黒星

「おい、そこにいるのはリリシアか?なんだ、お前。生徒会役員からいじめでも受けてるのか」


 聴きたくも思い出したくもなかった声の主は、ニヤニヤと笑いながら、回廊の端からこちらを見ていた。


「トマス君」


「あ〜あ、きったねえなあ。水に滴っても全然色気ねえわ」


 何がおかしいのか、そう言って大笑いをするトマス君を見てアンナルチアはしらけた目を向け、オリビアに向き直った。


「オリビアさん、着替えは持っていらっしゃる?」


「は、はい、あの、寮に住んでいるので、部屋に戻れば制服の予備があります」


「そう、それじゃ、風邪を引く前にあなたは着替えていらっしゃいな」


「えっ。で、でも…」


「大丈夫よ。あ、あと緑化委員の担当の先生にも何があったのかお話ししてくださる?」


「えっ……」


「あはは、それは無理よねえ、オリビア。だってこれで問題を起こしたらあなたもう学園にいられないもの」


 リリシアに言われて、オリビアは青ざめた。それを見たアンナルチアは憶測する。


恐らくはいじめを受けていたことを正直に教師にも生徒会にも言えず、自身で罰を受けとめていたのではないかと。黒星三つで学園は強制退学になる。オリビアにはもう後が無いのだ。


「オリビアさん」


「あ、アンナルチアさん、私…っ」


 オリビアは泣きそうな顔でアンナルチアを見て、唇を噛み締めた。


「オリビアさん、学園で生徒の立場はみんな平等なのよ。男の子も女の子も、家格の高低も気にする事はないって知ってるわよね?」


「あ……」


 少し俯きながらもチラチラとリリシア達の方に視線を向けるということは、オリビアは知っている、でも気にせずにはいられない、あるいは脅されて萎縮してしまったという事だろう。学園を強制退学させられるということは、貴族としても令嬢としても恥になる。王都で仕事につくことも難しくなるし、婚姻すら難しくなるかもしれない。


「なあ、知ってるか?そいつが黒星もらったの、乱れた男女交際のせいだって。そこにいるミネルヴァの婚約者と怪しいことしてたんだよなあ?おかげでミネルヴァとケヴィンの婚約をダメにしたんだもんな」


 ケヴィン……どこかで聞いた名前。アンナルチアが首を傾げ記憶を辿ると、入学式の事件にたどり着いた。見習い剣士のケヴィン・ラドラー子爵令息。あの日、ルーク先輩に肩組みされてトマスの後ろに立っていた男だ。アンナルチアのブラックリストの一人だったが、最近はトマスとも距離を置いて別行動をしていた様子。真面目に訓練場で練習しているのをよく見るし、アルヴィン先輩も筋がいいと褒めていたのを見た。


 馬鹿にしたようなニヤけた笑いをするトマスと、腕を組み顎を上げるミネルヴァを見る。少し悔しげにオリビアを睨みつけるミネルヴァを見る限り、不本意な解消だったのだろうか。


「ま、ミネルヴァもあいつじゃ物足りないって言ってたし、オリビアとお似合いだとは思うけどな。二人揃って黒星二つももらってんじゃ、仲良く退学も近いかもしれないなあ。大体、俺と一緒に行動してればこんなことにはならなかったのに、あいつも馬鹿だよな」


 なるほど。想像でしかないが、ケヴィンはおそらく騎士を目指していて、親に怒られたか、自分で気が付いたかして、トマスを見限って真面目になろうとした。それを面白くないと思ったトマスが何か画策した、というところだろう。


 オリビアさんをいじめて上に立ったような気になってるから少し煽れば、血の気の多いトマスは怒りに任せてペラペラと話してくれるに違いない。


「あらそうなの。ケヴィン君って、マッコイ君と一緒にトマス君とよく一緒にいたわよね。最近二人とも君とは別行動をして、模範的な行動を取ってるって聞いたわ。やっぱり君といても足を引っ張られるって気がついたからかしら?じゃなかったら、今頃黒星三つもらって退学させられていたかもしれないものね」


 ニヤついた顔から笑みが消え、眉を寄せて顔に熱がこもったトマスを見て、アンナルチアは内心呆れた。本当に単純だ。


「子爵令息が男爵令息についていたって、なんの得にもならないもの、妥当よね?ミネルヴァさんも御愁傷様ね。このままいけば彼は将来きっと王宮騎士を目指せるって聞いたわよ」


 えっ、と驚いたような顔をするミネルヴァ。


「トマス君!ケヴィンってそんなに強かったの?」


「うるせえ、知るかよ!」


「だって『あいつは口先ばかりで全然強くない』っていうから、あんたの策に乗ったのに!オリビアの事だって……っ」


「黙れ!馬鹿野郎!」


 カッとなりトマスはミネルヴァに向かって手を振り上げた。パンッと頬を打つ音が回廊に響き、次の瞬間、ドッと倒れる音がした。


 そこには頬を打たれ、倒れたアンナルチアがいた。


「あっ………!」


 トマスは呆然と倒れたアンナルチアを見下ろしている。まさか、ミネルヴァを庇って飛び込んでくるとは思わなかったのだ。それを見て、リリシアも取り巻きのアシュレイも、たちすくんでいたオリビアもミネルヴァも目を見張った。


「と、トマス君……!あ、あなた達、行くわよ!」


 いち早く我に返ったリリシアは、アシュレイとミネルヴァに声をかけ踵を返した。


 ミネルヴァはアンナルチアを見てトマスを見て、ようやく何が起こったのか理解した。トマスがミネルヴァに対して手を挙げ、代わりにアンナルチアが打たれたのだと。


「お、お前が悪いんだ!余計なことを言うから!」


 トマスがミネルヴァを睨みつけ、手を伸ばした。この後に及んで、まだミネルヴァを傷つけようと言うのか。ミネルヴァはひっと体を竦め、後ずさる。


「トマス・ベッカー!やめなさい!」


「なっ……!?」


 アンナルチアの威圧的な声と同時に、トマスの体が横に転がった。突然のことにリリシア達も立ち止まったまま、ミネルヴァも動けずトマスの転がった先を見る。


 アンナルチアがゆっくりと立ち上がり、血の滲む唇を拭き取った。


「みなさん、見ましたね?これはトマス・ベッカーが私を殴った跡。女生徒に先に手を挙げたのは、トマス君です。どんな理由があるにしろ、反撃する術を持たない生徒に対し暴力を振るうのは校則違反です。私は生徒会役員として、これに対処する責任があります。それから、アシュレイ嬢。あなたが私とオリビアさんに水をかけた事もきっちり報告します。言い訳はありますか」


「わ、私!私はリリシア様に命令されて!ほ、本当はこんな事っ!」


「な、何を言うの!水をかけろなんて命令した覚えはないわ!」


 焦って叫ぶリリシアとアシュレイに、トマスが咆哮した。


「うるせえ、うるせえ、うるせえ!てめえらは黙ってろ!!コイツは俺が黙らせてやる!」


 転ばされた事に頭に血が上ったトマスがガバッと立ち上がり、アンナルチアに飛びかかった。



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