幕間 Pride
警視庁本部、捜査第一課。
渡辺は警視正である警視庁捜査第一課長の前にやって来ていた。
「考え直す気はないか」
「すみませんが俺はもう良い歳でしてね。身体にガタが来てるんですわ。これ以上、第一線にいたんじゃ足を引っ張っちまう」
「書類仕事に従事してくれるだけで良いんだ。後任の育成に専念して欲しいのだが。その経験を失うにはあまりにも惜しい」
「悪いですが、デスクは俺には向いてませんわ。老眼で書類を確認するのも一苦労だ」
渡辺は辞表を提出していた。警察官であることを自ら辞退したのだ。
それは公安警察のスパイという裏の顔を鑑みても叩き上げの刑事という表の顔を鑑みてもあり得ない選択だった。
「そうか。そういうことにしておくか」
「すみませんね」
「渡辺。ヘマをするなよ。元刑事を逮捕など外聞が悪い」
やはり知られていたかと渡辺は苦笑して頷いた。
渡辺が公安警察のスパイであることなど、とうの昔に悟られていたのだ。それでも公安として手に入れた情報を元に刑事として活躍する渡辺は刑事組織と公安警察の潤滑油として機能していた。本格的なスパイは渡辺以外の人員が担当していて渡辺は見せ札的な位置に立っていた。裏の表というべき立場で、渡辺は公安警察の内部事情は殆ど知らない。
スパイこそが叩き上げの刑事の中心となっているという歪な状況で、渡辺はそれに満足していた。
家族のいない渡辺はおやっさんと慕ってくれる仲間のいる警察こそが我が家だった。警察手帳こそが渡辺の存在証明だった。
その居場所を渡辺は自分から捨てたのだ。
「どうしてですか。おやっさん!」
今も一人の部下が悲鳴を上げて捨てないでくれと渡辺に縋り付いている。森田刑事だ。
上からの圧力で捜査が中断されてから森田は軽い警察不審に陥っていた。その中で圧力に逆らわずに尚も秘密裏に捜査を続行するという渡辺の在り方は森田に一つの指針として映っていたのだ。森田が警察に絶望しないで済んだのは渡辺がいたからだ。
その渡辺が警察から追放されようとしている。森田にはそう見えていた。
「何、ちょっとこのままじゃ不便でな。もっとやりやすい立場に移ろうと思ってな」
「やっぱりそうなんですね。圧力で警察を辞めさせられたんですね」
悲壮な顔をする森田に渡辺は笑って頭を叩いた。
「馬鹿言うな。そこまで警察は腐っちゃいねえよ」
そう、渡辺はまだ秘密裏に公安警察に所属している。既に捜査中止の通達がされて逆らったにも関わらずだ。
その際のやり取りはこうだ。
【捜査中の該当組織は白だ。これ以上の捜査は認められない】
「あん? 悪いな。最近、耳が悪くってよぉ。何を言ってるのか全然、聞こえねえ」
【…………そうか。それならば、仕方ないな】
「ああ。仕方ねえな」
公安警察は圧力には屈しなかった。都合が悪くなれば容易く切り捨てられる立場に立っていることを渡辺は自覚しながらも満足だった。
これは誇りの話だ。一人の警察官の、警察組織の、日本の、誇りの話なのだ。
そして警視庁を出て行った渡辺に、もう一人の誇り高きスパイが連絡を取った。
【捜査中の該当組織において協力者を確保しました。事情があって直接お会いしたいのですが良いでしょうか】
ディストピアの未来に抗う希望が集結し始めていた。
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