第19話
いつもより遅い時間に帰宅した俺は、真っ先に濡れた服を脱ぎ捨て、全身を拭き、ジャージに着替えた。そして飯を食って宿題を済ませた。外では雨が降り続いている。屋内にいるから濡れることはない。なので、壁と屋根に守られているという謎の優越感に浸りながら、今後の予定を考える。
こんな天気じゃ花坂はここには来ないだろう。明日を迎える為の最低限のノルマは殆ど終えたので、よし、今夜はいつもより長く風呂に入ろう。せっかく濡れない環境に身を置いているというのに、再び外出するのは億劫だが、雨が降っていようが降っていまいが風呂には浸からなければならない。1日の終盤に全身の汚れを落とす。海野 美羽は清潔感を大切にする男なのです。
で、頼みの銭湯は秋鳴り荘の隣りにある。ここの管理人と銭湯の経営者を兼業している金成さんは、若くて金持ちで美人で気前が良い。おまけに羽振りも良くて財布の紐も緩くて常に景気が良いので、家賃も入泉料も取らないという常軌を逸した太っ腹の持ち主である。
さて、目的地はすぐ近くにある。しかし連絡通路がないので、到着するには一度外に出る必要がある。なので家を出て傘をさしてぐしゃぐしゃになっている地面の上を歩く。秋鳴りも相当な雨が降ったらしい。地面全体の殆どが水溜りと化していた。こういう時に長靴が役に立つ。こういう時しか役に立たないのが長靴なのかもしれないが、秋鳴りの地面はしょっちゅう水浸しになっているので我が家には長靴が鎮座している。そんな長靴を履いて歩くこと約10秒後、俺は銭湯に到着した。
引き戸を開けて、長靴を下駄箱に置いて、番台で伏せて寝ている金成さんを起こさないように会釈して、そっと暖簾を潜る。起きていると太陽のように明るい金成さんだが、寝ていると新月のように静かだ。彼女はよく眠っている。俺が銭湯に行くと3回に2回は寝ている。秋鳴り住まい当初は、そんなんで大丈夫なのかと思ったが、そんなんで大丈夫なのが秋鳴りなのだろうと最近は思っている。
脱衣所で服を脱いで裸になる。誰もいない浴場でかけ湯をして湯船に浸かる。身体が温まったら洗い場で全身の汚れを落とし、再び入浴。今日は雨で冷たい思いをしたので長めに浸かる。
浴槽の中で目を閉じて、体内で熱が循環しているのを感じていると、瞼の奥に花坂の顔が浮かんできた。その表情は笑ったり怒ったり悲しんだり怖がったりと様々だ。出会ってまだ数日の関係だが、どうやら彼女の存在は俺の中で物凄く大きなものとなっていたようだ。そうでもなければ脳内に現れたりしないだろう。
まあ、綺麗だし可愛いし『曰く付き』だし背中から翼はえてるし胸デカいし巨乳だし一緒に空を飛んだ仲だし……。
「……おまけに俺のファーストお姫様抱っこを奪っていったし」
呟いて苦笑い。あれは大変恥ずかしかったので次からは別の方法で飛びたい。しかし今日は雨天のため花坂は我が家に来ない。あの身の竦むような天空に行かなくていいのは嬉しいことだが、彼女に会えないのはなんだか寂しい。雨は天気予報が正しければ明日の昼にはあがるらしい。だから明日の夜は彼女の日課に付き合えるだろう。
「早く明日になれー」
呟いて立ち上がる。手っ取り早く明日を迎えるには睡眠が一番。心身共に十分に温まったので帰って寝るとしよう。
浴槽を出て脱衣所で体を拭く。全身の水気が取れたら服を着る。ロッカーがきちんと空っぽになったのを確認して暖簾を潜る。恐らく金成さんはまだ眠っていることだろうから、起こさないように静かに帰ろうと抜き足差し足忍び足な俺に、金成さんが声を掛けてきた。
「よっ!こんばんは!!」
番台には元気いっぱいの金成さんが俺に向かって手を挙げていた。絶対寝ていると思ったのになあ……。とりあえず俺も手を挙げる。で、挨拶する。
「こんばんは」
「おうっ、なんでも春鳴りは凄い雨だったらしいけど大丈夫だったか!?」
金成さんが寝起きのテンションとは思えない爛々な感じで訊いてくる。可愛い。金成さんは若いが詳しい年齢は分からない。恐らく成人していると思うのだが、若い。若すぎる。なんなら幼い。でも我が家の大家さんで銭湯の管理人をしているのだから、とっても不思議な人だ。
「雨も雷も凄くって大変でしたよ。しかも傘を家に忘れてきてしまったんで、散々な目に遭いました」
「そいつは災難だったな!」
金成さんが楽しそうに笑う。災難だと思うのならもっとテンションを抑えてほしいが、睡眠中かその前後にしか静かにならない彼女には難しい事だろう。金成さんは本当によく笑う。その笑顔にこちらは多くの元気を貰っている。あとお金も。
「はい。秋鳴りはともかく、春鳴りであそこまでの雷雨は珍しかったです。神様が怒り狂っているような気すらしましたよ」
「なんだっ?美羽は神様を信じているのか!?」
金成さんが興味津々に訊ねてくる。俺は少し考えたあと答えた。
「うーん、半信半疑といったところですね」
いるかもしれないし、いないかもしれない。故にそう答えた。
「金成さんはどう思っているんですか?」
「私は信じてる!だって神様がいたら楽しいじゃんかよ!」
「楽しいって……」
いまいちピンとこない。神に対してそういった感情を抱いたことがないからだ。そもそも普段は神の存在など頭の片隅にもないわけで、その存在の有無を問われるまで思いつきもしない。そんな俺が神に抱いている感情を言語化するなら、それは畏怖だろう。神は人智を超えた存在で、恐れの対象だと思う。恵と試練を与え、人類の進化を促す上位存在だと思う。とはいえ見たことがないので信仰の対象にはならない。けれどもいないと断言するにはこの世界は出来すぎている。
「知ってるか!?神様っていうのは人間が大好きなんだぜ!だって人間から生まれたんだからな!人間から生まれて、人間から愛され続けている。だから人間のことが大好きで堪らないんだ!」
「はあ……」
金成さんが言い切る。まるで神様から直接そう言い聞かされたかのように断言したので、呆気に取られた俺は曖昧な返事をするので精一杯だった。
「……えっ、神様に会ったことがあるんですか?」
数秒の空白の後、俺はそう訊ねた。金成さんは首を横に振った。ブンブン振るものだから彼女の長髪が激しく舞う。その先端が俺の鼻先に当たりそうになって、妙にくすぐったい。おお、ムズムズする!
「まさか!でもそうなんだとさっ!」
「そ、その情報は誰から得たものなんですか?」
「忘れた!!」
「忘れたって……」
「超昔のことだったから誰から聞いたのかは忘れちまったけど、その言葉が胸にストンと落ちたのはちゃんと覚えてる!そういう経験ってないか?」
「まあ、あるといえばありますね」
俺の場合は本が大半だ。誰が書いた書籍かは忘れたが、その内容はよーく覚えている。金成さんが言う『そういう経験』とはこういうことを指すのだろう。
「……あ!!神様といえばこの秋鳴りにもいるぜ!」
「えっ?そうなんですか?でも神社とかありましたっけ?」
俺の知る限りではそれらしきものは無かったと思うのだが……。
「ないない!」
「じゃあ、名前は?なんていう神様の名前なんですか?」
「名前もないない!」
「えー……。じゃ、じゃあ、どんな見た目なんですか?」
「知らん!!」
金成さんは笑いながら頷きまくった。
「名前がなくて姿形も分からない、そんな神様がいるんですか?」
「実際にいるんだからしょうがないだろ!」
「見たことあるんですか?」
「ない!神様に会ったことないってさっき言ったろっ?」
「め、滅茶苦茶なこと言ってますよ、金成さん……」
「神様は人間が生み出した存在だけど人間のルールに縛られることはないのさ!名前がなくても見た目が不明でも『いる』という人が1人でもいれば存在が確証されるんだと!逆を言えば全ての人から忘れられないと死ぬことが出来ないってことだ!それってしんどくね!?」
「その神様が死にたがっているのなら、割と酷な話ですね」
「まっ、ここの少なくともここの神様はそうは思っちゃいないだろうよ!なんてったって人間が大好きなんだから!」
「じゃあ俺のことも好きなんですかね?」
「もちろん!そりゃあもう大好きさっ!」
神様に愛される男。……なんだかいい響きだ。俺の心の中の幼いところがウズウズしている。よし、今度お参りしに行こう!あ、そういえば神社が無かったんだった。どこにお参りにいけばいいんだ?……ま、秋鳴り山でいいか。
「それはいいことを聞きました」
「おうおう!いいこと言ってやったぜっ!」
ニカッと笑ってビシッと親指を立てる金成さんにつられて、俺もサムズアップをする。金成さんの笑顔は俺に元気をくれる。うん、明日も頑張ろう!
「よし!美羽はもう帰って寝ろ!明日も学校なんだろ?頑張れよなーっ!」
「はい、頑張ります!」
一礼して銭湯を後にする。外は相変わらずの雨。短い帰路を歩きながら、金成さんと神様談義をしたことを振り返る。金成さんとは銭湯に行く都合ほぼ毎日顔を合わせる仲だが、彼女の口から神様だなんて仰々しい言葉が出てくるとは意外だった。思えば金成さんが普段何を考えて、何をしているのか俺は知らない。不思議と訊こうという気にはならない。それはきっとこれからも変わらないだろう。踏み込みすぎると、踏み込まれた時が恐いから。
「神様、ねえ……」
真っ暗な我が家に立って呟く。神様を定義するのは難しい。見た目も名前も存在も全てがあやふやで、そもそもいるかどうかも分からない。でも金成さんは『いる』と言い切った。存在していることが当然のような口振りで、なんと神様の内心まで言ってみせた。とても嘘を吐いているようには見えなかった。だからといいって俺に神様の存在を信じさせるには情報が滅茶苦茶で、結局、神様がいるかどうかの問いに対する答えは、先程のものと変わらない。
「いるかもしれないし、いないかもしれない」
でも、もしも本当に神様が実在していて、秋鳴りの神様が本当に俺のことを愛してくれているのなら、それはとても嬉しいことだ。とりあえず祈っていこう。
「どうか明日は晴れますように」
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