朝顔とねじ巻き人形

朝顔とねじ巻き人形

 薄紫の朝顔が不満気に私に花びらを向けてくる。


「はいはい、分かってるよ」とあたしは一人の部屋で呟き、水道の水を鉢に注ぐ。

 この朝顔は入学式で大学から新入生全員に配られたものだ。


 入学式直後、新入生が外廊下を進む脇を、我先にサークル紹介の広告プリントを手渡そうと上級生が固める。

 のろのろと進んだり止まったりする列。


 人ごみ嫌いで行列嫌いのあたしは少々うんざりしていた。それが顔に出ていたのかもしれない。


「荷物を両手で持ったらもうプリント渡されなくて済むよ」


 なんとか部の上級生がにこやかにあたしの持つ朝顔の鉢を指差した。

 慌ててあたしが会釈をした時には、その人は次の新入生にプリントを渡していた。


 変なの。プリント渡しながら「渡されなくて済む」なんて言い方するんだ。


 それから朝顔は寮のベランダに置いて毎日、水をやっている。

 最初に花びらが開いた時は「綺麗だね」と声を掛けた。


 大学生になると自分でしなければならないことが増える。

 ねじ巻き人形みたいに脳みそも使わずせくせく働いている。

 郵便局へ自分で行ったり大学への提出書類を書いたり、高校生までが如何に両親に甘えていたか思い知る。


 そう言えば大学に入ったら小説を書こうとか考えていたんだっけ。

 それもまだ実現できていない。


 時間はあるのに疲れがたまっていて、やる気が起きない。

 でも何かしなくてはいけないような気がする。


 そんな調子で二週間程過ぎ、あたしは朝顔に素っ気ない態度を取っている。


 ピコンとラインが来た。弟からだ。


 返事を送ってから台所に立つ。

 一人暮らしを始めてから自分が絶望的に家事が出来ないことを知った。

 今までかろうじて一度も失敗したことのない野菜炒めを晩御飯に作ろうと決心し、キャベツを切り始めた。


 二つ年下の弟とは少し前まで険悪だった。

 今では段々と落ち着き、あんなに衝突していたことが嘘のように楽しく連絡を取り合っている。


 あの頃、弟を追い詰めていたのは優等生ぶることしかしなかったあたしなのかもしれない。


 あたしはおそらく「真面目であることが全ての免罪符になる」とおごっていた。

 これは小説で読んだ一文だ。好きな作家だったからこそ胸を的確にえぐったことを覚えている。


 弟とのラインはいつの間にかカッコイイ台詞の言い合いになっている。

『無理すんなよ』とおどけて送った後であの頃無理させようとしていたのはあたしだろと自己嫌悪する。


 出来上がった野菜炒めを頬張る。油が多すぎてべとべとするが許容範囲だろう。


 もうラインを始めて一時間近く経っている。

 そろそろ話を畳もうと冗談口調のまま『言い残したことはあるか?』と打ってみた。


 弟から返信が来た。スマホを手に取ろうとしていい加減行儀が悪いと自分をたしなめる。

 実家では食事中にテレビを見ることも良しとしなかった。


 食器を流し台に置いてラインを確認する。


『焦るな、時間はとっぷりあるぜ』


 あたしの焦りを見透かしたような短い言葉。


 ふっと弟に追い越されたような気がした。そう言えばとっくに身長は追い抜かされていたんだっけ。


 ねじ巻き人形の背中のねじは錆びかけていた。

 それを力尽くで巻こうとしても壊れてしまう。

 油を差して休ませてゆっくりゆっくりねじを巻けばいい。油の入れ過ぎには注意しよう、今夜の野菜炒めのように。


 いつの間にか日が落ちていた。


 ふとベランダに目をやると紫色の朝顔が夜の雑音と闇に溶け、ひしっと存在感を放っていた。

 それはもうあたしを責めてはいない気がした。


 もう焦らない。時間はとっぷりあるのだから。




 それから徐々に変化していく日々を重ねた。バイトを始めてサークルにも入った。


 サークルでは入学式に「プリントを渡されなくて済む」と教えてくれたあの先輩と再会した。

 さすがに向こうはあたしのことを覚えていないようだった。


 あたしは小説を書くようになった。

 我ながら下手な文章に溜息を吐きながら書いてる瞬間の楽しさにやめられないと思う。


 誰も傷つかない言葉を綴りたい。

 それは無理でも出来るなら読んだ人が面白い、楽しい、と心をときめかせる物語を書きたい。


 小説を書く時間はねじを巻く時間になっていた。

 せくせく講義を受け、バイトして、疲れた時は朝顔に「おはよう」と声を掛けながら、自分を労わってみる。


 あたしの小説に「面白いよ」とコメントしてくれた先輩が雑談のように、


「そういや、あの紫の朝顔まだ咲いてる?」


 と訊いた。


 覚えてたのか、と心の中で突っ込んで、先輩には特段重要事項でもないだろうに、と息を吐く。

 

 朝顔の近況を訊いた先輩は満足そうに頷いた。

 あたしは早く朝顔に会いたくなった。今夜は帰ってくるのが遅くなったあたしを、朝顔は不機嫌に責めるだろうな。


 気が付くとあたしは微笑んでいて、もう少しだからと言い聞かせながら、想像上の背中のねじを巻くように厳かにシャープペンシルを手に取った。





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