六十六話 英雄憧憬

 モロホシが穂村をビンタして泣きながら逃げた。言葉にするとこれだけだが、平手打ちをされた側がされた側だし、した側がした側なのでちょっとした動揺がワンダーランドに広がった。喧噪が食堂を包み込んだ。


「日替わり定食をお願いします」

「アンタね……。弁当にしてやっから今日は部屋で食いな」

「ありがとうございます」


 いや、穂村は通常営業のままだが。普通におばちゃんに料理を頼んでいる。ブレねぇ。ちょっとモロホシが可哀想になるな。


「あー、なんだ。俺はモロホシを追いかけてくるわ」

「うん。そっちの方が良いと思う」

「流石にこれはねー」


 苦笑いをしてタラコ唇さんとミサキが離脱する俺を応援してくれる。

 まだ半分くらいしか食事は済んでいないがエナジードレインのチート保持者にとって食事は半分娯楽だ。なくても支障はない。

 それよりモロホシだ。どういう対応をしたもんかね。Vtuberにとって不仲ってのは結構な醜聞なんだよな。この事件が外に漏れてしまえばモロホシは炎上してしまうと思う。今回に限っては穂村は被害者側として扱われる。何故なら殺人未遂なんて誰も真に受けないからだ。

 だからビンタをしたモロホシが一方的に悪者として扱われる事になってしまう。それはなぁ……。どうすりゃ上手く収まるかね。


「待ちなさい」


 立ち上がろうとした俺を急遽リデルが出現して止める。珍しい。バーチャル界じゃなく現実に出現したのは初めてじゃないだろうか。


「え、え? いま、何処から現れました? それにあれは3Dモデルのアリス姫?」

「アマネっちは初めてだっけ。あれがバーチャルキャラクターだよっ」

「私にも同じ事が出来るの」

「どう、凄い? 凄い?」

「え、ええ?」


 初めて異能を見たらしい天音に江利香が赤衣エリカを見せびらかして自慢している。主従揃って満足気だな。楽しそうだ。

 ちょっとホッコリした俺をリデルが引っ張って個室に連れ込む。何やら話があるらしい。


「貴女、モロホシを追いかけてどうするつもり?」

「どうってそりゃ慰めて炎上しないようにフォローを」

「早い話がたしなめるつもりなのね。モロホシが悪いわけではないのに」


 まあ、確かに今回の件は穂村の方が悪いとは思うが。でもアイツもディストピアになる未来を阻止する為に命を掛けて動いていたからな。

 俺が穂村の言うとおりの悪魔だったら義はあっちにあったと思うんだよ。それを一方的に否定する気には。


「この場合、穂村が正しいか否かは問題ではないわ。問題なのは貴女が穂村を依怙贔屓(えこひいき)してること」

「はあ? 普通、自分を殺そうとしてる奴を贔屓なんてしねぇだろ」

「普通はそうね。でも貴女はしてる」


 リデルはキッパリと言い切る。


「英雄を憧憬の籠もった目で見てる」


 穂村を憧れの対象と語るには少し歪過ぎるけれど、そう付け加えながらもリデルは前言を撤回しない。

 俺が穂村を依怙贔屓してる? 確かに殺人未遂を犯した人間を庇うとか特別扱いではあると思うけど。でもそりゃ情状酌量の余地があると思ったからで。確かに穂村を好ましく思ってることは否定しないけども。


「私、アリス・リデルの禁則事項は『見ざる聞かざる』」


 俺のバーチャルキャラクターは話し出す。俺の、アリス姫となる前の人生を。


「前田孝。貴方の話をしましょうか」




 別に俺の人生に特別な事などなかった。

 拓巳のように幽霊が見えるわけでも姉のように太極拳を指導者レベルで極めたわけでもない、普通の何処にでもいるオタクだった。

 だから俺が普通ではなくなったのはアリス姫になってからだ。神様に姿を変えられてチートを貰ってからだ。俺の人格が異常だと言うのならクトゥルフ神話の邪神と邂逅して発狂した。それくらいしか原因はないと思う。


「いいえ、違うわ。そうではない。発狂した人間を現実に帰す程、あの神は酔狂ではないの」

「じゃあ何が原因だって言うんだ」

「貴方。貴方がそうであることを望んだの。現状を狂ったと表現するなら、貴方は望んで狂ったの」


 思い出しなさい。貴方がそうなった原因を。どうしてアリス姫と成り果てたのか。


 リデルの言葉に過去を想起する。アリス姫はブレイブソルジャーのゲームアバターだ。そこで俺はネカマの姫プレイをやっていた。

 別に女に成りたいとか本気で思っていたわけじゃない。ただの遊び心で。ちょっとチヤホヤされたかっただけで。そこでタラコ唇さんと会った。誰にも認知されなかった夢破れた女性の話をずっと聞いていた。不思議と苦痛じゃなかった。


「そう。貴方は望んで真帆と一緒にいた。傷を舐め合っていた」

「舐め合う? まるで俺も傷があるみたいな表現だな」

「そうよ。貴方は傷ついていた。何故?」


 もし俺が心に傷を負っていたとしたらそれは仕事のせいだ。毎日、ブラック会社で働いて心身共に疲れ果てていた。でもそれは誰にだってあることだ。俺だけが特別じゃない。特別な話なんかじゃない。


「そう。特別な事情ではないの。誰にでもあることだった。でも、貴方は忘れられてない。今でも憶えている」


 そう憶えている。引き出し屋の社長を怒鳴った際も相手の顔が前世の上司の顔とダブって見えていたっけ。心の底から腹立たしかった。特にあの、死者が出たとしても微塵も気にしない素振りが頭にきたのだ。変な話だ。暴力を振るったのは穂村も同じだし、俺を殺しても微塵も気にしなさそうな女なのに、どうしてこうも違って見えるのか。

 ああ、そういえばそうだったな。そういう話題が出た時があったのだ。


 俺の前世の職場はブラックで定時に上がれるのなんて数えられる程だった。上司の新人いびりも酷くて、酒の席で辞めさせた社員の数を自慢気に吹聴していた。それが咎められることもなく笑って受け流すような職場だった。俺もそうだった。笑って相槌を打っていた。

 それでとうとう死者が出たのだ。過労死だったのか、ノイローゼで自殺したのかは分からない。まだ若い女性の新入社員だったらしい。

 俺は自分のことで精一杯で、毎日をやり過ごすことだけに全力を尽くしていた。当時はまだネトゲもしていなかったな。ストレスで同僚の事なんて覚えちゃいない。名前も知らない。だから別にそれがトラウマなわけじゃない。そこまで俺は博愛主義者じゃない。利己的な人間だ。


 だからそう。トラウマなのは。今でも憶えているのは。

 上司が酒の席で笑ったのだ。死んだ人間を。もっと早く辞めりゃ良かったのにと。馬鹿だよなぁと楽しそうに笑ったのだ。

 それに周りは追従した。そうですよねと一緒に笑った。俺は? 俺はどうした?


「本当にそうですよね」


 ああ、そうだ。俺も笑った。馬鹿みたいに一緒に笑った。それを今でも憶えている。

 あの場で本当に笑っていた人間がどれくらい居たのか。内心は怒りで震えていたんじゃないのか。そんな可能性に意味などはない。誰もが等しく醜かった。

 今でもあの場に乗り込んで一人残らず八つ裂きにしてやりたい。特に馬鹿面を晒している俺を。


「だから貴方はアリス姫に没頭した。架空の自分に思いを馳せた。そして、穂村雫という英雄染みた異常者に出会った」


 そうだ。俺が出会った神はクトゥルフ神話のヒュプノス。ヒュプノスはドリームランドと現実の境界で迷い込んだ人間を相応しい姿へと変えるという。

 俺が変身した姿は見目麗しい少女だった。ブレイブソルジャーのゲームアバターに似た姿だった。変わり果てた姿に俺は喜んだのだ。現実の身体すら変貌したと知らされてもそれは変わらなかった。前田孝という存在をこの世から消し去ってしまいたかったのだ。

 そんな俺にヒュプノスは興味を抱いた。クトゥルフ神話の神格としてではなく、北欧神話の神格として接する程に。


 そして穂村に会った。ディストピアになる可能性があるからというだけで人を殺そうとするような異常な女に。

 過去にも暴力事件を起こしている。運営が通報していたら刑務所にぶち込まれていてもおかしくはない。滅茶苦茶な女だ。結果的に上手く行ったから良いものをリリエットが崩壊して他のVtuberに恨まれていた可能性だってある。ワンダーランドでも腫れ物扱いだ。穂村を認めている人間なんて俺だけだ。モロホシだけじゃない、誰も穂村を本心では歓迎していない。


 でも、だけど。

 もしあの時、飲み会に居たのが俺じゃなくて穂村だったなら。

 きっと迷わなかった。真っ直ぐに上司の前まで行ってぶん殴っていた。


 暴力は嫌いだ。何故なら暴力は上の人間が下の人間を虐げる手段だからだ。マウントを取って搾取する為のツールだからだ。

 でも、穂村は何時だって弱者の為に戦う。自分の利益なんて欠片も考えない。真性のアホだ。


 その姿が俺にはどうしても眩しく見えるのだ。

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