第6話
『曰く付き』は夢を見ることが出来ない。だから俺は夢というものがよく分からない。自分の過去の記憶をバラバラにしたものをごちゃ混ぜにして、物凄くリアルな映像にしたものが夢だというらしいが、そんなものを毎晩見ようものなら、かえって疲れてしまうと思う。疲れを取るための休眠なのに、夢を見ることで疲れてしまう。本末転倒もいいとこだ。
千切れて沈んだ意識が、池に落としたピンポン球のように浮上する。そうして両目を開けると周りは既に暗くなっていた。視力を取り戻した左目で壁にかかった時計を見やると、時刻は午後8時15分となっていた。しまった、寝過ぎた!俺は慌てて起き上がった。とりあえずベランダへ出る。雨は上がっており、夜空にはたくさんの星が瞬いていた。秋鳴り山の方を見据えるが、少女の姿はない。
「……さて、今日はどうだろうか」
昨晩のように秋鳴りにやってくるか、それとももう二度とお目にかかることはないのか。どちらかに転ぶかは分からないが、もし前者になった時のために準備に取り掛かるとするか。俺はとりあえず電気を点け、押し入れを開けた。そして中で横たわる大きなザックを引っ張り出し、その中に飲料水と携帯食料、ポータブルラジオと雨具を詰め込んだ。これから銭湯へ行って風呂に浸かった後、秋鳴り山を登る。山頂で少女が現れることを信じて待機し、もし彼女が現れたら、接触を試みるつもりだ。
膨らんだザックを背負い、我が家を出る。玄関の鍵を閉め、階段を降りて秋鳴り荘を後にする。すぐ隣りにある銭湯の入り口の引き戸をカラカラと開け、中に入る。登山靴を脱いで下駄箱に仕舞い、番台で突っ伏して寝ている金成さんに挨拶をして暖簾を潜る。で、誰もいない広い風呂に浸かる。広くて綺麗な浴槽にただ1人。なんて贅沢な時間なんだろうか。しかも無料。金成さんには感謝しかない。
金成さんこと、金成 恵美は有り余る巨万の富をふんだんに使い、若くして銭湯を経営している。しかも秋鳴り荘の大家でもある。彼女はどういうわけか金に恵まれている。何もしなくても金が勝手に手に入る、非常に羨ましい体質なのだ。名は体を表すという言葉は彼女のために存在するのだと思う。加えて彼女は気前がよい。銭湯は無料だし、何かと理由をこじつけては物をくれる。金もくれる。さらに六畳間にタダで住まわせてくれる。女神か。
体と頭を洗って心身ともにスッキリした俺が風呂から出て暖簾を潜ると、眠っていた金成さんがムクリと体を起こした。ふわわと欠伸をする金成さんに挨拶すると、元気よく挨拶を返してくれた。
「おう!こんばんはっ!私としたことが眠っちまってたっぽいな!」
金成さんは大きく伸びをするとケラケラ笑った。夏休みの太陽みたいに眩しく笑う人だ。彼女はいつもニコニコで元気いっぱいな女性だが、心なしか今日はいつもより嬉しそうに見える。何かあったのだろうか。いや、何かあったに違いない。俺は聞いてみることにした。
「おっ、分かるか!?そうなんだよ聞いてくれよ美羽!昨晩新しい客が来たんだよ!なんでも新しく越してきた家の風呂が使えなくてよ、それでわざわざ春鳴りから歩いて来たんだと!いやー、可愛い子だった!水色の綺麗な髪でさぁ」
金成さんの言葉を聞いて俺はハッとなった。水色の髪。それは昨晩飛んでいた少女の特徴と一致するからだ。今の世の中、色々な髪色の人がいる。しかし水色の髪色はあまり見かけない。
「風呂が使えるようになるまでまだ数日掛かるらしいから、今日も来るらしい。美羽、お前も見といた方がいいぜ。あの子、滅茶苦茶可愛いから!あとおっぱい超デケェ!昨日は確か10時くらいに来たから、後1時間もすれば会えるかもな!」
「いや、いいですよ、別に」
「なんでだよ!」
「このあと秋鳴り山へ行くんで」
「なんでだよ!?」
「そういう気分なんで」
「どういう気分なんだよ!わっかんねーな!流石恩人が選んだ男だぜ!」
『恩人』とは俺に『曰く付き』のことを教えてくれた男の名前である。これで『おんと』と読む。金成さんに言われるまで男の名前を知らなかった俺は、初めてその名前を聞いた時、やっぱり名は体を表すんだなぁと感心したものだ。
「まっ、なんでもいいけどさ。あそこに行くなら気を付けろよ、雨で地面が緩んでるから」
「分かってますよ」
俺は金成さんに頭を下げ、銭湯を出た。ここで待っていれば少女に会える可能性は高い。しかし金成さんのいる所で『曰く付き』のことを口外したくない。だから回りくどいし面倒くさいが、当初の予定通り秋鳴り山で待機する。
金成さん曰く、少女は春鳴りから歩いてきたという。大方、自身の正体を隠すために嘘を吐いたのだろう。しかし俺はしっかり目撃した。少女が秋鳴り山上空を飛んで春鳴り方面へ戻っていくのを。つまり俺が見た光景は、『家の風呂が使えないから、わざわざひと気のない秋鳴りの銭湯を選んで飛んで、風呂に入ってスッキリサッパリしてたので飛んで自宅へ戻ろうとしている少女』だったということか。
飛んでいる姿を隠すために見つかる確率の低い秋鳴りを選んで、金鳴りさんにはここまで歩いて来たと嘘まで吐いたのに、本人の予期せぬところで俺に目撃されているとは、なんとも運のない女だ。そして、随分と警戒心の強い性分じゃないか。やはりバレたくないのだろう。自分が人間じゃないということを。
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