれど、その必要もない気がした。
現実と虚構を華麗に操り、彼女は最後までドラマチックに生きた。八宇さんの名付けた『ドラマチック・ババァ』なる称号に相応しい幕引きだったと思う。
わたしはポケットに残っていたチーズアーモンドおかきを口に放り込み、噛み砕いた。おかきは湿気っていた。
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