七十二話 始まりの蛇
ソレが何であるのかは太古より地球を支配し続ける彼らにも分からない。
蛇の姿をしたソレは己の身から一滴の血を彼らの祖先に分け与えたという。後に神として崇められる蛇に血を与えられた彼らの祖先は身体の一部に蛇としての特徴が浮き出て、人間とは比べようもなく強く賢くなったのだとか。
まだ人種族が二足歩行を始めたばかりの時代であった。火を起こし文明を築き上げ人々を統べるには十分な恩恵であったのだ。
彼らは神に与えられた血の色から自分達のことをブルーブラッドと自称するようになる。
永い時をかけて世界各地に散らばったブルーブラッドは文明の雛形を形成し原始宗教を起こした。
もちろん信仰対象は人へ文明を与えた始まりの蛇だ。蛇は脱皮をして若返ってるように見えたし不老不死の象徴として信仰するのは不自然じゃなかっただろうしな。
こうして蛇は大地母神の象徴とされ各地の神話の土台となった。
始まりのソレが何であるのか分からないままに。
あるいは現代の噂通りに異星から訪れた宇宙人であるのかもしれないし異世界人であるのかもしれないし単なる化物かもしれない。近年になり普及した創作神話になぞらえて旧支配者と呼ぶ者すらもいる。
彼らの神を貶す風潮は遙か以前からあり、特に争いの絶えなかった教会勢力にはエデンの園でイブを唆した蛇。サタン、悪魔であると断じられた。
アブラハム系の宗教は蛇から派生したと思われる竜も悪魔だと言ってるし、人へ知恵をもたらしたこと自体が罪だと言ってるから相当な確執があるな。
「かつての支配者層の神を貶めるのは歴史上の必然ですからな。仕方ありますまい。人へ文明を与えた偉大な神なのですが。私はかの神をケツァルコアトルとして信仰しております」
「アステカ神話において人へ文明を与えた文化神にして生贄を否定した平和の神か」
「現神は信仰される神話体系に沿った行動をしますからな。そちらの方が都合がよろしい」
当然のように神が実在する前提で話しているな、この爺さん。
まさかブルーブラッドの由来、過去の歴史に登場するなんてレベルの話じゃ済まないのか。
「始まりの蛇。未だに繋がりがあるのかよ」
「私の他にも何度か選ばれし者がお会いしておりますな。そうでなくば私の姿に説明が付きますまい。子孫故の異貌であるとするには歴史が長すぎる」
実在する神を信仰する祭祀の一族にして最古の王族。それがブルーブラッドか。なるほどな。それで地球人類が邪神イグの奉仕種族であるっつー話になるのか。
現代の科学文明。その文明を与えたのは始まりの蛇だ。宗教の影響力が弱まり人間の現代社会に対する信仰が強くなるって事はつまり、邪神イグに対する信仰が強くなるって事になる。地球人口77億。このうちキリスト教徒が23億人くらいはいるんだが、全てのキリスト教徒が現代社会より教会の言うことに従うかっていうと難しいだろうな。
まさかオカルト文化が衰退して科学技術が台頭したのって……。
「そう、我々の目論み通りの状況ですな。現代社会という科学文明を広めオカルトを迷信であると貶めることで信仰を蛇神様へと集約させる。いささか上手く行きすぎまして。他の現神の不興を買わないよう慌てて各宗教組織と和解することになりましたな」
「はっもう世界支配完了してるようなもんじゃねえか。文明勃興から人類はブルーブラッドの奴隷だったとは驚いた」
まさか俺に力を与えた神ですらもブルーブラッドの現神のお目こぼしで信仰を集めてるとは思わなかった。
そりゃなりふり構わずコスプレしてでも信仰を得ようとするわ。信仰の絶対量が違い過ぎる。
1970年に世界宗教者平和会議という諸宗教間で対話をして英知を結集し、平和の為の宗教協力を行おうって非政府組織が生まれたんだが、これってブルーブラッドに対抗する為に力を結集して抗おうって話だよな。そこまでしないと危ういと認識されたのか。
文字通り、目の前にいるのは世界の支配者の一人なのだ。
「少々、我々を高く見積もりすぎていますな。上手く行きすぎたと言ったでしょうに」
「何の不都合がある。現神同士の戦力比は既に傾いてるんじゃないのか」
「そうかもしれませんな。それがマズいのです」
「……どういう意味だ?」
もしやハルマゲドンでも起こるのか。現神は明確な意思があるからな。人間と同じく嫉妬で集団リンチをしようなんて話に実は発展していたりして。
「先程、貴女は何故クトゥルフ神話の邪神が実在する前提で話をされたのでしょうかな?」
「そりゃ神々は信仰を力にするからな。クトゥルフ神話の信仰を得ようと邪神コスプレくらいはするさ。実際にオーディンはヒュプノスを装ってた」
そうですか、そう溜息が老人の口から零れ出た。
「聞いてはおりましたが、やはりオーディンも侵食を受けているのですな」
「侵食だと?」
「『泥水にワインを一滴たらしてもそれは泥水のままだが、ワインに泥水を一滴たらせばワインは泥水になる』クトゥルフ神話がラヴクラフトに執筆されてまだ100年も経ってはおりますまい。神が影響されるには早すぎるのです」
嫌な予感に眉をひそめた。
俺は神々が自分の意思でクトゥルフ神話の邪神を装っているのだと思っていた。ちょっとした遊び心だと。人間には理解できない趣向なのだと。
もし、それが違うのであれば? 神々にとっても不測の事態であったのならば?
「蛇人間。クトゥルフ神話における邪神イグの子供。存在するはずのない異形の生物。我々もレプティリアンだの爬虫類人だの言われてきましたがな。せいぜい身体の一部に蛇の特徴が出るだけの話だったのです。ですがな」
蛇神は現代社会で最も信仰を集めている現神だ。異常が出るならば蛇神が最も分かりやすく症状が出る。
「生まれるのですよ。そうとしか思えないような子供達が」
ブルーブラッド。世界の支配者の一人である老人が、苦悩に顔を歪めた。
SCP-879-AW-リコールマンはクトゥルフ神話の邪神は実在するかという包帯男の問いに神は実在すると答えた。
その時代その国の神話体系によって神々が振る舞いを変えるのは自然な事だと答えた。
彼はクトゥルフ神話の邪神の実在にYESともNOとも答えていない。
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