七十三話 理外の化物

「それは集団無意識の後押しによる変異なんじゃないのか。レプティリアンとか爬虫類人とか言われてたんだろ。民衆の魂の力の作用で……」

「残念ながら、私は貴女よりも世界の仕組みに詳しい。プシュケーの影響による新たなイデア形成には制限と限界がある」


 哲学者プラトンによるイデア論か。確かプシュケーは魂で、イデアは完成された理想とか物事の本質とかだったかな。

 フリーハンドで人間が書いた歪な円が我々の見ている現像界であり、それを円と認識しているのはコンパスで書かれた完璧な円がイデア界に存在しているからだという。

 イデアは想起するものであり、美のイデア・正のイデア・善のイデアという概念的なものすら有る。

 空を見て美しいと感じるのは空が美のイデアを含んでいるからだって論調だな。要はイデア界に存在する理想の姿に近いほど、そう人間は感じるってわけだ。


 イデア論は弟子のアリストテレスによって理想主義であると否定されており、車や飛行機などの新しく人間が作り上げられたものがイデア界に存在しているわけがないので、現実世界にこそ物事の本質はあるって主張していた。

 それをこの爺さんはプシュケー、魂の力によってイデア界に新しいイデアが生まれるのだって言ってるのか。


「確かに自分だけの現実は常識という集団圧力によって容易く瓦解する。強力な魂を持っていても異能に覚醒することは難しい。だが、同一の世界観を共有することで一人では不可能な影響を現実にもたらすことは可能なはずだ。新しく世界を作り上げる事だって出来るんだぞ?」

「ほう。思ったより深く世界の仕組みを調べ上げていますな。ですが、見落としている。常識という異能を打ち消す現代社会信仰は集団無意識によって形成された架空のイデアを阻害する。新たな世界を作り上げる程の力がプシュケーにあるのではない。新たな世界を作り上げなければ現実に架空存在の居場所はない。それだけの事」


 なるほど。つまり幽霊は常識を打ち破る程の強力な信仰を集めることで現実世界に形成されたが、Vtuberが私は神だの悪魔だの言ったところで現実世界に何の影響も与えることは出来ないって事か。だから集まった信仰が新たな世界としてバーチャル界を形成したと。俺がいなきゃ現実とバーチャル界が交わることなんて絶対にないだろうしな。観測できない世界なんてないのと同じだ。


 それなら確かに陰謀論やクトゥルフ神話の影響が現実世界に現れるのはオカシイ。架空の創作神話だという前提で作家がシェアワールドとして利用してるのがクトゥルフ神話だ。本気で信じてる人間なんていない。いや、クトゥルフ神話には世界を超える超常存在なんて幾らでもいるし早計か?


「特にクトゥルフ神話の怪異という人の理解の及ばぬ化物を形成するにはもっと長い時間が必要で、現世へ無理矢理に生み出してもそこまで力を発揮したりはしないでしょうな。見ると気分が悪くなる化物。それが限界ですな」

「普通はそうなるのか。だが、俺は実際にクトゥルフ神話のクリーチャーを見ている。やはり現神のせいだとしか思えないんだが」

「会われましたか。貴女も」


 険しい顔で老人は呟く。

 クトゥルフ神話の影響は世界の仕組み的に現神の意思が介在しなければ現れるわけがない。だからこそ、ブルーブラッドも放置したんだろうしな。

 密かに人に危害を加える怪異は長い歴史の中で他に幾らでも現れただろうし、気分が悪くなる化物程度ならばお化け屋敷レベルの脅威でしかない。

 現神も既に悪魔としての側面を持ってるから未来にクトゥルフ神話の神格を手に入れたとしても本人の意思で普通は制御可能だ。別の神格としての信仰の方が大きければそちらの方の神格として対応するのが道理。影響はないと予測したんだろう。

 だからラヴクラフトがクトゥルフ神話を執筆することを許した。只の創作怪談だと油断したのだ。


「私が会ったのは色彩でしたな。網膜に焼き付いて未だに忘れることが出来ない」

「まさか、宇宙からの色。異次元の色彩か」


 1927年にラヴクラフトによって執筆されたSF短編小説に登場する宇宙生物。

 隕石として落下してきた地球上には存在しない色。土地に毒素をまいて異常な草花や昆虫、動物を繁殖させて自らと同じ色に汚染する。最期には高温で燃やし尽くして灰しか残らない。これは人間も例外ではなく灰となって崩れ落ちるか動物のように蠢く色彩に食われて死ぬという脅威。

 恐怖に戦きながらも人間は頑なに土地から離れようとはせず色彩に怯えながら生命力を吸い取られる。

 十分な生命力を溜め込んだ色彩は上空に隕石を打ち上げ新たな星を目指す。元の土地に自らの分身を残して。


「エリア51。正式名称、グルーム・レイク空軍基地。アメリカが宇宙人を密かに監禁しているとして有名な場所ですな」

「そこにガチで居るのか……」

「1806年。当時はまだ独立戦争の傷跡が癒えぬ苦しい時期でしたな。ラヴクラフトの話とは比べものにならない大きな被害を受け、一つの都市がなかったことになった」


 ハワード・フィリップス・ラヴクラフトは1890年に生まれている。少なくともクトゥルフ神話の小説の影響によって誕生した怪異ではないし、ラヴクラフトが国家によって隠蔽された事実を知り得た可能性も低い。クトゥルフ神話が有名になったのはラヴクラフトの没後であり、彼が生きている間は生活も苦しく病弱で大学にも行けなかったくらいだ。

 それにこの時期のずれは無視できない要素だ。現神がクトゥルフ神話の信仰を得る為に意図的に怪異を生み出したり装ったりしているわけではないという状況証拠になってしまっている。


「つまり外宇宙にいるだろう本物の邪神をモデルに書かれたのがクトゥルフ神話の小説群であり、作中で登場したネクロノミコン同様のグリモワールだってのか」

「作中に登場した狂える詩人アブドゥル・アルハズレッド。彼と同じように狂気に満ちた人生だったでしょうな。芸術家の繊細な感性で邪神のテレパシーを受け取ってしまったのか常に何かに怯え身体は弱り一般民衆には受け入れられず友人達は教祖のように彼を持ち上げた。宗教とは教祖が死んでやっと完成する。クトゥルフ神話は彼が死んだことで完成してしまったのでしょうな」


 冗談じゃねえな。それが本当ならこいつは明らかな侵略行為だ。

 クトゥルフ神話の邪神による地球の現神の同化政策。人の概念ではなく実在する神で、信仰により在り方を変えていくからこそ可能な戦略。ラヴクラフトは意図して書いたんじゃないだろうが彼の書いた小説が邪神の侵略口となっている。似たような現神なら問答無用で汚染していってるんだ。いや、それが目的でラヴクラフトにテレパシーを発信した可能性すらある。

 くそ、クトゥルフの邪神に人らしいずる賢い奴はナイアーラトテップくらいしかいないんじゃなかったのか。まさか同化してることに気付いてないなんて言わないよな。それだと現神すらも塵芥(ちりあくた)のようにしか感じてないって事になるぞ。

 あり得そうで嫌だ。


「この事実はフリーメイソン内部でもそうは知られておりませんな。一部の派閥で密かに情報共有を行っているに過ぎない」

「どうしてだ。蛇人間の子供が生まれるなんて阿鼻叫喚になってるんじゃないのか」

「蛇の特徴は我々の間では尊き血筋の証。私の目も竜眼と呼ばれ敬われているのですよ」


 まあ、人間体に変化できるし見慣れれば忌避感も麻痺するか。蛇人間はむしろ吉兆として喜ばれているのかもしれないな。


「それに無神論者のフリーメイソン、始まりの蛇を人間の概念で穢すのは恐れ多いという派閥なのですが。彼らに異変が起きていましてな」


 なるほど。派閥としては他宗教の信仰義務を必要ないと断言している彼らの方が始まりの蛇に対する信仰心は高いのか。覚えておこう。


「人口削減計画。ご存じですかな?」

「知ってるよ。ジョージア・ガイドストーン。人口を5億人以下にして統一政府による新世界秩序を目指そうって思想だろ」

「ええ。地球環境と共存する為に必要だと信じ込まされていますな」


 まだ裏があるのか。確かに軽率に人口を減らそうとするんじゃなくて宇宙にある他の地球型惑星を目指したり、星のテラフォーミングをしたり、緑の革命のような食料増産技術を開発したりするために科学技術にその分の投資をしろよとは思ってたが。何処に天才が生まれるか分かんないんだし発展途上国の子供に学習機会を与えてやるとかさぁ……。金は持ってるだろうにってな。


「あの計画の本命は人間の大規模殺害による生贄の儀式なのですよ。対現神戦略。我々の神を他の神とは比較にならない次元に押し上げようと考案された作戦ですな」


 現神による武力侵攻は無かったのでお蔵入りとなりましたが、そう口にする老人に戦慄する。

 それはつまり、この老人も場合によっては人口削減計画に賛成していたってわけだ。勘違いしちゃ駄目だ。

 始まりの蛇の単純な強化はクトゥルフ神話の邪神による汚染を促進させる可能性があるから反対の立場であるだけでフリーメイソンの最高幹部としては人口削減計画に問題を感じていないんだ。

 数百年の歳月を過ごしただろうこの老人は現代の人間と倫理感が異なる、ヒト型の化物なのだ。


「何度、握りつぶしても計画を実行しようとする。仕方ないのである派閥の人間を壊滅させましたが、蛇人間が裏で暗躍しておりましたな。現代科学では作成不可能な奇妙な物品を所持してたので解析させてるところなのですよ」

「なあ爺さん。誰にも教えて貰えなかったから知らないんだが、名前を教えて貰ってもいいか?」


 おや、自己紹介を忘れていましたな。そう気軽に笑って老人は答えた。


「幾つか名前がありますが、そうですな。世間ではサンジェルマン伯爵として広く知られております」

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