第18話

翌日。天気は雨。灰色の分厚い雲から絶え間なく降り注ぐ雨水の音が耳に心地よい。授業が全て終わり、後は帰るだけとなった俺は、机に肘をついてぼんやりしていた。いつもならそこへ伊藤がやって来て一緒に下向するのだが、なんということだ、今日彼は風邪を引いて病欠しているのだ。なので俺は今ひとりぼっち。



「……ふう」



段々と生徒が減っていき、賑わいが薄れていく教室の中で俺は、一息ついて今後の予定を考える。というのも傘を家に忘れてきてしまったのだ。今朝は晴れていたので完全に油断していた。まさかこうも土砂降りになるとは……。四季高には購買があり、そこには雨具が売っているのだが、ついさっき売り切れになったという放送が入った。傘を持って来なかったおバカさんは俺1人だけではなく、かなりたくさんいたらしい。彼らは傘が買えたからいいさ。買えなかった俺はおバカさん以下だ。



「…………」



などと自嘲している間にも生徒はいなくなっていき、ついに室内は俺だけとなってしまった。分かっていたけど誰も傘を貸してくれなかった。俺から声を掛けたわけではないので当然だ。まあ、傘を貸して下さいとお願いしたところで、断られるのは目に見えている。自分の傘は自分で使わないとびしょ濡れになる。それくらいの大雨が降っているのだから。



今になって携帯電話の天気予報を確認してみても、この雨は明日の昼まで止まないだろうと表示されているため、校内での雨宿りは意味をなさない。……だとすればやることは1つ。



濡れて帰る。



言葉にするのはとても簡単だが、いざ実行しようとすると足が竦む。だからこうして誰もいない教室でぼんやりしているのだ。時刻はもうすぐ午後5時になろうとしている。今から歩いて帰れば家に着くのは午後7時になる。2時間も雨に降られながら帰路を行くのは気が滅入る。学校用の鞄は防水仕様なので中身が濡れることはない。が、最も防いで欲しい俺の肉体はずぶ濡れ間違いなし。



「『曰く付き』も防水仕様になれよなー……」



この場に俺しかいないことを良いことに、そんなことをぼやいてみる。我ながら無茶苦茶なことを言っているなと苦笑してみても、雨が降り止むことはない。なんならちょっと雨量が増した気がする。



「…………」



いや、明らかに激しくなっていた。腹が立ったので重苦しい雨雲に拳を振り上げて憤慨してみせたが、事態が好転する気配はない。それどころか悪化している。ひょっとしてこれは『こんな所でジッとしてないでとっとと雨に濡れて帰りなさい』という天からのお達しだろうか?もしそうだとしたら神様もなかなか酷なことを言うじゃないか。



「…………しゃーない、帰るか」



観念して立ち上がり、鞄を持って退室する。廊下を歩いて階段を降りて下駄箱で靴を履き替えて雨に打たれる。ウォーキングインザレイン。瞬く間に全身がびしょ濡れになり、肌に張り付いた衣服に不快感を抱きながらも、毅然とした態度で雨の中を行く。下を向くと気分も下へ行きかねないので、せめてもと前を向く。人通りが少ないので気持ち早めに足を動かす。



そして、今後はどんなことがあっても必ず鞄の中に折り畳み傘を忍ばせておこうと心に決めた瞬間、なんということだ、遠くで稲光と雷鳴が轟いた。



「マジか!!」



聳え立つ高層ビルの天辺に落ちた雷を見て、慌てて近くのコンビニの軒下へ避難する。本当なら店内に入りたかったのだが、流石にこんなグショグショ状態で入店するのは気が引ける。まあ、高層ビルが乱立している春鳴りだから、ピンポイントで俺に落雷するなんてことは万に一つもないだろう。……ないだろうけど、念のため避難。



冷たい雨水に打たれ続けても体調が悪くならないのが『曰く付き』の長所だが、流石に雷に打たれようものなら無事では済まない。いくら頑丈さに自信があっても限度がある。雷は秋鳴りでしょっちゅう目撃してるので慣れている。しかし何もこんな時に落ちて来なくてもいいだろう。



「さては今日は厄日だな?」



雷が肯定するかのように光った。いや光るなよ。ただの自然現象が意思を持っているかのように思えてきて怖いんだけど……。いやいや、たまたまだろう。雨に打たれ雷を目の当たりにして心が敏感になっているから、意味のない現象に意味をこじつけてしまうのだろう。というか仮にそうだとしたら一体俺のどこが勘に障ったんだ?怒りを買うような真似をした覚えはないんだけどなー。



余談だが、様々な信仰の中にアニミズムというものがある。この世のありとあらゆるものに魂が宿っているという考え方だ。神話に登場する神には自然現象を擬人化したものがあり、中でも雷を司る神の数は多い。科学で雷という現象を説明出来なかった頃の時代、空から迸る電光は人智を超えた存在の仕業としか思えなかったのだろう。だからそれに人格と姿形を与え、畏れ、崇め、奉った。



科学の力で生活が豊かになった現在でも、こうした神々の存在は信仰の対象となっている。寺社で絵画や像を見れば手を合わせ、頭を下げる。金銭を投げ入れ願い事をする。実物を見たこともないのにこうして崇拝され続けるのは、こうした自然現象が科学で完全に制御出来ないからだろう。



ひとたび自然が牙を剥こうものなら人が纏った叡智など簡単に消し飛ぶ。避雷針や防波堤や防風林がまるで役に立たなかった事例などいくらでもある。結局、最後の最後に人間が出来ることは祈ることだけなのだろう。困った時の神頼みとはよく言ったものだ。



余談終わり。そういうわけで俺は空に漂う黒雲に向かって手を合わせた。おお荒ぶる雷の神よ、どうか鎮まりたまえ!



「鎮まりたまえ!!」


「…………」



覚えのある気配を感じたのでギュッと瞑った目を開けると、目の前に傘を持った花坂が怪訝な顔をして立っていた。水色の水玉模様の傘に水色の長髪。水色の双眼。こいつどんだけ水色好きなんだよ。パーソナルカラーかよ。ていうかなんでここに花坂いるんだよ。よりにもよってめっちゃ恥ずかしいところを見られちゃったじゃん!キャー赤面!



「え…っと、美羽さん、何やってるんですか?」


「…………訊いてくれるな……」



絞り出すように応答する。身体は寒いのに顔だけが異常に熱い。ここで馬鹿正直に神様に祈りを捧げていたと答えるのは俺的に困難を極める。だって恥ずかしいじゃん。祈祷シーンを見られただけでも顔から火が出そうだというのに、さらに恥を上塗りしようものなら、俺の顔面がいよいよ火を噴いてしまう。それだけは避けたい所存です。



「そ、そういう花坂は何してるんだよ?」



向けられた矛を奪い取り花坂に突き付ける。見れば花坂は1人で、伊藤の彼女は隣りにいない。……ああそうか、彼氏のお見舞いに行っているんだな。まったく、羨ましい男だなあ。いや、風邪を引いて辛い思いをしているのに羨ましいもないか。それを言うなら俺だってなかなか辛い思いを現在進行形でしているぞ!なんなら風邪を引くことよりも辛いと思う!今日は厄日だコンチクショウ!



「湯江さんと途中までは一緒だったんですが、なにやら用事があるようなので、別れたあと1人で土砂降りの中を歩いていたのです。そしたら雨水に濡れて見るも無惨な姿に成り果てた美羽さんを発見したので、近寄ったら急に目を閉じて両手を合わせて叫んだのでギョッとした次第です。ま、大方傘を忘れて必死に走って帰っていたら急に雷が落ちてきたので慌てて避難した後に藁にもすがる想いで神頼みをしていたといったところでしょうか?」



さりげなく再び俺に矛を向けたうえに、俺の行動を完全に言い当てた花坂に感心すると同時に恐怖する。あと恥ずかしい。花坂と関わってからやたらと羞恥心に苛まれるようになったが、こればっかりはなかなか慣れない。



「ああそうだよその通りだよ!悪かったなギョッとさせちまってよ!……くそぅ、どうして今朝傘を持って行かなかったんだ。おかげで散々な目に遭った」


「っぽいですね。心中お察しします。そんな美羽さんに私が傘とバスタオルを買って来てあげましょう!」



不貞腐れる俺を元気付けるように、明るい声でそう言う花坂。彼女は俺が断るよりも早くコンビニに入って行った。え、やだ花坂さんってばお優しいのね。



少ない買い物だったため花坂はすぐに戻って来た。そして買いたてホカホカの傘とバスタオルを俺に差し出した。



「はい、どうぞ」


「ヤバい、優しさが胸に沁み入るぜ。泣きそう」


「そんなことで男の人が泣かないでくださいよ」


「悪いな。そしてありがとう。この傘はありがたく頂戴します。……あ、おいくら?」


「別にいいですよ。困った時はお互いさまなんですから」


「そういうわけにもいかない。花坂は優しいからいいかもしれないが、俺はよくない。真の優しさを持っているのならお金を受け取ってくれ」



ここで引き下がったら俺の中の妙竹林なプライドがベッコベコに歪みきってしまうだろう。彼女の厚意は嬉しいが、それに甘えるわけにはいかない。



「……わかりました、そういうことでしたら受け取りますよ」



折れた花坂はそう言うと傘とバスタオルの料金が書かれたレシートを見せた。俺は花坂からビニール袋を受け取り、薄い水色のバスタオルで身体を拭いた後、鞄から財布を取り出して料金を手渡した。



「いやー、スッキリした。濡れた衣類はどうしようもないけど、髪や顔が拭けただけでもスッキリ度が違うぜ」


「それは良かったです。……それにしても、凄い雨ですね」



隣りに立った花坂が空を見上げる。俺もそれに倣うと、遠くにあった雷雲がこちらに近づいていた。これはまだここから出ない方が良さそうだ。



「だな。……あ、1つ気になったんだけど、こんな天気の日でも『散歩』しているのか?」



周りに人がいないのは確認済みだが、念のため言い換えて訊いてみた。『散歩』というのは、もちろん花坂の毎晩の日課のことだ。彼女は背中に溜まったエネルギーを発散するために毎晩空を飛んでいるのだが、今みたいな雷雨の夜でも飛ぶのだろうか?そりゃあ雲の上にまで到達すれば雨も雷も関係ないのだが、そこんところどうなんだろう?



「まさか!いや、やろうと思えば出来ますけど、傘をさしても合羽を着ても結構濡れますし、何より落雷が怖いのでしません。知ってますか?雲に上にいても雷って下から降ってくるんですよ」


「マジかよ、こわ……。え、それじゃあどうやって発散してるんだよ?」


「うちの中でちびちび出すんです。飛ぶつもりでやると家具とかが吹き飛んでしまうので、少しずつ少しずつ時間をかけて放出します。大体3時間くらいかかるので億劫なんですよー」


「梅雨とか大変だろう」


「はい。なので雨は嫌いです」



花坂がそうぼやくと、迫ってきた黒雲のせいで辺りがいっそう暗くなった。そしてすぐに雨がさらに激しさを増した。滝のような雨の音を聞いていると重苦しい気分になってくる。そこに雷が鳴るもんだから、軒下とはいえ避難しておいて正解だった。



「わわ、これ大丈夫なんです!?」



花坂の不安げな発言は雨音に掻き消されてしまいそうだったが、『曰く付き』である俺の耳にはしっかり届いていた。



「ここが正念場だ!多分10分もすれば落ち着くと思う!」



押し潰されそうな環境音に負けじと大声で言う。俺達の上空にあるのは積乱雲で、大雨や雷を降らせる雲として有名だ。夏によく起こると言われている夕立の原因でもある。縦に長く、遠目で見てもその存在感に圧倒されがちだが、実は横の面積はそれほど大きくない。夕立が局所的で長続きしないのはそのためである。



花坂と並んで雷雨が落ち着くのを待つ。コンビニの中の客は誰も外に出てこない。こんなことなら俺たちも中に入っておけばよかったなと後悔してももう遅い。きっといま入店したら店内は降り注ぐ雨で水浸しになってしまうだろう。それはあまりにも気の毒だ。街が暗くなったことで街灯が点灯するが、あまりの雨の強さでぼんやりしてしまっていてあまり機能していない。鮮烈に瞬く電光の方がよっぽど明るかった。



秋鳴りに住んでいるとかなりの頻度で大雨に見舞われるが、こんなのは滅多にない。自然が気まぐれに振るう猛威にちょっぴり慣れている俺が気圧されているのだから、花坂はもっとだろう。空から目を逸らし、ちらりと彼女の方を見てみると不安げな顔が恐怖で固くなっていた。



こういう時、何をしてあげればいいのだろう。いや、相手の恐怖や不安を和らげる手段などいくらでもあると思うのだが、悲しいかな、人との付き合いが少ないのですぐに出てこない。さてどうしようかと腕を組もうとした瞬間、花坂が俺の手を掴んできた。そして震える声で訊いてきた。



「ちょ、ちょっと、こうしていてもいいですか……?」


「ああ、いいともいいとも」



俺の即答を聞いた花坂が左手にギュッと力を込める。人と人との肉体的接触は安心感をもたらすと本で読んだが、あれは本当だったんだ!……しっかしこんな雨で濡れた冷たい手でいいもんなのかね。まあ、ないよりかはマシなのだろう。……それにしても花坂の手はどうしてこうも柔らかくて温かいのだろう?なんだかドキドキしてきた。



手を繋ぐことで落ち着きを取り戻した花坂と、反対に落ち着きがなくなった俺。そんなことお構いなしに雨は降り続ける。雷も落ちまくる。己の心臓の高鳴りを鎮めるために、『早く止め早く止め』と必死に祈ること数分。不意に空が明るくなった。雷雲が通過したのだ。



「あ、急に雨が穏やかになりました」



花坂が驚いたようにそう言う。そして繋いでいた手が離れる。右手に残っている感触が風に流されてどこかへいってしまう。なんだかもったいないなと残念に思うも、決してそれを表に出さない俺であった。



「山場を乗り切ったってことだ」


「……でも止まないんですね」


「そりゃあ雨雲がなくなったわけじゃないからな。雷雲が移動しただけで」


「……すっごい雨と雷でしたね。春鳴りではよくあることなんですか?」


「ないない。秋鳴りならともかく、ここでは珍しいことだよ。おかげで足止めをくらってしまった」



今からだと我が家に着くのは午後7時30分頃になるだろう。別に全然構わないのだが、いつもと違う時間に帰宅するのは少しだけモヤッとする。いやほんと別に全然構わないのだけど。



「ですね。急いで帰って宿題をしないといけません」


「だな」


「あ、そうですそうです。手を握らせてくれてありがとうございました」


「どういたしまして。ていうか、こちらこそありがとうございました。傘とかほんと助かった」



お互いに頭を下げ合う。



「それではまた雨が酷くなる前に帰りますね」


「おう、気を付けて帰れよー」


「はい、美羽さんも!」



花坂はにこやかな笑みを浮かべてそう言うと、自分の傘をさして小降りの雨の中を歩いて行った。それを見送った俺も傘をさし、家に向かって足を進めた。



今日は傘を忘れたことでえらい目に遭ったが、同時に傘を忘れたことで花坂の優しさに触れることができた。不幸中の幸いというかなんというか……。とりあえず今日得た教訓は、折りたたみ傘は常備しておいた方が絶対に良いということ。備えあれば憂いなしとはよく言ったものだ。

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