第4話 赤い火花と白空木 4

【この話の途中にはR18相当の性表現があります。飛ばして読んでも一応話は繋がるので、未成年の閲覧はご遠慮ください】

 


 自分の体の異変に気が付いたその日、樹は家を出た。幼い頃から両親と一緒に過ごし、家族の思い出の詰まったあの家を飛び出した。

 「しばらく一人で修行をしたい」「薪の運搬も今まで通り自分がやる」「だが山に籠って一人で暮らしたい」突然そう言い出した樹を、勿論両親は止めた。しかし樹の意思は固く、今まで我儘を言わなかった息子の願いならばと最後には父も母も樹を止めることはできなかった。

 丁度その頃、樹の村には都から全員より都へ近い村へと移動するようにお触れが出ていた。表向きには「都を広げるため」だとか「よりよい生活のため」だとか言われていたが、その原因はあの人狼だった。止めることのできない"人ならざる者"による被害に、都の役人たちは人間を町に集め防備を固めることを選んだのだ。それによって山の近くの小さい村に住む者たちは皆、人里に近い場所にある新しい村へと移動することが定められた。


「兄ちゃんは?」

「兄ちゃんはな、ちょっとやらなきゃいけねえことがあるんだ」

「やだ! さやも兄さまと一緒がいい!」

「また土産を持って会いに行くさ」


 泣きじゃくる彩と何とか泣くのを我慢している和の頭を撫で、樹は最低限の荷物を纏め家をあとにした。その手には、父からもらった新しい斧と鉈が握られている。いつまでも聞こえる自分を呼ぶ声。村を出る直前にもう一度振り返り笑顔で手を振ると、樹はもう後ろを振り返ることなく山の中へと向かって走り始めた。


 山での生活は静かで穏やかだった。時折身体の奥から壮絶な空腹感が樹を襲い、猟師小屋の柱に自身の身体を縛り付けて過ごす夜を除けば。

 一人で過ごし始めて色々と分かったことがある。まずは目や耳、そして鼻がとてもよくなったこと。相変わらず野菜や果実の味は分からないが、それを口に入れるまでは今までの比ではないほど芳醇な香りが鼻を擽る。

 それは動物相手でもそうで、小屋の中で生活していても外を走る野兎の足音や毛皮の匂いが分かるようになった。次に、身体が丈夫になったこと。村を離れたあの日からしばらくの間何も食べずに過ごしたが、ただ空腹感が増すだけで一向に倒れることも死ぬこともできない。おまけに怪我の治りも速いときている。身体能力も少し上がったようで、日中木を伐り山の下へと運び下ろす作業を難なく一人でこなすことができるようになった。

 あの夜以来、火花とは顔を合わせていない。定期的に木材や食べ物を火花の家まで届けてはいるが、どうしても顔を合わせる勇気が出ずいつも黙って帰ってきてしまう。食欲の発作は主に日が沈んでからしか起こることがないのだが、樹はどうしても怖かった。

 そんな生活を何年か続けているうちに、火花の父親が亡くなったことを知った。涙も流さず父親の遺体を地面に埋める火花の手が力を込めすぎて真っ白になっているのを木の陰から見ていた樹は、彼女が家へ帰った後墓前に花を供えた。家の中からは、声を抑えてすすり泣くのが聞こえた。

 どうしてこうなってしまったのだろう。どうして、傷付いた友の肩を抱き慰めることすらできないのだろう。ふらふらと山を下り久しぶりに自分の村を訪れると、もうそこには人っ子一人いなかった。

 かつての自分の家には蔦が這い、家の周りには雑草が溢れている。数年ぶりの我が家には、もうあの頃の面影など残っていなくて。「また会いに行く」と言ってから一度も顔を見ていない弟妹や両親の顔を思い浮かべると、身を引き裂かれる思いがした。

 両親は元気にやっているだろうか。小さかった和と彩は、一体どれほど成長して今どんな生活を送っているのだろうか。一目でいいからもう一度皆に会いたかった。しかしそんな願いは一生叶いそうにない。家族の姿を思い浮かべるだけで身体の奥底が疼き、飢えをおぼえるこんな呪われた身体では、一生。


「……っ、」


 もう人間の匂いなど残っていないと思ったのに。村へ下りて来たのがいけなかったようで、樹の身体を今までにない強さの飢餓感が襲った。はあはあと荒い息を繰り返しながらなんとか山に戻ろうとしても、脳裏に浮かぶ家族の姿と久しぶりに嗅いだ大量の人間の残り香に眩暈がした。這うように進みなんとか山道まで辿り着いた樹が目にしたのは、獣のように鋭く伸びた爪と、徐々に変化し始める己の四肢で。


「……なんだ、っこれ、」


 人狼に噛まれたあの夜のように熱に包まれ始める自身の身体に戸惑う樹は、山道脇にある社まで這うと枯れることなく湧いていた手水に倒れ込むようにして身体を冷やそうとした。それでも身体の変化は止まらない。両の腕はふさふさとした毛の生えた逞しい前足になり、両足は獲物に瞬時に飛びつくことができそうな太い獣の足へと変わった。樹の身体は、あの日樹を噛んだあの憎き狼と同じ姿へと変化しようとしていた。それと同時に、樹の脳内に浮かぶ言葉の数々。「獲物を狩る」「人間を、あの弱々しい生き物の喉笛を噛み千切る」このままでは欲望に呑まれてしまう。地面に這い蹲ったまま樹が空を見上げたその時、厚い雲の隙間から一筋の月の光が差し込み樹を照らした。




【ここからR18】




「お兄さん、助けてあげよっか」


 そのとき、不意に若い女の声が聞こえた。地面に爪を立て歯を食いしばる樹の目の前に突然姿を現したのは、奇妙な恰好をした若い女だった。


「お、まえ……どこから、」

「ねえお兄さん、辛いんでしょう?アタシが助けてあげる」

「はやく、逃げ」


 ひらひらとした薄い布でできた服を纏いその官能的な身体を惜しげなく外気に晒した女は、目の前で狼に変化しつつある樹を見ても怖がる様子はなくむしろ楽しそうで。

 女は「逃げろ」と声を振り絞る樹を見下ろしくすくすと笑い声を上げると、どこからか小瓶を取り出しその中身を一気に樹の口の中へ流し入れた。


「……っ、げほっ、お前、なにを」


 それは突然のことだった。身体の奥から押し寄せる、先程よりも強い疼き。しかしそれは明らかに"飢え"とは質の違う欲求だった。


「っは、」


 獣に変化していた身体がみるみるうちに人間のものへと戻って来る。しかし身体の熱さは治まりをみせるどころか増していく一方で、樹は苦悶に顔を歪め熱い息を吐いた。


「あら、可愛い顔」


 女は、そんな樹の顔を覗き込んできたかと思うと不意に服の合わせ目に手を差し込み蹲る樹の上に跨った。女の冷たい手が、火照った樹の胸板をすっと撫でる。その冷たさが心地よい反面、女が触れた部分がびりびりと痺れのような刺激を受けて樹は思わず身体を仰け反らせて女を見上げた。


「耐え難い欲求を抑えたいなら、もっと凄い欲を植え付ければいいの」


 目元にしっかりと紅を引いた女が、楽しげに囁く。その間も絶えず女の手は樹の肌の上を這い、それはいつしか樹の下帯にまで伸ばされていた。


「悪い狼に騙されたんでしょう、可哀想に」

「っ、やめ、」


 静止の声を上げながら女の腕を止めようとしたのにも関わらず、少し力を加えれば折れてしまいそうなほど細い女の腕はびくともしない。女に飲まされた液体のせいで樹の身体に力が入らないというのも一因だろうが、それ以上に女の力がその見た目から想像するよりもずっと強いらしかった。


「もしかしてお兄さん、ご無沙汰?」


樹の必死の抵抗空しく下帯まで辿り着いた女の手が、下帯を持ち上げるほど勃ち上がった樹のそれを無遠慮に握り込む。


「っあ!」


ざらざらとした布越しに熱を持った部分を強く握られ思わず情けない声を上げてしまい、樹は顔を真っ赤にしながら慌てて身体を起こした。


「いいのよ、楽にしておいて。お兄さんは見てるだけでいいから」


 そんな樹を間近で見つめた女は、やんわりとその動きを制すると起き上がった樹の首に腕を回し音を立ててその唇に吸い付いた。女の纏う強い桃の香りに呑まれそうになりながら酸素を求め口を開いた樹の舌を女の舌が絡め取り、ねっとりと口内を蹂躙する。女が満足気に離れる頃には樹は息も絶え絶えで、下帯の中はもう痛いほどぱんぱんに膨れ上がっていた。


「お兄さん、名前は?」

「っ、い、っあ! 樹、」


 身体が、頭が熱くて、おかしくなってしまいそうだった。


「アタシは……そうね、今は妲己と呼ばれてる」


 肩で息をする樹の胸元を赤い舌でちろりと舐めた女が、胸から腹へ、腹からその下へと順に下りて行く。その頃にはもう樹に抵抗するような余裕はなく、止めどなく襲ってくる快感に耐えるため噛みしめた唇には興奮で少し伸びた犬歯が刺さり血が流れ出していた。


「力を抜きなよ」


 妲己と名乗った女の黄金の双瞳。その妖しい光が、樹を捕らえて離さない。妲己が樹から視線は逸らさぬまま器用に口を使って下帯の紐を解くと、そのまま戸惑うことなく樹のものに舌を這わせた。ぞくり。寒気にも似た快感が、全身を駆け巡る。長い間自分で慰めることもしていなかった樹のそれは、強すぎる快感にだらだらと先走りを零し始めていた。しばらく丁寧にそれを舐め上げていた妲己は、その根元付近を指で押さえ勃ち上がったものをかぷりと咥え込む。


「っ、く、」


 吸い取られるような刺激に、樹はもう限界だった。しかし妲己によって根元を抑え込まれているせいで達することはできずにただ身を捩るだけ。時折触れる妲己の歯がさらに刺激を加え、思わず声を漏らしそうになった樹は必死で自身の腕に噛み付いた。

 生き場の無い身体の疼きが樹を蝕み、鍛えあげられた身体から汗が零れ落ちる。早く楽にしてほしい。樹は何の羞恥もなくそう思った。そんな樹の様子に気が付いたのか、暫くの間吸い付いたり舐めたりを繰り返していた妲己が押さえていた手を離す。と同時に樹の身体は大きく震え、妲己の口の中にどろりとした樹の精が放たれた。


「ごちそうさま。また遊んでね、樹くん」


 いつの間にか空を覆っていた厚い雲は姿を消し、月の光を浴びた妲己は口元に付いた樹の精を舌で舐めとるともう一度にっこり笑顔を浮かべた。そして荒い呼吸を繰り返す樹に先程の小瓶を手渡すと、最初に現れたときと同じようにその場から一瞬で姿を消してしまったた。未だ立ち上がることができずに地面に身を横たえる樹の隣で、桃色の小瓶が妖しく光った。




【ここまでR18】




 あの晩名実ともに精根尽き果てた樹に向かって「また遊んでね」と満足気に微笑んで、妲己と名乗った女は消えた。あの夜以来あれほど大きな発作に襲われることはなかったが、やはり日が落ちると血肉を求める気持ちが昂ることが多く、樹は何度か妲己に手渡された薬を使った。あの桃色の小瓶の中身は何度使っても尽きることが無かったことから、やはり妲己も"人ならざる者"であるらしかった。最初のうちは、あの女から貰ったものに頼るのはどこか気が引けた。しかし誰も傷つけることがなく、疲労はするが不快なわけではないあの感覚に、樹は自然と薬に頼ることに罪悪感を覚えなくなっていた。気がつけば樹も立派な大人の男になっていて、随分と人とも顔を合わせていない。本来ならば好いた相手の一人や二人いてもおかしくない年齢でずっと一人きりの状態で手に入れたあの刺激の種をみすみす手放すようなことはしたくなかったというのもある。

 樹はもう随分と人と会っていなかった。そうは言っても、未だに月に何度かは山を下りて火花の住む小屋の様子を見に行っていた。父親を亡くしてからしばらくの間家に籠りきりになっていたが最近また鍛冶を再開したようで、家の軒下に積まれた薪が減っているのを見かけてからはまた少しずつ木を届けるようにしていた。火花は相変わらずあまり感情表現が得意ではなく、特に親しい人付き合いがあるわけでもないらしく家の周りにはいつも鉄を打つ甲高い音が響き渡っている。


 その日も、切り分けた薪と少しの山菜を持って、樹は火花の家へと向かっていた。季節はもう春を迎えていたが、夕暮れ時はまだ少し冷える。そのせいか、樹の食肉衝動はいつもよりも深く、発作の回数も増えてきている。特に天気が悪いここのところは、気分も体調も最悪だった。昨日も一晩眠ることができず、今日の仕事がひと段落したら小屋の中で温かい毛皮に包まれてぐっすり寝ようと思っていた。


「……樹?」


 気を抜いていなかったと言えば嘘になる。しかし、家から離れることのない火花が山の中まで上がって来るなど、どうして想像できただろう。

 久しぶりに目にした火花は昔の面影を残しながら、一人の女になっていた。一つに結い上げられた艶やかな黒髪に、樹よりかは小さいものの随分と伸びた背丈。柔らかみを帯びた体つきとは対照的に相変わらず傷だらけの手はぎゅっと握り締められ、切れ長の瞳は最初に出会ったあの日のように真っ直ぐ樹を射抜いていた。


「……ひ、火花……どうして、」

「それは私が聞きたい。樹、どうしてお前は、」

「来るな!」


 ぐらり。火花の香りを嗅いだ瞬間、樹の手からは抱えていた薪がばらばらと零れ落ちた。久しぶりに触れる、あの甘い香り。それは弱った身体には強すぎる刺激で、樹は自分の心臓がどくどくと大きく脈打つのが分かった。


「樹、」

「それ以上近付くな」

「何故、」

「頼むから!今すぐ、今すぐここから逃げろ!」

「一体どうしたんだ樹、」


 頭を抱えてよろめいた樹に向かって火花が一歩足を踏み出した、その瞬間だった。

恐ろしい唸り声と、力強く地面を蹴って飛ぶ大きな身体。今の今まで"樹"だったそれは狂ったように唸り声をあげて、目の前の火花に襲い掛かった。


「っ、樹、」


 "それ"は恐ろしく素早く、力が強かった。火花が最後に見たのは涙を浮かべて自分の喉を食い破る"樹だったもの"の小豆色の瞳。真っ赤な血が火花の首から零れ出し、二人を染める。


「……ひば……な……!」


 どさりと地面に投げ捨てられた火花の身体の周りに広がる血の海。樹はただ茫然と、目の前の"火花だったもの"を見つめた。ぽつりぽつりと降り始める雨。その冷たさも感じられない。


「ごめん、火花、ごめん、ああ、」


 樹の頬を伝う涙も、身体についた火花の血も、全て雨に流されていく。じりじりと後退りしたあと逃げるように走り始めた樹の背中を、"火花だったもの"の暗い瞳が見つめる。

 冷たい春の雨の下。真っ白な空木の花が咲いていた。













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