第3話 赤い火花と白空木 3

 ぼろぼろの状態で蹲っていた樹が次に目を覚ましたとき、辺りは既に明るくなり男へと姿を変えたあの狼はどこにも見当たらなかった。自分はどうして生きているのだろう。意識が朦朧とする中記憶の糸を辿ってみても、はっきりと思い出すことができるのは自分があの人狼に噛まれたということだけ。悪い夢でも見ていたのではないかと思ってしまいそうになるほど身体に異常はないが、折れた斧と血だらけの身体が"あれ"が夢ではないことを物語っていた。


「そうだ、村」


 茫然としたままなんとか立ち上がり、樹は村がある方向へと駆け出した。その身体に不思議と痛みは無く、千切れかけていた首の穴もわずかな傷痕を残して塞がっている。

 自分に、自分の身体に一体何が起こっているのか。混乱したまま一心不乱に山を駆け下り村の中へ駆け込んだ樹が目にしたのは、いつもと何も変わらぬのんびりとした村の姿だった。


「さや! かず!」


 幼い兄妹たちの名を呼びながら血塗れで村の中を駆け抜ける樹に、誰もがぎょっと立ち止まる。そんな周囲の視線を気にする余裕も無く樹が家の中へ飛び込むと、丁度飯の支度をしていた母と、仕事道具を下ろし家へ上がろうとしている父と目が合った。


「あんた、」

「樹お前、昨日はどうして……」


 昨日の晩帰って来なかった挙句けたたましく帰って来た息子を叱ろうと立ち上がった両親は、血に塗れぼろぼろに破れた服を着た樹の姿を見てぽかんと口を開け動きを止めた。


「あんたそれ、どうしたの?怪我は?」

「和と彩は? あいつら家にいる?」

「何があった、樹」


 父と母の問いには答えず大声で弟妹たちの名を呼ぶ樹のただならぬ様子に、両親は揃って顔を見合わせる。しかしそれも一瞬のことで、母はすぐに血だらけの樹のために湯の準備を始め、父は真っ青な顔の樹を支え宥めながら腰を下ろすように諭した。

 昔から、樹は静かな子供だった。"子供"であるより"兄"出会った期間の方が長いせいか気が付くといつも自分のことは自分で済ませ、自分より小さな弟妹たちの世話をやくような、そんな子供だった。そんな樹がこれほどまでに感情を露わにし、動揺した姿を見るのは、十数年一緒に暮らしてきた両親にとっても初めてのことだったのだ。


「兄さま!」

「あ、兄ちゃんだ!おかえり!」


 しばらくすると騒々しい兄の声で目覚めたらしい和と彩が眠い目を擦りながらとたとたと走り出てきて、樹の身体からは今までの緊張が嘘のように力が抜け、父に抱えられるようにして土間に座り込んだ。みんな、無事だった。いや、どうして自分はこんなにも焦っていたのだろうか。きっとあれは狼への恐怖が見せた幻影だったのだ。


「兄ちゃん怪我したの?」

「兄さま、いたい?」

「大丈夫だ……兄ちゃんは、大丈夫」


 いつもとは違う家族の様子に何かを感じ取ったのだろう、心配そうな表情を浮かべる二人に力なく笑い掛けながら、樹はただ静かにそう言った。まるで自分に言い聞かせるように、「大丈夫」「大丈夫だから」と。

 しかしそんな平穏も長くは続かなかった。汚れた身体を綺麗に拭き、新しい服に着替えた後「山で狼に襲われた」と話し始めた樹は、母の差し出した温かい粥を口に入れてすぐに違和感を覚えた。味がしないのだ。疲れ切った息子のためにきびや粟に白米を混ぜて作ってくれた粥の味が感じられない。それはまるでどろどろとした水を飲んでいるかのように無味無臭で、味気ない物だった。


「お袋、この粥……」

「美味いだろ?丁度米をもらったところだったんだ、それを食べて早く元気になりな」


 久しぶりの白米にきゃっきゃと声を上げながら粥を頬張る弟妹たち。おかしいのはこの粥ではなく、自分の舌だ。そう気付いてしまうと、えも言われぬ不安が樹を襲った。

 その日は父も仕事を休み、斧を壊してしまったと項垂れる樹の頭をがしがしと撫でながら「お前が無事ならそれでいい」と笑った。

 仕事続きの生活の中で、久しぶりの一家団欒。にこにこと新しく覚えた書物の内容を教えてくれる和と、以前よりも少し上達した裁縫の腕で繕った跡を見せてくれ彩。そんな二人を褒めながら楽しそうに笑う母と、嬉しそうに目を細める父。それは本当に幸せで、樹の心の中に根付いた不安はすっかり影を潜めていた。


「おやすみ」

「おやすみなさい、兄さま」

「兄ちゃん、さや、おやすみ!」


 はしゃぎすぎて疲れたらしく、布団に入ってすぐにすやすやと寝息を立て始めた和と彩に布団を掛けながら、樹は幸せな気持ちのままその隣に身体を横たえ目を瞑った。

 大変な目にあったが、今日は良い一日だった。皆が寝静まった家の中で穏やかな気持ちに浸っていた樹は、ふと腹が減っていることに気が付いた。やはり夕餉は粥ではなく普通の飯にしてもらえばよかったか。そう思いながら寝返りを打った瞬間、むわっと香る噎せ返りそうなほど甘い匂い。


「……?」


 それは目の前で幸せそうな寝顔を浮かべる和と彩から放たれていた。今まで生きてきて一度も嗅いだことのない、濃厚で美味そうな匂い。父が町で買ってくる砂糖菓子とも、母が時折作ってくれる小豆を炊いたものとも違う甘い匂いに樹の空腹感は増し、無意識のうちに身体がそちらへ引き寄せられる。日にも焼けておらず、成長途中の白い柔肌。その奥まで牙を突き立てれば、一体どんな味がするのだろう。これだけ若々しく新鮮な人間ならば、量は少ないがこの上ないほど上質だ。狩りをするまでもない。目を覚ますよりも早く牙を突き立ててしまえば、これはあっという間にこの飢えを満たしてくれるだろう。


「……樹、眠れないのか?」


 いつの間にか身体を起こして弟たちを見つめていた樹は、そんな父の声ではっと我に返った。今自分は何をしようとしていた? 一体、何を考えていた?

 その時、樹の脳内にあれだけ思い出すことのできなかった昨夜の出来事が一瞬にして浮かび上がる。「お前はヒトにも獣にもなれず、同胞を見れば飢えを感じるようになる」低く、狂気を孕んだ男の声。そうか、思い出した。


「樹?」

「気分が悪くなっちまった。ちょっと出てくる」

「……大丈夫か?」

「ああ、親父は先に寝ておいてくれ」


 震える身体を叱咤し、他の家族を起こさないよう戸口へと向かう。ふらふらと立ち上がった樹に父はまだ何か言いたそうにしていたが、にこりと笑ってもう一度「大丈夫だって」と言うとそれ以上何も言わず闇に消える樹の背中を見送った。


「ふざけんじゃねえ、」


 頭の中で響く人狼の声。「人狼というのはどうして生まれるか知っているか、小僧」心底可笑しそうに、愉快そうに笑ったあの狼。「この世には二種類の人狼がいてな。わしのように生まれたときから人狼であるものと、」あいつはなんて言った? どうして俺を殺さなかった? 「そういう人狼によって無理矢理人狼へと帰られたニンゲンだ」あいつは俺を殺さなかった。俺を殺さずに、俺を畜生へと引き摺り下ろしたんだ。


「っ!」


 すっかり静まり返った村の中を走り抜け、山道の脇にある階段を駆け上がって小さな社の下に座り込む。何度も何度も脳内で繰り返される人狼とのやりとりに吐き気を覚えて蹲れば、同時に先程の甘い香りを思い出して強い空腹感に襲われる。「何を躊躇うことがある?」目の前で、あの人狼の幻影が笑う。「自分より弱いものを食らうのは自然の理」傷で塞がった右目を撫でながら、青白い目を細めて、笑う。


「くそっ!」


 頭がおかしくなってしまいそうなほど強い欲求に、樹は思わず自分の腕に噛み付いた。だらだらと流れる血は赤色。昨日までと同じ、赤い色。それでも自分は今までと同じようには生きることができない。この身体に混じった、忌まわしい人狼の血のせいで。自分の腕に噛み付いてふーふーと荒い呼吸を繰り返しながら、樹は声を漏らさずに泣いた。






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