第2話 赤い火花と白空木 2

 初めて火花たちの鍛冶場へ同行して以来、樹は父と一緒に山を越えて薪を運ぶようになり、時には一人で村で採れた野菜と村の母親たちが使う包丁を持ち鍛冶場を訪れるようになった。

 相変わらず火花は自分の興味があること以外には淡泊だったが、持ってきた刃物を研いだり熱い鉄を打ったりする姿を興味深そうに見つめる樹に文句を言うでもなく、話し掛ければ返事も寄越す。自分よりも小さな子供が多い村に住む樹にとって火花は初めての年の近い友人であり、あまり人の訪れない鍛冶場に住む火花にとっても樹は初めての友人(のような何か)であった。

 今まで小さな村と山のことしか知らなかった樹には、硬い鉄の塊を自在に操り新しい命を吹き込んだり錆びかけの刃を美しく研ぎ直すことのできる火花の手がまるで妖術かなにかを使っているように見えていて、いつも外の世界の話を持ってくる樹は火花にとって夢物語を聞かせてくれる語り部の様であった。

 小さな弟妹たちのために、一人娘しかもうけなかった父親のために、「選ぶ」ということができなかった二人にとって、自分とは別の世界で生きる相手が面白く、同時に少し羨ましくて。勿論樹は山を駆け木を切る今の仕事を楽しんでいたし、火花も渋る父親を押し切って始めた刀鍛冶というものが好きだった。

 それでも時折ふと思うのだ。もしも今全く違う生き方をしていたら、自分は一体どういう道を選びどう生きるのだろうかと。


「そういえば、また人狼が出たらしい」

「またその話か」

「隣村で何人も襲われて食われちまったんだって」


研ぎたての包丁で切り分けた西瓜にしゃくしゃくと噛り付きながら近頃村で話題になっている人狼の話を持ち出せば、火花はふんっと鼻で笑う。


「人狼なんてお伽噺を信じる歳でもないだろう」

「でもよ、普通の狼にしては話の筋が合わないっていうか……あ!」

「なんだ騒々しい」

「今日はお前に渡したいものがあったんだ」


 口の中の西瓜を慌てて飲み込んでべたつく手を西瓜を冷やしていた氷水で洗う樹を不審げな顔で見つめながら、火花は西瓜の皮をわきへ置き同じように氷水で手を濯いだ。


「あんまり綺麗じゃねえけど」


 そう言って樹が懐から取り出したのは、一見木の塊にみえる何か。


「なんだこれは」

「何って……木彫りの細工品だよ。ほら、兎に雀、それからここに桜が咲いてる」


 樹の手に握られたものをよく見ると、それは確かに木彫りの小さな細工品で。滑らかになるまで磨かれた木の塊の内側に、兎や雀などの生き物と満開の桜が彫り込まれている。


「何故これを」

「いや、いつも世話になってるし何か礼でもできねえかなって」

「……私はそんなに子供に見えていたか……?」

「え!? あ、いや、悪い……周りが餓鬼ばっかりで年頃の女の子が何貰って嬉しいかなんてよく分からなくて……」


 工芸品として売られているものと比べれば随分と不恰好で、女の子への贈り物としては些か子供騙しで。しかしいくつもの木を犠牲にして彫ったその小さな細工品は、樹にとっては自慢の一品だった。いつも"技術"を提供してくれる火花に、樹も何か自分の"技術"を使ったもので返したかったのだ。


「……そこまで言うなら貰っておこう」


 こんなものいらんと怒られるかと思ったが、意外にも火花は贈り物を気に入ってくれたらしい。手の上に細工品を乗せて興味深そうに眺める火花を見て樹はへらりと笑いながら次の西瓜へ手を伸ばし、次は簪にでもするかと密かに心に決めた。




***




 樹が火花に木細工を送ったその日の帰り道。予定より少し遅くなり、樹が暗くなり始めた山を小走りで駆け抜けていたその時、事件は起こった。

 その日はやけに森が静かで、火花の父から借りた灯りをぎゅっと握り締めた樹はえも言われぬ不安を感じながら先を急いでいた。完全に日が落ちてしまえば、草木が生い茂る山の中には月明かりも射さず暗闇となる。いくら灯りと斧を持っているとはいえ、なんとかして日没までに山を抜けてしまいたかった。

 いつもより焦っていたからか、それとも山を抜けることばかり考えていたからなのか。樹は気が付かなかった。いや、森の獣たちとは違い"人間"である樹には、気が付くことが出来なかったのかもしれない。突然背後から聞こえたがさがさと草むらの揺れる音に樹が振り返ったその瞬間、その身体は何か大きなものに突き飛ばされ、大切に持っていた灯りは樹の手を離れ地面に落ちて消えた。


「っ、」


 背中から思い切り地面に叩きつけられ痛みに顔を歪めながらも、樹は自分を押さえつける何かに抗おうと手当たり次第に周りにある枝や石を投げようとした。山賊か、それとも山の獣か。どちらだって構わない。今必要なのは生き延びることだ。そう思ったのに。自らの上に跨るものが自分より一回りも大きな狼だということに気が付いた瞬間、樹の身体は恐怖という感情ただ一つによって簡単に支配されてしまった。

 戦おうと、逃げようと思っていた。そんな気持ちが消し飛んでしまうほど、目の前の獣は大きく、ただただ恐ろしかった。

 ふさふさとした灰色の毛に全身を覆われ、樹を抑える太い足の先から覗く鋭い爪。耳まで裂けた大きな口には人間なんて骨ごと噛み砕いてしまいそうなほど鋭い牙が並んでいて、月の光のように青白く妖しい光りを孕む瞳は樹の身体を恐怖で地面に縛り付ける。樹の顔を覗き込むようにして見下ろす狼の口から吐かれる生暖かい息は鉄の混じったような生臭い臭いがして、よく見るとその口元や胸元は赤黒く染まっていた。

 それは血だった。夥しい量の、"獲物"の血。


「なんだ、男か」


 がたがたと震えそうになる身体を叱咤しぐっと目の前の狼を睨み付けた樹の耳に聞こえて来た低い男の声。第三者のいないこの空間で、それは明らかに目の前の狼から聞こえてきたもので。


「……人、狼……!」


 驚きで目を丸くする樹を見下ろした狼はすっと目を細め、人間がそうするのと同じように口端を上げて笑った。


「思ったよりも肝が据わっているな、小僧」

「お、お前か。近頃この辺りを荒らしている人狼ってのは」

「荒してる?馬鹿を言うな。俺は狩りをしているだけだ。お前たちがそうするようにな」


 こいつはどこから来たんだ。これだけ血がついているということはそれだけの獲物を殺したはずだ。恐怖でよく働かない頭でそこまで考えて、樹はあってはならない一つの可能性に辿り着いた。ここから一番近い狩場は、人里は、うちの村しかない。もしかしたら、そう思った次の瞬間に、樹は無意識のうちに腰に付けていた斧を握り締めると目の前の狼に向かってそれを勢いよく振り下ろしていた。


「っ、この、」


 がむしゃらに振り下ろしたせいで刃ではなく斧頭が当たったようだが、それなりの効果はあったらしい。軽くなった身体と開けた視界に飛び起きると、巨大な狼は右目からだらだらと血を流しながら樹を睨み付けていた。怒りからか、全身の毛が逆立て牙をむく狼は、姿勢を低くしながら斧を握り締める樹へ向かってじりじりと距離を詰めてくる。


「腹はすいておらんから見逃してやろうと思っていたのに」

「お前、村を襲ったのか」

「村?……ああ、お前あの村の死に損ないか」


 くつくつと喉を鳴らして笑いながらも決して視線を逸らそうとはしない狼。こいつはここで殺さなくてはならない。ここで逃がせば、火花が危ない。それに村だって、まだどうなっているかは分からないのだ。こいつがもう一度誰かを殺す前に、今ここで仕留めてしまわなくてはならない。


「どんな期待をしているのか知らんが、お前の村はもう無いぞ」

「……黙れ」

「あまり食材としては良く無かったが……狩りとしては楽しめた。子供が泣き叫ぶ様などは特によかった」

「黙れ!!」


 冷静さを欠いてはいけない。それは普段から父に教え込まれてきたことだった。どんな状況でも、冷静に周りを見ることができなければそれは大きな事故や怪我に繋がる。特に自然相手のこういう仕事ならなおさらだ。父はよく、そう言いながら立ち並ぶ木々を撫でていた。しかし今の樹にそんな余裕などあるはずもなくて。


「っ、がっ」

「人狼というのはどうして生まれるか知っているか、小僧」


 斧を振りかぶって狼へと飛びかかった樹の身体は、その攻撃を難なく躱し大きな身体をぶつけて来た狼によって呆気なく近くの木の幹に叩きつけられる。先程の比では無いほど身体を強く打った樹は、痛みでずるずると地面に座り込んでしまいもう一度斧を握ることすらできない。そんな樹をせせら笑うかのように、狼は地面に落ちた樹の斧を咥えると、その柄をぼきりと噛み砕き遠くへ投げ捨てた。


「この世には二種類の人狼がいてな。わしのように生まれたときから人狼であるものと、」


 首筋にかかる、生暖かい息。頭を強く打ったせいでぐるぐると回る視界に、痛む背中。それでも力なく睨み付けようとする樹を見て、狼は心底愉しそうに目を細めた。


「そういう人狼によって無理矢理人狼へと帰られたニンゲンだ」


 再び身体を強く押さえつけられ、爪が肌に食い込む感触。しかしその次に襲ってきた激痛によって、樹は思わず悲鳴にも似た叫び声を上げた。首筋に太く鋭い牙が深々と食い込み、樹の日に焼けた肌をぷつりと破ってその奥深くまで突き刺さったのだ。


「……あ、っ、」


 どくどくと血が流れ出る感覚と同時に感じる、身体の奥からせり上がって来る熱い何か。狼が樹の喉笛から口を離す頃には、樹の身体は内側から炎に焼かれるような熱に包まれていた。


「お前はヒトにも獣にもなれず、同胞を見れば飢えを感じるようになる」


 口元に付いた血を赤い舌で舐め上げながらそう言う狼をぼんやりと見つめながら、樹は熱さに身を捩る。穴の開いた喉では悲鳴を上げることすらできず、ひゅうひゅうと空気の通る音しか聞こえない。


「わしが憎いのならいつでも殺しに来ればいい。それまでお前が生きられればの話だがな」


 いつの間にか日は沈み、木々の隙間から幽かに零れる月の光を浴びながら徐々に人間へと姿を変えた狼は、残った左の青い瞳をにいっと細めて笑うと血を流しながら蹲る樹の前から姿を消した。

















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