第7話

午後9時20分。俺は左目を頼りに真っ暗な登山道を歩いていた。秋鳴り山は秋鳴りと春鳴りの境にある、標高1200mの山である。基本的には時間をかければ誰でも登れるような山だが、秋鳴り側から登るのと春鳴り側から登るのとでは難易度が異なり、傾斜のキツい秋鳴り側の方が難しいと言われているが、常人離れした体力と脚力をもつ俺には関係のない話だ。



金成さんの言った通り、というか予想通り地面はぬかるんでいたので、滑らないようにだけ気をつけて歩く。登る。左右に並ぶ木々を鋭い風が吹き抜けていく。木々のざわめき、甲高く鳴く風、小枝を踏む音、水流音、山鳥の鳴き声。山は人間が1人しかいなくても、耳をすませばかなり喧しかった。だが、自然の喧騒は人のそれと違って、いつまでも聞いていたくなる。俺は気分が良かった。



山麓を抜けて冷暗たる中腹を進む。傾斜は山麓より緩いが、土砂道が曲がりくねっているため進行速度が落ちてしまっていた。しかし、ここで無理矢理速度をあげると、土砂に足を取られ、反って遅くなってしまう。ここは急がば回れという言葉に肖って、ゆっくりと確実に登ることにした。



山頂から山風が吹く。山頂はまだ斑雪がある。したがって寒い。だから吹く山風も冷たく、吐き出す息は白かった。



そんなこんなで登山開始から30分後、時刻は午後9時50分。俺は登頂の達成感を万歳で表現していた。無論、独りで、だ。



「……何回やっても虚しいぜ」



呟いて地面に座り、何も敷かずに寝転ぶ。山頂は酷く冷えるが、俺の部屋より広い。木々もなく開放的なので、北は春鳴り、南は秋鳴りがそれぞれ一望出来る。さらに寝転べば、それはそれは美しい星の海と対面出来る。寒さにさえ目を瞑れば本当に素敵なスポットだ。休日にやることがない時、意味もなくここに来てボーッとしたり読書をしたりするくらいには気に入っている。



基本的には日がある時に来ているが、たまにテントを建てて一泊したり、建てずに寝袋に入って一夜を過ごしたりする。しかし今日はテントも寝袋も必要ない。何故ならここで寝泊まりをするつもりがないからである。今日ここに来た目的は少女との接触だ。もうすぐ少女がここの上空を通過し、銭湯へ飛んでいくことだろう。そして銭湯から出て来たらまたここを通過して春鳴りへ戻っていくことだろう。そこへ俺が物理的接触を試み、成功したあかつきには少女と仲良くなろうという腹積りだ。



などと頭の中で計画の確認をしていると、広大な夜空の中に異質な輝きが見えた。俺は飛び起きて左目に意識を集中した。常人なら星の1つだと誤認する青白い光は、流れる雲の上を高速で飛んでいた。北方から飛来するそれに焦点を合わせると、左目は確かに少女の姿を映した。昨晩の少女だ!叫びたくなったが、俺は拳を握りしめて興奮を抑えた。



青白く美しい一対の翼。胸以外は華奢な体。どことなく不機嫌そうな整った顔。腰までありそうな長髪。街を歩けば注目の的になりそうな、とびっきりの美少女。外見的特徴は昨晩見た少女と寸分違わない。相変わらずの非現実的光景に胸が熱くなる。



少女の飛行速度はとても速い。翼は輝いているものの眩い程ではない。加えて今晩は雲が出ており、その上を飛んでいるものだから、ここならともかく、地上からその姿を捉えることはまず不可能だろう。左目があったとはいえ、我ながらよく発見出来た。ナイス俺。



少女は秋鳴り山山頂で俺が待ち構えていることに気付きもせず、音もなく秋鳴り山を通過して行った。そして周囲をキョロキョロと見回しながら高度を下げていき、トンネルの入り口まで降りると、あの美しい翼は消えてなくなった。どうやら自由に出し入れできるようだ。夜にしか使えない俺のとは違って、なんて便利な『固有能力』なのだろう。



地上に降り立った少女は銭湯に向かって歩いて行った。俺はその様子を山頂から見ていた。



物凄く今更だが少女が纏っている衣類は、あれで寒くないのかと思ってしまうほどの軽装で、女子のファッションどころか男子のファッションにも疎い俺だが、コートやジャンバーを羽織りもせずに紺のワンピースだけというのは、どうかと思う。絶対に寒いだろうし、飛んでいる時に下腹部とかスースーしないのだろうか?思い返せば昨晩も黒色のワンピースだったし、気に入っているのだろうか?ワンピース。ちなみに俺の服装は上下ジャージである。これが最も楽な格好だから一番気に入っている。当然寒いが、身体機能が低下するわけではないので余裕で我慢できる。ただ寒いと感じるだけで、それ以外は快適なのだ。



銭湯に到着した少女が引き戸を開け、中へと入っていく。先ほどまで俺も同じ場所にいたと思うと胸の中の熱が上昇した。少女の姿が見えなくなった俺は、その熱を糧に準備運動を開始した。



少女との接触方法は、少女が秋鳴り山山頂を通過する直前に思いっきり跳躍をし、飛翔する少女を引きずり下ろすというものだ。我ながら頭の悪い作戦だと思うが、少女は人目を気にしている。恐らく背中の翼を見られたくないのだろう。警戒心の強い少女には『闇からの不意打ち』というこの方法が最適だと俺は踏んだのだ。



現在俺がいるここから少女が飛んでいた高度差は大体100mだった。この目のおかげで目測には自信がある。さて、縦に1mジャンプするのも大変な人間たちが蔓延るこの世界に、100mも跳ぶことが可能な人間が果たして存在するのだろうか。存在するんだな、これが。何を隠そう、俺だ。まあ正確には人間ではなく『曰く付き』なのだが、外見は人間そのものなので間違ってはいない。



『曰く付き』に備わっている『共通能力』の中に運動能力の飛躍的上昇というものがある。これを意図的に発動し、脚部に集中させることで、人間の限界を越えた、更にその先にある超人的跳躍が可能となるわけだが、流石の俺でもいきなりは出来ない。だから念入りに準備運動をしておく必要があるのだ。

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