第22話

秋鳴りは山と大自然があり、春鳴りには人と物資が多くあり、冬鳴りには海がある。そうなると、夏鳴りも何かあるんじゃね?となるかもしれないが、夏鳴りという場所は何年か前に春鳴りと合併したので、あるといえばあるし、ないといえばないということになる。



で、冬鳴りについてだが、あそこは都会とも田舎とも呼べない中途半端な町であり、春鳴りから各駅停車の電車で10分程の場所にある。用がないので俺は冬鳴りには行ったことがないが、まさかこんな形でここに訪れることになろうとは、いったい誰が予想できただろうか?少なくとも俺はできなかった。



「美羽さん海です!海ですよ!私の下の名前のことではなく、正真正銘本物の海ですよ!ひゃーっ、海って人生初なんですよ私っ!」



花坂が耳元ではしゃぐ。10分間程の超高速飛行を味わい尽くしてげんなりな俺はのっそり頷いた。眼下には確かに海が見える。そして海岸も見えた。雲の上からジッと見下ろしてみると、地上に誰もいないことが分かった。光源は海沿いの車道に均等に並ぶ街灯のみで、民家はちらほらあるものの灯りがついている家は一軒もない。まだ日付も変わっていないというのに。まあ俺たちには好都合なのでありがたいことではあるのだが、なんというか、すごく寂しい所だ。



「見た感じ人はいなかったから、浜辺にゆっくり着地してくれ」


「はーい!」



俺の指示に従って花坂がゆっくり高度を下げ始める。次第に鼻をツンと突くような潮風の香りが強くなっていき、同時に波の音も大きくなっていった。今が真昼で真夏だったら俺のテンションも上昇していたことだろうが、悲しいかな、今は春で真夜中だ。



そりゃあ『なんだか無性に海に行きたくなって来た!!』とは言ったけどさ、何も本当に行くことないじゃないか。ていうか行くことが分かっていたら水着の一着くらい用意したっての。ワンピース姿の花坂はともかく、ジャージって……。



そんなこんなで誰もいない砂浜に降り立つ。ふかふかの砂に足を置き、おぶっていた花坂をおろした途端、彼女は翼をしまい海に向かって駆け出し、両手を上げて思いっきり跳躍した。



「海でーすっ!!」



足を曲げて大きく飛び跳ねる花坂。長い水色の髪が風を含んでふんわりとふくらみ、ワンピースの裾もふくらむ。人間離れした高さのジャンプをしたことも相俟って、彼女の後ろ姿がとても幻想的な一瞬に見えた。目を奪われてしまった。



着地した花坂が振り返ってこちらを見て笑う。常人ならその表情を読み取ることは不可能な暗夜の中で、嬉しさをいっぱいに湛えた満面な笑顔は、『千里眼』を抜きにしてもとても眩しく映った。つられて俺も笑う。心の中を埋め尽くしていた疲労感が音もなく消えていくのが分かる。気がつけば俺も花坂と同じことをしていた。



「海だーっ!!」



駈けて、跳んで、着地する。しかし実際は俺が思っていた以上の飛距離を叩き出してしまい、着地ではなく着水をしてしまった。腰から下が海水まみれになる。塩水が飛び跳ねて目に入る。花坂が慌てて駆け寄る。



「だ、大丈夫ですか美羽さん!?」


「全然大丈夫!!」



心配する花坂に親指を立てる。春の海は思っていたよりもぬるく、極寒の空を移動して来た俺にとって、むしろ温かく感じた。水浸しになったジャージが肌にへばりつく。普段なら間違いなく不快に感じるそれが、今では不思議と気持ちよく思えた。むくむくと高揚感が湧き上がってくるのが分かる。日常では決して表に出してはいけない強い感情だが、『曰く付き』しかいない今だったら別に隠す必要はない。俺はここぞとばかりにもう一度叫んだ。



「海だーっ!!」


「み、美羽さんが壊れました……」



下半身を海水で隠し、タガが外れたようにケラケラ笑う俺に花坂はドン引きしていたが、何か感じるものがあったのだろうか、段々と先ほどのような笑顔になっていき、ついには俺の元へと近づいて来た。



「こうなったら私も入水ですっ!せっかくの海なんですから入らないと損です!」



靴も脱がずにバシャバシャと音を立てて海に入る花坂。すらりと伸びた脚が、腰まで伸びた髪の先が、紺色のワンピースの裾が海水に浸り、花坂の美しさに艶を充てがう。見るものを魅了する大人びた全身と子どものように無邪気な笑み。俺は再び目を奪われた。心臓を飛び跳ねて血が駆け巡る。頭の中が鋭い熱で満たされる直前、俺は咄嗟に海中に潜った。



海水の冷たさが熱を奪っていくのを感じながら左目を開ける。滲むような痛みが眼球を覆ったが、『曰く付き』故にすぐに慣れた。目の前には花坂の脚が鮮明に見えた。かき消された脳内の熱が再燃するのが分かった。静かな海の中で心臓の脈打つ音が耳の奥で鳴り響く。なんだかいけない気がして慌てて立ち上がると、今度は目の前に花坂の顔が現れて、彼女のきょとんとした顔にドキドキした。



「ど、どうしたんですか?」


「あ、あー、初めての海に舞い上がっちゃったって感じ?」



正確には初めて見る花坂の姿に舞い上がっちゃった感じなのだが、それを正直に声に出すのはとても恥ずかしいことなので誤魔化しちゃった感じな俺に、花坂は呆れたように笑った。その笑顔がまた可愛くて、思わず目を逸らしそうになったが、花坂の美貌にいちいち狼狽えていたら話にならないのでグッと堪えた。



「もう、美羽さんったら……。ま、私も人のこと言えませんけどねっ」



花坂は弾んだ声でそう言うと、俺に向かって両手で掬った海水をかけてきた。彼女が暗闇に慣れて来たことと、『曰く付き』がもつ非常に高い身体能力が重なって、海水は正確に俺の顔面に向かって飛んできた。このまま当たってやってもいいのだが、それで馬鹿にされたら悔しい。なので上半身だけを倒して海水を避け、続け様に右足で海水を思いっきり蹴り上げた。結果、海水は俺に当たらず、まだ濡れていない花坂の上半身をびしょ濡れにしたのであった。



「ぷはっ!え、なななにが起こったんですか!?」


「お前の海水を避けた後、お返しに海水をかけただけだ」


「しまった!美羽さんには千里眼があるんでした!」


「それに加えて『共通能力』がもたらす常識を遥かに逸脱した身体能力をもってすれば、お前の海水を避けることなんて造作もないってわけよ!」


「むむむっ、こういう時は避けれると分かっていてもわざと当たるべきです!そして私を愉快な気持ちにさせるのです!」


「そうなると俺が愉快じゃなくなる!」


「美羽さん、いいですか?世の中にはレディーファーストという言葉があります。女性を尊重して、優先するという意味です。美羽さんは男性で、私は女性です。つまり、この場合においては美羽さんは自分が愉快になることよりも、私を愉快にさせることを優先すべきなのです。分かりますか?」



聞き分けの悪い幼児を優しく諭すように、ゆっくりとした口調で言う花坂。おいその目を何度もパチパチさせるのを止めろ。なんか腹立つ。というかレディーファーストという言葉は今でこそ女性を尊重するという意味だが、昔はその逆の意味で使われていたとかいないとか。男女平等が叫ばれている現代で都合の良い時だけ都合の良い言葉を使うんじゃないよ、まったく……。



腹が立った俺は返事の代わりにもう一度足で海水を蹴り上げた。



「ぷはっ!ちょ、ちょっと美羽さんどうして今の流れで私が水を被る展開になるんですか!?」


「そのデカい乳に手を当てて考えてみるといい!」



そうしてもう一発お見舞いしてやろうと右足に力を入れた瞬間、現在地から500m程離れた所にある民家の灯りがつくのが見えた。深夜にはしゃぐ俺たちを不審に思ったのか、それとも他に何か訳があるのかは分からないが、もし理由が前者だった場合、非常にまずい。高校生が夜遅くに海で遊んでいることがバレて、通報でもされようものなら警察や学校から大目玉をくらうはめになるだろう。そうならないためには早急にここから離れなければならない。



「ずらかるぞ。声を出すな翼も出すな」


「えっ、ちょっ」



俺は花坂に詰め寄り抱えあげ地面を蹴って跳んだ。そして一蹴りで砂浜を跳び越えて海沿いの車道に出ると、足音を立てずに、かつ迅速に冬鳴り海岸から離れた。逃走中に遊具のない小さな公園を見つけたので、そこの木の茂みの中に身を隠した。



「……ここなら大丈夫だろう。でもあんまり騒ぐなよ、近くに何軒か民家がある」



抱えた花坂に小声で伝える。見ると彼女はげんなりしていた。ちょうど先ほどの俺みたいだ。



「急に跳び出して悪かったな。でもこの時間にあの場所で俺たちの姿が誰かの目に触れるのはマズイだろう?」


「そ、それはそうですけど、あんまりにも突然だったので驚きが今になって追いついて来ました……」



ふう、とお互いにため息を吐く。冬鳴り海岸から慌てて逃げてきたからここがどこだかは分からないが、そんなに離れてはいないだろう。耳をすませば波の音が聞こえてくるし。



「それにしても凄いスピードでしたね、美羽さん。まるでジェットコースターみたいでしたよ」


「まあ、『曰く付き』だからな」


「いやいやいや、私も『曰く付き』ですけど美羽さんみたいに人を抱えて高速で走ることは出来ないです」


「いいじゃないか、お前は人を抱えて空を飛ぶことができるんだからさ」


「それなんですよ。ほら、私は翼を出せるので飛べます。でも美羽さんは、外見はただの人間で、ジェットコースターみたいに速く走れるようにはとても見えません。なんというか、説得力がないんです」


「説得力、かー。まあ、そんなもんないわな。一見ただの中肉中背男子高校生だもんな」


「どこにでもいそうな見た目してますもんね。漫画ならモブキャラですよ」


「あんま酷いこと言うとここから突き落とすぞ」


「冗談です、冗談っ」


「まったく……俺は結構繊細な心を持っているんだから、もう少し発言には気をつけてほしい」


「よっ、イケメン!」


「見え透いたおべっかも俺の心を傷つけるということを覚えておいてほしい」


「気難しい人ですねえ……」


「うっせー。それよかもう今日はお開きだ。帰って風呂入って全身の塩水を洗い流さないといけないし、少し疲れたので寝たい」


「そうですね。明日、というか今日も普通に学校ありますし。家まで送って行きますよ」


「サンキュー」


「これが本当の『おんぶに抱っこ』ですっ」



木から降りて周囲の目を気にしながら花坂をおぶり、上昇する。海水まみれの全身に深夜の空の冷気は酷くこたえたが、耐えられない程ではなかった。それから花坂は俺を金成さんの家の前で下ろすと、自宅へ飛んでいった。



突然、海へ行った。この予期せぬ小旅行はとても楽しかったし、憧れていた本の内容を現実にしてくれた。花坂も楽しそうだった。海にいた時間は短かったので、もし今度あそこへ行くことがあったら、その時はちゃんと水着とタオルを用意しよう。



そんなことを思いながら銭湯へ入る。そうして深夜に唐突に現れた俺に、たまたま起きていた金成さんは大いに驚いたのであった。



「ど、どうした美羽!?3時だぞ!?あとなんでそんなに水浸しなんだ!?つーかちょっと凍ってないか!?」


「若気の至りです!深く訊かないでください!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る