第29話
北木 里枝は学生であると同時に社会人でもある。お金を払って学業をして、仕事をしてお金を貰っている。しかもちゃんと両立させているのだから大したもんだ。学生はともかく、大人気声優なんてのは狙ってなれるものではないだろうし、今に至るまできっと数えきれない程の苦労をしてきたのだろう。すげえな北木 里枝!立派だぜ!でも悲しいかな、憧れたりはしない。なぜなら俺、声優に興味ないから。
そんな俺が北木 里枝のライブのリハーサルに招待されてしまったのだから世の中って本当に何があるのか分からない。思えばこんなことばっかりだ。自分自身のこと。恩人との日々。花坂との出会い。まさに『事実は小説よりも奇なり』!
さて、ライブのリハーサルは本番と同じ場所で行われる。楽屋を出て廊下を歩き関係者専用のエレベーターで階を移動して再び廊下を歩くと今夜の会場、『大ホール』に到着した。ステージ裏の狭い通路からステージに立つ。
「……おおっ!」
俺の中のライブ会場のイメージというのは、高校の体育館をより広大にしたものだったのだが、ここは違った。ステージこそ体育館に似ているが、正面に広がる客席の多さに圧倒された。真っ赤で座りごごちの良さそうな固定席が扇状にずらりと並んでおり、ぐいっと見上げると馬蹄形のバルコニー席がサルノコシカケのように壁から生えていた。しかも滅茶苦茶多い。
合計で2500もの客席の全てがこのステージをしっかり観られる構造故に、客席から浴びることになる視線のことを考えると、想像だけでくらりときた。
耐えかねて意識と視線をステージの方に向ける。均等に並べられたスピーカー。真ん中に立つスタンドマイク。そして俺たちを照らす照明。
「……ステージは思ったよりもシンプルなんだな」
「音源は録音だから楽器はいらないの。生演奏だったらもっとごちゃごちゃしてるし、リハも今回以上に念入りにやらないとだから大変大変!だからね、こう言っちゃなんだけど私は歌だけに集中できる今回のライブの方が好きかな。もちろん生演奏は生演奏で楽しいけどね、やることが多いと色々大変なのさ」
「ふーん。俺には一生縁のない苦労だな。それよりもリハーサル中、俺はどこで何してればいい?」
「好きな客席に座って私のこと見ててちょーだい。見てて、聞いてて違和感感じたら遠慮なく言ってくれていいから!」
「分かった」
頷いて、ステージから飛び降りる。結構な高さがあったが、ひょっとしたら乱心した客が簡単にステージに上がって来れないようにするためなのかもしれない。真相は知らない。
難なく着地した俺は最前列の中央という贅沢な客席に腰をおろし、ステージを見上げた。最前列だがステージからはかなり距離があり、高さもあってか丁度見やすい位置に北木 里枝がいた。なるほど、この距離とあの高さは客に見やすいステージを提供するためのものだったのか!凄いや四季の音芸術劇場!
これが本当かどうかは知らないが、とにかく観客に快適な時間を提供しようとする四季の音芸術劇場の姿勢に感動していると、北木 里枝の美声が凄まじい大音量で響き渡った。
「あーあー、ただいまからリハを開始しまーす!!」
腹の底まで震えるような大声量に驚いた俺は、危うく肘置きを握り潰しそうになった。し、心臓と鼓膜に悪いぞこれは……。
胸を押さえる俺をよそに、照明に照らされた北木 里枝は続ける。
「今回はスペシャルゲストとして……えーっと、君、なんて名前!?」
「海野 美羽ー!!」
驚いた隙を突かれたものだから反射的に名前を教えてしまった。個人情報を大声で暴露してしまったのは不覚だが、相手は社会の荒波に揉まれ続けた『プロ』である、悪用されることはないだろう。……それよりもだ。
「マイクの音量!!大きすぎじゃないかっ!?」
「そんなことないよ!!そう感じるのは君がライブ初心者だからだって!!すぐに慣れるよ!!」
腹の内側が震えて鼓膜がビリビリするが、耐えられない程の不快感はない。彼女の言う通り、すぐに慣れるだろう。……まあ、この広大な会場いっぱいに音を届けるんだ、これくらい煩くないとダメなんだろう、などと自分を納得させた俺は大声で返事をした。
「それじゃあ改めまして!今日はスペシャルゲストに海野 美羽君が来ていまーす!!この業界について一切を知らない稀有な人物ですが、見ず知らずの私を助けてくれた善人君です!!彼がいなかったら私は今ここに立ってられなかったかもしれません!!ありがとーっ!!リハが終わったらお礼に一曲歌っちゃいますのでよろしくお願いしまーす!!」
北木 里枝に当たっていた照明が俺に当たる。やだ眩しい……。シッシッと追い払う手振りをすると眩しいのは北木 里枝の方へと戻っていった。どういう原理だろう?
…………。
北木 里枝のライブのリハーサルは凄く簡単なものだった。彼女の動きに合わせて照明が動くどうかの確認。マイクの音に雑音が乗っていないかの確認。演奏を流した時のスピーカーのバランスの確認と、時間にして5分も掛からなかった。まったくの素人の俺ですら、こんなんでいいのかって疑問に思ってしまうほど、呆気のない終わり。
「オッケーでーす!!」
北木 里枝がそう言いながら両手で大きな丸を作る。俺は思わず訊いてしまった。
「オッケーなのか!?」
「うんっ!バッチグー!!流石スタッフさん!!ナイスお仕事!!」
「なんかもっとじっくり時間をかけてやるものかと思ってた!!」
「そういうのはもっと前に準備していたので大丈夫なのですよ!!っていうか海野君、声量すごいね!!マイクないのに普通に聞こえるもん!!」
だって『曰く付き』だもん、とは口が裂けても言えない。言ったところで分かるはずもないのだが、とにかく言えない。なので適当に誤魔化しておいた。
「声帯には自信あるんで!!」
「声がでかいのは良いことだよーっ!それじゃあリハーサルが終わったことなので!今からは海野君に恩返しライブを行いたいと思いまーす!!」
「はーい!!」
リハーサルが終わったらお礼に一曲歌うと言った北木 里枝が宣言通りに曲を歌う。それは彼女のラジオで流れる主題歌で、俺が唯一知っている北木 里枝の曲であった。普段聞き流しているラジオの曲なので歌詞とは覚えていないが、どんな感じの曲だったかは分かる。全く知らない曲よりも知っている曲をチョイスした北木 里枝の配慮を勝手に感じた俺は、プロの仕事のきめ細かさに感動した。
肝心の曲の感想はというと、とてもよかった。どこがどうよかったのかは言葉に出来ないが、胸の奥で熱いものが渦巻き出して、血液が全身を巡って指の先まで熱くなって、生の歌声を巨大なスピーカーでぶつけられ、頬の筋肉がブルブル震えて舌の付け根が締め付けられて脳の普段使わないところをズブズブ刺激されて、しまいには泣きそうになったくらいにはよかった。これがライブ。これが生歌!こんな感覚、生まれて始めてだ!こりゃあハマる人も続出するわけだ。
そういうわけで俺は北木 里枝に盛大な拍手を送った。彼女はしてやったりとでも言いたげにニカッと笑い、Vサインをこちらに見せつけるのだった。
みうとうみ 次郎七式 @iidagrow
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