第十膳回答・後編『とっておきのデザートをキミに』

 ヒト型を成すもやへ、キクさんの連打が炸裂する。靄が倒れる様子はないが、ダメージはあるのだろう。靄の輪郭が歪み、所々が薄れて全体が斑らになっていく。


「キクさん、見えた!」


 特大の右アッパーを決めたキクさんが飛び退ったと同時に、ヒト型の左肩を斬り下ろす。腕らしき部分が転げ落ちる。


「よし! …え?」


 床に落ちた腕が、空中にふわりと浮いた。そして元通りにくっついてしまう。


 まだだ。もう一箇所、靄の薄い所を狙って薙ぎ払う。左膝から下が切り離され、ヒト型がよろける……が、落ちた足はまたくっついてしまった。


「しぶといアッシーだねぇ」


 ぼやきながら、キクさんがまた突っ込んでいく。今度は拳ではなく、助走をつけてのミドルキック。からの、打点の高いローリングソバット! 靄がゆらりと歪んだところへ、渾身の右ストレート! よし!

 踏み込もうとした瞬間、「セッキー、右腕!」とテンが叫んだ。反射的に体が動き、気づいたら刃が右肩を切り裂いていた。背後から物影が飛び出し、切り離された右腕に飛びかかる。

 降り立ったのは、何か赤いものを咥えた仔狐。


「テン!」


 わたしの横を飛ぶようにすり抜けて箱の陰に隠れ、テンは少年の姿に戻った。跪いて両手に赤い櫛を包み込み、「しのちゃん、しのちゃん……」と呼びかける。



「赤い櫛! 志乃ちゃんの依代か…!」

「はぁ〜ん♪ そういうことね。依代の確保はアタシに任せて♫」


 ケイさんが踊るように進み出て、わたしの背後に陣取った。キクさんと目を見交わし、頷き合う。いける!


 キクさんのヒット&アウェイ。わたしが靄の薄まった所を狙い、斬り離す。すかさずケイさんの鞭がひゅんと呻り、依代を絡め取る。

 この連携を繰り返し、ケイさんの元に依代が集まっていく。相手はその度に斬られた手足を再生していたが……


「なんか、ちっちゃくなってなぁい?」


 ケイさんが指摘した通り、最初は2メートル以上あったヒト型の靄は身長170センチくらいに縮んでいる。身に纏っていた霊体を削ぎ落とした分、縮んだのか ──

 と、靄は体を捻るような動きを見せた。ジリジリと体を捩り……変化へんげしたのは、大蛇の形。


 靄はヒト型を取るのをやめた。いくつもの霊体が撚り合わさってしまい、これでは分断できない。大蛇は身をくねらせたかと思うと、テンに向かって飛んだ。大きく開けた口の中で鋭い牙が光った。

 斬ってはいけない、罪のない霊体や神様を地獄に落としてしまう…とよぎった時には既に、体が動いていた。テンには1ミリだって触れさせない。

 が、振り下ろした刀は空を切っていた。キクさんが蛇の尻尾を掴んで引き戻したのだ。そのまま高く振り上げて、床に打ち付ける。


「やぁん♡ 痛そぉ」

 背後でケイさんが呟いた。声が妙に嬉しそうだ。


 叩きつけられながらも、蛇は尻尾を掴まれたまま伸び上がり、キクさんに巻きついてその身体を締め上げ始めた。ギリギリと嫌な音がする。まとっていた複数の霊体が無くなったからか、ヒト型の時より動きが速くなっている。


「キクさん!」

「ん〜、困ったわね。これじゃキクさんごとるしか……」


 こちらを挑発するように、蛇は二股に分かれた舌をしきりにチロチロさせている。

 迂闊に手出しできず、唇を噛む。焦りで脂汗が滲んだ、その時。キクさんがフッと笑った。


「打撃だけだと思ったかい? 今ドキのババアを見くびるんじゃないよ」


 蛇に巻きつかれたキクさんの身体が、僅かに膨張した。


「はぁあああああ……」


 低音の吐息と共に、キクさんの筋肉がビキビキと膨れ上がっていく。


「ハアッ!!」


 掛け声と同時に、蛇が弾け飛んだ。キクさんが筋力で蛇を引きちぎったのだ。ボロボロと、いくつかの依代が足元に転がり落ちる。

 かんざしや手鏡、勾玉などを素早く拾い集めてケイさんに託した時には、蛇も黒い靄も消え失せていた。


 これで斬れる。

 目の前にあったのは、ニヤニヤといやらしく嗤う一人の男の姿だった。



 🍻



《あ〜あ。せっかくデカくなったのになぁ》


「……一応聞いておく。反省して改心し、成仏する気はあるか?」


 観念したのか、男は攻撃する風でもなく力を抜いて立ち、曖昧に腕を振った。


《改心? なんでだ? 俺は目の前にある美味いものを喰っただけ。カミサマは格別に美味かったぜ。最初はちっさいカミサマから狙ったんだ。長年愛され続けてついに神様になった、付喪神ってやつさ。大事に大事に育てられたからかな、素朴で素直な味わいだったな。へへへ…》


 こ、こいつ……神様の食レポをしてやがる……


 バキッ!! と床が鳴った。ケイさんが振るった鞭が、床板を割ったのだ。ツカツカと踏み込んで頭の上で大きく鞭をしならせ、男に向かって振り下ろした。先ほどの蛇を再現するように、真っ赤な鞭が男の身体にぐるぐると巻きついて自由を奪う。それでもなお、男はニヤついたまま話し続けた。


《そっちのキツネ小僧が持ってる赤い櫛の神様、あれなんか最高だったな。綺麗で純粋で、優しい味がするんだ。俺にじわじわ喰われながらさ、こう、泣くんだよ。『テン、ごめんね。天狐になるまで一緒にいるって、一緒に立派な神様になろうねって約束したのに。ごめんね…』ってさぁ。たまんないね》


 わざとらしい作り声にカッと血が上り、思わず刀を握り直した瞬間。視界の端に、テンが飛び出したのが見えた。スローモーションのように床を蹴り、少年から狐の身体に変化していく。男に飛びかかるまでの一瞬の間に、髪の下から耳が飛び出し鼻先が尖っていって、衣服は体毛に変わり、手足は獣のそれになった。

 テンは男の首に噛みつき、引き倒した。噛みついたまま首を振り、唸りながら深く牙を突き立てる。


「テン! やめろ!」


 テンの金色の眼が、朱に染まっていく。背中の毛は逆立ち、明るい狐色だった体毛が黒ずんでいく。



「ヤバいぞ、このままじゃ天狐どころか妖怪か悪霊の類になっちまう」


 言われなくても、見ればわかる。今までのテンからは想像もできない、禍々しい殺気を放っているのだ。


「テン、駄目だ! ソイツから離れろ!」


 男は首に噛みつかれたまま、ガラガラと嗤った。


《いいぞ、そうだ! いかれ! 憎め! 魂を真っ黒に染めろ! ありったけの憎しみを込めて、俺を喰い殺せ! 地獄へ道連れにしてやるぜえ!》


 駄目だ、駄目だ、駄目だ! そんな……


 刀が落ちる音がした。気づけばテンの隣に跪き、必死で呼びかけていた。


「テン、いいか。 落ち着いて、よく聞くんだ。ソイツはくだらない奴だ。ただの腐ったゴミ、それ以下だ。だからテン、お前は、殺したりしちゃ駄目なんだ」

《うへへへ、殺せよ。俺が憎いだろう? 憎しみに満ちた魂ってのは食うと不味いが、見てる分には最高だ。こんなに面白いことは無え》


 男を殴って黙らせたいが、下手をしたら……もしこのタイミングで死なせてしまったら、テンが男を殺したことになってしまう。


《憎め、恨め。そして堕ちろ。俺は、 お前の大事なシノちゃんを喰ったんだからなぁ》


 テンの唸りが大きくなり、怒りが昏い熱となって放たれる。身体がブルブルと震え、逆立った背中の毛がさらに膨らんで……まるで破裂したみたいに妖気が一気に噴出し、テンの尻尾が二本に別れた。


「テン、頼む。やめてくれ。堕ちちゃ駄目だ。いくら憎くても、相手が悪霊でも、お前は殺しちゃいけない。そんなことは僕がやる。それは僕の、セッキーの仕事なんだ」


 必死で宥めながら、祈るような思いで頭や背中を撫でさする。もう、駄目なのか? 無理なのか? 嫌だ、駄目だ。テン、お願いだから……


《ケケケケ。テンさんよぉ、お友達が泣いてるぜ。おもしれぇなぁ、全部俺のせいだなぁ。お前の大事なお友達、セッキーがめそめそ泣いてるぜぇ》


 テンの憎悪を掻き立てようとする男の声が弱くなってきた。限界が近い。ああ、テン……



 フッと霧が晴れるように、妖気が消えた。咥えていた男を離したテンは一瞬で少年の姿に変化して立ち上がり、金色に戻った瞳で男を見下ろした。


「その名前で呼ぶな」

《……はぁ?》


 拍子抜けした顔で、男は間の抜けた声を漏らす。わたしもただ呆気に取られ、テンを見つめていた。


「『セッキー』は、友達同士の呼び名だよ。お前なんかが、その名前を口にするな」


 声を上げることも忘れ、わたしはテンを胸にかき抱いた。膝立ちのまま、小さな体を固く抱き締める。後から後から熱い涙が流れ落ちて、テンの薄い肩を濡らす。


「テン、えらいぞ。よくやった」

「……うん。だって、あいぼーだからね」



 🦊



「さぁさぁ、お二人さん。戻ってきて。まだ仕事は終わってないのよ?」


 ……そうだった。すっかり忘れていた。いつまでも抱き合ってる場合じゃなかった。


「テンちゃん、その櫛…志乃ちゃんの櫛を、ちょっと貸してもらえる?」


 ためらうように、テンは赤い櫛を胸に抱いた。


「でも、志乃ちゃん……」

 不安げな上目遣いでじっと見つめられて、ケイさんの表情がとろける。うん、気持ちはわかる。


「そう。志乃ちゃんにね、霊力を戻してあげるの」

「できるの?」

「任せて。アタシ、回復担当だもの♡」


 テンの手の中からそっと櫛を取ると、ケイさんはそれを他の依代とまとめて床に置いた。

 そして、鞭で巻かれ床に倒れている男を見下ろしピンヒールで踏みつける。


「さぁて。今からアンタの霊力、ぎっっっちり搾り取らせてもらうからねえ。覚悟はいいかい?」


 男は弱々しい声で、それでもまだニヤニヤ笑いながら話し始めた。


《……この世にはなぁ、人の幸せが何より憎いって奴がたくさんいるんだ。俺が消えても、神を喰らう力をくれるがいる限り、神喰らいはまた起きる。一度神を喰らったら、もう止められねえ。美味い神を求めて、奴らはどんどん強くなる。そんで美味いもん神様をたくさん喰うほど、人間は不幸になってく。へっ、ざまあみろ》


「あの方、ってのは誰だい? どんなやつさ」


 しゃがみ込んだキクさんに、男がぺっと唾を吐く。が、キクさんはそれを余裕で避けた。


《教えるわけねえだろ。せいぜい想像して怯えてな》

「あー、そうかい。ケイ、やっちゃっていいよ」


 男を巻いた赤い鞭から、ジャキンと無数の棘が生えた。鞭がドクドクと脈打ち、男の霊力を吸い取っていく。


《へへへ。やべえな、これ。力が抜けてくぜ……まぁ、死刑の瞬間たまたまとり憑けただけで、元々地獄堕ちだった身だしな》


「いや」

 わたしは男の言葉を遮った。


「行き先は変更だ。地獄なんてリゾート施設だと思えるような場所へ送ってやるよ」


《はぁ? 地獄より酷いところなんて…》

「あるよ。寒くて深い闇に閉ざされ、何も見えず何も聞こえず何も触れず、一人きりで永遠の飢えと乾きに苦しむ。お前が行くのは、そんな場所だ」

《そんなの聞いたことねえぞ》

「想像してみな。狂うことさえ許されない、永遠に続く究極の……苦痛と、孤独」


《い、嫌だ……そんなの……》



 足掻きも虚しく、男は全ての霊力を吸い取られた。うねる赤い鞭の中からカランと転がり落ちたのは、血まみれのナイフ。男の依代だ。

 わたしが刀を突き立てると、それはただの土塊となった。ケイさんがその土塊を蹴り飛ばした。


「はぁい、一丁あがり。で、次は……」


一箇所にまとめた依代の周りを、太く脈打つ鞭でぐるりと囲む。


「あーあ、この霊力、このままアタシが吸収しちゃえればなぁ……見た目、10歳は若返れるのにぃ」

「10歳ぐらい、どうってことないだろ」

「キクさんはそうでしょうけどぉ、アタシが10歳若返ったら、そりゃもうピチピチよ?」

「いいからさっさと…」

「ケイさんは、今のままで充分素敵ですから」


 満更でもない風で、ケイさんが鞭から霊力を放出した。寄せ集められた依代たちが、ぼうっと淡く光った。



 🍻



「じゃあ、テンちゃん。そろそろ行こうか」

「……」


 コマさんと手を繋いだテンが、涙目で俯いている。


「セッキーも一緒がいい……」


 霊力を注がれた志乃ちゃんはなんとか復活したものの、体は掌サイズに縮み、しかもまだ眠っている。コマさんの神社で霊力を回復させてから、テンと共に全国の神社を巡る修行の旅に出ることになった。全てコマさんの計らいだ。



 わたしは跪いて、テンと目線を合わせた。


「テンは志乃ちゃんと、立派な神様になる。そう約束したんだろ?」

「うん……」

「友達との約束は、破っちゃいけない」

「うん……」


 テンは顔をくしゃくしゃにして、涙をポロポロ流した。わたしだって泣きたいけれど、精一杯の痩せ我慢で励ますように笑ってみせる。


「セッキーは一緒に行けない。ここでやらなきゃいけないことがあるんだ」

「……この辺の神様がいなくなっちゃったから、代わりにセッキーが守る」

「そう。ちゃんとわかってるじゃないか」


 涙を拭うこともせず、テンがしゃくり上げる。抱きしめてやりたいけれど、やっちゃ駄目な気がする。ここはキッパリと、送り出すべきだ。

 涙を拭ってやり、ありったけの思いを込めてテンの頭をくしゃくしゃと撫でた。テンが瞳の乾かぬまま、「いひひ」と笑う。


 テンは自分の頭をペタペタと撫で付け、狐の耳をしまった。後ろを振り返り、尻尾も撫でる。


「2本になっちゃった…」

 そう言いながら、ちゃんと2本の尻尾もしまう。


「テン、志乃ちゃんといってきます」

「よし、いい子だ。志乃ちゃんをしっかり守れよ」

「うん」

「これを持っていきな。日持ちするデザート、テンスペシャルの『油揚げラスク』。甘くって、バターの香りたっぷりで美味しいぞ」


 いつものように「テンすぺしゃるぅ!」とはしゃぐ代わりに、テンは真っ直ぐにわたしを見つめ、唇を引き結んで頷いた。金色の瞳は濡れているが、涙はもうこぼさない。


「セッキー、ありがとう」

「こちらこそ、たくさんありがとう」

「また、会える?」

「もちろん。旅の途中でこの近くまで来たら、志乃ちゃんも一緒に遊びにおいで。それまでにこの祠もうんと綺麗にしておくから、みんなで美味しいものでも食べよう」

「……うん。やくそく」

「そう、約束だ。またな、相棒」


 テンは得意げにニヤッと笑った。


「またね、あいぼー!」



 🍻


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