第20話
いつだったか、見上げると目が覚めるような青空を飛ぶトンビが見えた。遠くから聞こえる鳴き声はなんだか楽しそうに聞こえて、両翼を広げて大きく旋回する様はとても気持ちよさそうに思えた。広大な世界を見つめながら優雅に飛翔する。それはきっと天にも昇る心地なのかもしれない。
そう思っていたのは過去の自分。花坂と出会うどころか、男とも出会っていなかった昔の俺のことだ。今の俺はそうは思わない。夜空だったとはいえ、実際に空に身を置いて分かったことがある。それは全然気持ち良くないということだ。酸素は薄いし外気は寒いし眼下は恐いわで散々だった。そもそもトンビは翼があって飛ぶことに適した生き物だが、俺にはない。当然自分の意志で飛ぶことはできないし、自分の意志で降り立つこともかなわない。全ては花坂が決めることなのだ。
おまけに前回の飛行は花坂にお姫様抱っこをされるという憂き目にもあった。あれはとても恥ずかしかったし、彼女の胸が左半身に当たって心臓に悪かった。花坂の夜の散歩に付き合うのは構わないが、あのお姫様抱っこ状態で夜空を過ごすのは勘弁願いたい。もちろん『右手1本命綱』もNGである。というかあれは論外!
そこで俺は考えた。花坂に抱っこされるのではなく、俺が彼女を背負えばいいのでは、と。花坂をおんぶして、その状態で空を飛んでもらえば万事オッケーなのではないだろうか。
そもそもお姫様抱っこには致命的な欠点がある。俺を抱える花坂がなんらかのアクシデントで俺を手放した場合、俺は抗う術なく落ちていってしまう。しかしおんぶならその心配はない。俺が花坂のふとももをしっかり持っているからだ。俺が腕の力を緩めない限り、自由落下する可能性は限りなくゼロに近いだろう。
「……なるほど、それはいいアイディアですね」
時刻は午後11時11分。海野家の卓袱台で麦茶を飲みながら俺の妙案を聞いていた花坂が感心したようにそう言った。一昨日ぶりに我が家にやって来た花坂は黒色のワンピースという相変わらずの軽装で、見る人によってはギョッとするだろう。この時期のこの時間にワンピースって……ちょっと寒くない!?的な感じで。
「だろう?よし、早速飛ぼうぜ」
「はい!」
コップの中身が空なのを確認し、立ち上がり、ベランダへ出る。昨晩の祈りが通じたどうかは分からないが、外は晴天だった。風は強くとても冷たいが『曰く付き』がこれしきの冷風でへこたれると思ったら大間違いだ。花坂が帰ったらすぐに寝れるようにとパジャマ(ジャージ)姿の俺だが全然へっちゃらだぜ!
……あー、俺も人のこと言えねーな。花坂と自分の服を見比べて苦笑する。そんな俺を怪訝そうな顔で見つめる花坂に何か言われる前に少し腰をおとす。さあ俺におぶられるといい。そんな意図を察した花坂が俺の背後へ回る。
「…………」
花坂を受け入れる体勢をすること数秒、なかなか背中に乗ってこないのでどうしたのかと彼女の方を見ると、何を思ったのか花坂の奴はモジモジしていた。え?なに?どうしたん?
「どうした?」
「あっ……いやっ、そのー、なんといういいますか……」
「うん」
「ちょっと考えたら、おんぶされるのって恥ずかしいなーと思いましてー……」
モジモジ照れ照れしながら言う花坂に俺は眉を顰めた。
「どこが恥ずかしいんだよ?」
「わ、私の全体重を美羽さんに預けるんですよ?恥ずかしくないわけないじゃないですかっ」
「乙女かっ!!」
「乙女ですよっ!!」
「あ、そうだったな。……しかしおんぶ以外の手段なんて今更考えつかないぞ」
「お姫様抱っこがあるじゃないですか」
「それは俺が恥ずかしいから却下で」
「そんな乙女みたいなこと言わないでくださいよ!」
「いやいやいや!悪いけどこればっかりは譲れないぞ!別にお前の体重なんか気にならんからとっととおぶられろ!」
「むむむっ…………まあ、散歩に付き合ってもらうようにお願いしたのは他ならぬ私ですし……しょうがないです!恥ずかしいですが腹を抉りましょうっ!」
「えぐるな、括れ」
正直もっと駄々をこねるかと思っていたのだが、案外すんなり引き下がった花坂は、「えいやっ!」と可愛らしい掛け声とともに俺の背中に飛び乗った。
途端に温もりと柔らかさが背中いっぱいに広がり、脳内を甘い電撃が駆け巡って行った。いや、体重はまるで気にならない。なんだったらあと4、5人乗っかったとしても問題なく活動出来るくらいにはへっちゃらだ。しかし、しかしだ。彼女の豊かな胸肉が気になってしょうがない!なにこれめっちゃ柔らかくてあったかいんですけど?あと抱えた太ももも地味に気になる!しっとりしていてしかもすべすべしてる!これが男女の違いというやつか……。
「……ど、どうですか?重たくないですか?」
「あ、ああ……全然重たくない」
内心滅茶苦茶あたふたしているが、ここで馬鹿正直に『自分、おっぱいの柔和な感じにドキドキしてます!』などと発言しようものなら花坂の俺に対する評価はガタ落ちすることだろう。幸い感情を隠すことは得意だったので、俺は冷静を装って返答した。それを聞いた花坂は安堵のため息を吐いた。そいつが俺の右首筋を直撃したので危うく腰が砕けそうになった。
「み、美羽さん大丈夫ですか!?」
「ちょ、ちょびっとくすぐったかっただけだ」
嘘です、超ゾクゾクしました。しかしそんなことを表に出そうものなら花坂の俺に対する評価はガタ落ちすることだろう。せっかく築きあげた信頼がこんなしょうもない理由で崩壊するのは御免なのでグッと堪えた。まさか『共通能力』を抑え込むために身につけた術がこんなところで役に立つとは思わなかった。人生何があるかわからんなー。
「……よし、それじゃあテイクオフだ花坂!」
予期せぬアクシデントに勝手にドキドキしていても埒が明かないので花坂に飛ぶよう言う。すると彼女の返事の後に体がゆっくりと浮上した。体が重量によって下へ行こうとするので腕に力を込める。まだ1mも上昇していないというのに、この時点で自力で地に足をつけることが叶わなくなったということが恐ろしい。
下方を見るのは恐怖心を助長するので目線を上げる。そしてなんとなくちらりと後方を見ると青白く光り輝く翼が確認できた。触れられるエネルギーの塊は音もなく俺たちを空へ送り届ける。一体どんな仕組みなのだろうか?
「不思議だなあ……」
「え、何がですか?」
「お前のその翼だよ。普段は姿形もないのに、お前の意思に応じて実体化出来るんだろ?しかも俺たち2人を運べる程のエネルギーを放出出来る……疲れないのか?」
「疲れを感じることはないですよ。今だって平気ですし」
「痛覚はあるのか?」
「ありますけど、割とアバウトですよ。肘の皮を摘むと、痛みはありませんが摘まんでいることは分かるじゃないですか?あれと似たような感じです」
「翼が実体を保てなくなるほどエネルギーを消費したことはあるのか?」
「実はガス欠を起こしたことは一度もないんですよ。『曰く付き』になりたての頃に実験したんですけど、いくら速く飛んでも、いくら飛び続けても翼が勝手に消えることはなかったんです。しかも疲労感皆無!これってちょっと怖くないですか?放っておいてたら背中の中で勝手に溜まっていって、いくら使ってもなくならない得体の知れないエネルギー……」
「一体どこから来ているんだろうな?」
「さあ……そんなのこっちが訊きたいです!この体質のせいで私は独りで散々苦労したんですから」
花坂の強めの溜息が首筋に当たりゾクゾクする。気がつけば俺たちは星海と雲海の狭間にいた。ここが高度何メートルなのかは分からないが、少なくとも人類が独力で来ることは出来ない領域であることくらいは分かる。
「ここまでこれば人に見つかる可能性は皆無に等しいでしょう」
「ああ、だといいんだけどな。しっかし寒いな。今って高度何メートルくらいなんだ?」
「さあ、そんなの分かるわけないじゃないですか」
「まあ、空の中に目印や標識があるわけないもんな。とはいえ何だか前回のフライトより高くないか?雲が物凄く下方にあるんだけど」
「さすが『千里眼』、こんなにも暗いのによく見えますね」
「おかげで超怖い。見え過ぎるってのも考えもんだぜ。えっ、ていうかお前見えてないの?じゃあどうやって帰るんだよ!?」
「大丈夫ですよ。高度が下がれば町の明かりが見えますので、それらを頼りに飛べば無事に帰れますから。最悪の場合、美羽さんがナビゲーションしてくださいね」
「それは全然構わないけど、てっきり見えているもんだとばかり思ったから……」
「視覚情報だけを頼りに飛んでいるわけじゃないんですよ、これが。言葉にするのは難しいのですが、空を飛んでいると翼を通して、この辺りは風が強いとか、この雲の中は危ないとか、もうすぐ近くを飛行機が通るとかが不思議と分かるんですよ。この第六感的なもののおかげで私は今日まで無事に飛んできたというわけです」
「翼を通してって、翼が出てないとは発動しないのか?」
「はい」
「ますます不思議だなあ……。いやでも『曰く付き』の特性を考えれば納得出来るな」
「と、いいますと?」
「『曰く付き』は宿主の身の安全を守ろうとする傾向が強いから、上空という未知の領域でお前が危険な目に遭うことなく活動出来るようにしてくれてるんだろう」
「だったらそもそも翼なんか生やさないもらいたいですっ!」
「それな。でもなんで『翼』なんだろうな?」
「それを言ったら美羽さんの『千里眼』だってどうしてなんですか?目がよくなりたいという願望があったとか?」
「まさか。俺は物心ついた時から『曰く付き』だし、そもそも視力爆上がりを願ったことなんて一度もない。深層心理にもないと思うし、仮にあったして、じゃあどうして日中は右目の視力がないんだ?そこの説明がつかない」
「『曰く付き』の『共通能力』の決定条件……うーん、分かりません!私も別に飛びたいとか空に憧れがあったわけではありませんし」
「うーん……」
どうして『曰く付き』には『共通能力』があるのか。どうして『曰く付き』ごとに『共通能力』が異なるのか。何故『千里眼』だったのか。男は教えてくれなかった。多分、彼自身も分かっていなかったのだろう。分からないことは教えられない。理由や条件を自分で考察するのは大切なことだが、答えや正解が不明瞭な問いを考え続けるのは骨が折れる。
「分からんなー。ま、分かったからといって『曰く付き』が消えてなくなるわけじゃないしなー」
「そうですね。何故生まれて来たのかを考え続けるよりも、どう生きていくかを考え続けたほうが有意義だと私は思います」
「おっ、いいこと言うじゃん」
「漫画の受け売りですけどね」
「どう生きていくか……そうだな、とりあえず今日はもう降りないか?寒いし明日も学校あるし寒いし夜更かしは体に毒だし」
「寒いって2回言いました!ま、まあ確かに寒いですね。全然我慢できますけど」
「春でこの寒さだもんな。冬なんかヤバいだろう」
「私はもう慣れましたけど、そうですね、常人だったら5分も耐えられない寒さだと思いますよ。耳とか取れちゃうかもですね。あははっ」
「さらっと恐ろしいこと言うなよな。……じゃあ夏だったら快適かもな」
「今とあんまり変わらないですよ。暑いのは地上だけで、空というのは基本的に低温ですから」
「マジかー。お前毎日すげえ過酷なことをやっていたんだな。普通に感心するわ」
「えっへん」
体がゆっくりと降下していく。雲の塊の中に足からつっこむ。当たり前のことだが、雲に感触はない。ただの内部は一際寒く、酷くひんやりしていた。冷気がジャージの裾から突き抜けるという妙な寒さを嫌に感じていると、雲を抜けた。
「おおっ……」
眩しいほどの街明かりが、まるで光り輝く蜘蛛の巣に見えた。とても綺麗で思わず感嘆の声が漏れた。とはいえ、この夜景を余裕をもって楽しむことは今の俺には難しい。だって怖いんだもん。
「綺麗ですよね。私でもはっきり見えるくらい明るい……」
「方角的に間違いなく春鳴りだろうな。流石眠らない街。片や秋鳴りは……まるで死んだように眠っている。明かりが2つしかない」
1つは我が家で、もう1つは金成さんの自宅兼銭湯だ。雲の下まで降りて来たので秋鳴りの現状がしっかりはっきりくっきり見える。そんな眠っている町に降下していき、我が家のベランダに降り立つ。
「いやー、おかげさまで楽しい散歩時間を過ごすことができました!」
俺の背から降りた花坂が笑顔でそう言う。滞空時間は大体15分くらいで、時々ある退屈な授業に比べれば、決して長い時間ではない。白状すると俺は恐怖であんまり楽しくなかったのだが、それを正直に声にするのはよくないと思ったので無難に頷いておいた。まあ、何度も散歩に付き合っていくうちに空にも慣れていくことだろう。事実、前回の飛行で感じた肺の痛みが今回はなかった。体の方はもう空に順応し始めているのだから『曰く付き』ってすげーや。あとは心だけだ。
「それは良かった」
「明日も来ていいのですか?」
「もちろん」
「ありがとうございますっ!」
高所に慣れるには数をこなせば良い。少々荒療治な気もするが、他に方法が思い付かないのだからしょうがない。明日も一緒に散歩をするというのなら、それを利用しない手はない。というわけで俺が速攻で了承すると、花坂はニッコリ笑ってお礼を言った。
ただ一緒に空を飛ぶだけだというのに、こんなにも喜んでくれるのはこちらとしても嬉しい。そして何より、この感情を包み隠さず表に出せることが嬉しかった。
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