第8話

少女がいつ出て来てもいいように銭湯の入り口を見続けながら準備運動をすること55分。引き戸が開き少女が現れた。俺は靴紐を結び直し呼吸を整えた。よし、入念な体操とストレッチのおかげで心身ともに絶好調だ。今の俺に不可能などないと思えるような全能感が全身を駆け巡る。こんな気持ちになったのはいつ以来だろうか。普段は『共通能力』を抑えるために感情を抑えているが、今はその逆を行っている。感情を解放することで『共通能力』は真価を発揮するのだ。



少女はやはり周囲に誰もいないことを確認すると、行きとは違って引き戸の前で翼を出し、地面を蹴って飛翔した。もうすぐ俺も地面を蹴る。そして跳ぶ。俺には空を飛ぶ翼はない。しかし彼女に届くだけの力がある。



もしもこの世界の全てに意味があるとして、何もかもに理由があるのなら、俺が『曰く付き』である理由とはなんだろうか。人の世に有り余るこの力が俺に宿る意味とはなんだろうか。なんとなくおセンチな気分になった時にそんなことを考えたことがあった。答えは出なかったし、今後も出ることはないだろうと思っていた。だが、今ならこう思える。この左目は同じ仲間を見つける為、そしてこの力は同じ仲間の手を取る為にあるのでは、と。



実際、左目がなければ少女の飛行シーンを目撃することはなかったし、『共通能力』がなければ彼女との接触は困難を極めていただろう。だから感謝している。俺が『曰く付き』であることに。そしてそのことを教えてくれた男にも。あとは接触を成功させるだけだ。



空高く舞い上がった少女がこちらに向かって飛んでくる。俺は充分な助走がつけられる距離まで下がった。山頂から距離を置いたので滑走路は傾斜になっていた。地面を両手で支え、右足を前にして屈んだ状態で少女を見る。いわゆるクラウチングスタートである。少女との距離が着実に縮まっていく。俺は大きく息を吸い込み、腰を上げた。そしてついに少女が山頂の上空に到達した。俺は歯を食いしばり、左足で地面を蹴り、走り出した。



踏む足が地面を抉る。漂う冷気を裂き進む。極限まで狭まれた視野が離陸地点を映す。そしてそこに到達した瞬間、俺は、ありったけの力で跳んだ。地から体が離れる。引きずり落とそうとする重量を振り払い、星の海で青白く輝く少女へと右手を伸ばす。手は、少女の右足を掴んだ。



その瞬間、少女の甲高い絶叫が響いた。



「な!ななななななんですか!!?足になにかが!!」



右足をがむしゃらに振り、自分の右足を掴む正体不明の何か(俺)を落とそうとする少女。俺は振り落とされないように両手で必死に右足を掴んでいた。この高さから落ちようものなら流石の俺でもただでは済まないと、『曰く付き』の本能が警鐘を鳴らしまくっていたからだ。



少女は恐慌状態に陥っていた。無理もない。単独の人間には決して届く筈のない不可侵領域で突如足を掴まれたのだから。俺は左目があるので少女の姿を見ることが出来るが、少女には私の姿は見えていないようだ。少女は涙を流し、左足で俺の手を何度も蹴った。凄く痛い。さらに、恐慌状態の少女は急上昇した。空前絶後の高度にサァッと血の気が引いた。



ヤバい!このままではマズい!怖くて下が向けない!足がプラプラしてゾワゾワする!息が苦しい!肺が痛い!両目がカピカピしてきた!蹴られすぎて手の感覚がなくなりかけている!だが絶対に手を離してはいけない!落ちたら死ぬ!タダで済まないどころではなく、マジで死ぬ!絶命確定!!とにかく彼女を落ち着かせないと!



「て、手荒なことをしてすまない!!」



俺は腹の底から叫んだ。肺が軋むように痛んだが声はしっかり出た。



「ひ、ひぃっ!?」



少女が大きく震え上がった。急上昇は止まったが、頭の中の警鐘は鳴り止まない。ひょっとしたら今、俺は人生の中で最も死に近い状況に立たされているのかもしれない。そんな不穏な考えを慌てて取り払い、必死に言葉を紡ぐ。



「お、落ち着いて欲しい!!俺は人間だ!!」



本当はそうではないのだが、いきなり『曰く付き』と言われても更なる混乱を招くだけだ。だから嘘を吐いた。俺はあくまで人間的なもので、害を与えるつもりは一切ないですよ的なことを伝えたかったのだが……。



「……う、嘘です……」


「……はっ?」


「嘘に決まっています!人間が私のいる所まで来られるわけがないです!離してくださいっ!!」



ごもっともな発言とともに少女は再び俺の手を蹴り始めた。



「離してください!!」


「は、離すものか!!死んじゃうだろーが!!」


「そんなこと私に関係ありません!!」


「くっ、この自己中女が!!」


「人間じゃない貴方にそんなこと言われる筋合いありませんっ!」


「お、お前だって人間じゃなかろう!!人間に翼なんてもんはないぞ!!」


「そ、それは自分が人間ではないと肯定した上での発言ですかっ!?」


「そうだ!俺は人間じゃない!!俺は『曰く付き』だ!!そういうお前はなんなんだ!?」


「わ、私は……」



それまでの刺々しい声色が唐突に弱々しくなった。



「私は……自分がなんなのか、分かりません……」



少女は消え入りそうな声で言った。初めて少女と目が合った。星々の大海を背に涙ぐむ彼女の美しさに、俺はここが空の遥か彼方であるということを忘れてしまった。心臓が脈打つ。耳を千切りそうな突風も、消え入りそうな両手の感覚も、騒がしい頭の中の警鐘も、腹の中の不快な浮遊感も、全部がどうでもよくなった。



ああ、なんて綺麗なんだろう。そして、なんて不安に満ちた悲しい目なのだろう。まるで昔の自分の見ているかのようだ。あの時、死んでしまおうと思っていたあの夏の日、俺は男に助けてもらった。自分の正体を知ることで、その力の使い方を教わったことで、一緒に歩いて喋って遊んで、隣りに自分と同じ仲間がいたことで救われた。今度は俺が手を差し伸べる番だ。



「お、俺はお前の正体を知っているかもしれない!!」


「そっ、それは本当ですか!?」


「断定は出来ないが、恐らく!!」


「教えてください!!私は一体なんなんですか!?」


「待て、お前の正体を教えるのには条件がある!」


「な、なんですか?」


「とりあえず地上に降りてくれ!!」



俺は泣く一歩手前のような声で切願した。

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