月に叢雲

Virtual Hitsuji

赤い火花と白空木

第1話 赤い火花と白空木 1

 都からうんと遠くにある小さな村で、空木は生まれた。とは言っても、あの頃はまだ空木という名の人狼ではなく、樹というただの人間だったのだが。

 樹はどこにでもいるようなごく普通の子供で、両親と歳の離れた妹と弟の四人の家族と共に貧しいながらも飢えたり病を患ったりすることなく恵まれた生活を送っていた。

 曾祖父の代から続く木こりである父の姿を見て育った彼はいずれ自分もその跡を継ぐのだろうと思っていたし、仕事が早く今まで一つの事故も起こしたことが無いことで他の木こりや村人たちからの信頼を集めていた父のようになりたいとも思っていた。

 幸運にも同じ年頃の子供たちと比べて体格に恵まれたこともあり、樹は物心がつく前から父の後を追って山へ入り彼の仕事を間近で見て学び始めた。そのお蔭で十になる頃には一人でも木を切ることができるようになったし、仕事の後には余った材木で簡単な木工品を作るようにもなった。

 初めて作ったのは、箸の使い方を練習し始めた兄弟たちの箸。その次は母のための小さな椀。父とは揃いの釣竿を作った。他にも上手く出来たものは都からやって来る行商人に引き取ってもらって家計の足しにした。そうしてできた僅かなお金を辛抱強く貯め、小さいながらも都の話や御伽噺に興味を持つ弟には絵巻とほんの少しの筆と紙を、妹には新しい裁縫道具を買ってやった。もう少しして自分が父と同じぐらい腕の立つ木こりになった暁には二人を隣の村にできたという手習い所に通わせてやりたい。樹は密かにそんなことを思っていたのだ。自分は大人しく座って手習いをするよりも山へ入って身体を動かしながら学ぶ方が性に合っているが、幼い兄妹たちにそれを強いるのは酷な話。それにいくら腕の立つ木こりになったとしても都で働く人間と比べるとその稼ぎは雲泥の差だ。これからはきっと学のある人間が重宝される。世情に疎い樹にもそれぐらいのことは分かっていた。

 そんな樹がいつものように山へ入る準備をしていたある日、父は薪の山を積んだ手押し車を指して「今日はこれを離れ山の向こうへ持っていくぞ」と言った。


「山を越えるのなら担いだ方が良くねえか?」

「それじゃあ足りねえからな、これで迂回して行く」

「分かった。他にいるものは?」

「この間お前にやった鉈と斧、一応持っていけ」


 仕事でも無いのにどうして鉈や斧が必要なのだろうと思いながらも、まあ山を越えるなら何が起こるか分からんか、と荷台に言われた通り必要なものを積んで車を押し始める。樹にとって、離れ山の向こう側へと行くのはこれが初めてのこと。さらに言えば、仕事以外で父親とどこかへ出掛けることも初めてだった。

 山の中は荷車を押す音と木々のざわめき、そして時折鳥の鳴く声が聞こえる以外はとても静かで。初夏の木漏れ日に目を細める樹の頬を優しい風が撫でていく。大量の薪が乗っているとはいえ、父と樹の二人で押せばうねうねと曲がりくねる山道も思ったほど苦労せずに進むことができ、一行は予定通り山の頂上近くにある猟師小屋で夜を明かすことができた。

 翌朝、眠い目を擦りながら母が作ってくれた握り飯を頬張ると、父と樹は太陽が昇るのと同時に小屋をあとにし山を下り始めた。しばらくして段々と日が昇ってくると、荷車ごと転げ落ちてしまわぬよう全身に力をいれていた樹の額にもじわじわと汗が滲む。木々の間から降り注ぐ木漏れ日に目を細めながらしばらく進んで行くと、不意にどこからかカーンカーンと甲高い音が聞こえてきて、樹は不思議に思いながらも山を下り続けた。

 その音は山を下りるほど大きくなってくる。一定の間隔で硬いもの同士がぶつかり合うようなその音に耳を澄ませながら最後の下り坂を進んで行く二人。木々の間を抜けパッと視界が広がったかと思うと、樹の目の前には大きな池が広がっていた。


「こんなところにこんな大きな池があったのか」

「鶴鳴の池と呼ばれとる」

「鶴がいるのか?」

「いや、鶴の鳴き声の正体はこの音だ」


 そう言いながら迷うことなく池沿いを進んで行く父の視線の先を辿ると、山から少し離れたあたりに小さな小屋が建っているのが目に入る。どうやら音はそこから聞こえていて、父の目指す場所もその小屋であるらしい。


「……鍛冶場か?」

「ああ。古い知り合いでな」


 慣れたように小屋の隣に荷車を止め開け放たれた戸口の前に立った父が、小屋の中に向かって「おーい」と声を掛ける。すると今まで鳴り響いていた鉄を打つ音が止まりガタガタと何かを片付けるような音がしたかと思うと、中から父と同じ年の頃合いの男が嬉しそうに笑みを浮かべながら現れた。


「思ったより早く着いたな……お、なんだ。今日は倅も一緒か!」

「これからはこいつにも手伝ってもらおうと思ってな、樹というんだ」

「そうかそうか! 丁度良かった、今うちの娘にも手伝わせていたところでな。火花、ちょっとこっち来い」


 樹の父に負けず劣らずの体格をした男が小屋の中に向かってそう声を掛けると、中から誰かが走り出てくる。


「うちの火花だ」


 それは、丁度樹と同じ年頃の少女だった。黒い髪を一つに纏め、所々汚れのついた顔を手の甲で拭いながらまっすぐこちらを見つめる強い視線。にこりともせず黙って頭を下げるその姿は、樹の知っている同じ年頃の少女たちとはどこか異なる雰囲気を持っていた。


「俺は薪を運ぶ。お前は持ってきた物を見てもらっておくといい」

「鉈と斧のことか?」

「貸して、中で見るから」


 薪の上に縛り付けてあった商売道具を手に取ると、火花が相変わらずにこりともせず樹の前に手を出した。樹よりもずっと白くて細いその腕には所々切り傷や火傷の痕があって、掌にはいくつもの肉刺ができている。その様子が初めて山で働き始めた頃の自分と重なり、樹は黙って火花に鉈と斧を手渡すとその後に続いて小屋の中へと足を踏み入れた。


「……あち、」


 入口が明け放されているのにも関わらず、小屋の中は別世界かと思うほどの暑さだった。部屋の片隅で赤々と燃える炎の前には先程まで打たれていたのであろう鉄の塊が置かれている。あまりの暑さに顔を歪め頬を伝う汗を拭う樹とは対照的に、火花は慣れたように石張りの地面に座ると真剣な顔で鉈を見つめ、そっと刃を指でなぞった。


「これは親父さんのもの?」

「いや、親父から俺が貰ったんだ」

「よく使いこまれている」

「……その、傷んだりしてねえか?俺は親父と違って仕事が荒くてさ」

「目立つ刃こぼれや傷は無い。綺麗な子」


 そう言ってふっと頬を緩めた火花の横顔に一瞬目を奪われた樹は、またすぐに無表情へと戻った火花を見てはっと我に返った。こいつ、人と喋っているときには笑わないくせに刃物相手だと笑うのか。そんなことを思っていると、火花はもうそこに樹がいることすら目に入っていないかのように集中して鉈を砥石の上に滑らせ始める。その表情はやはり戸口で挨拶を交わしたときよりもどこか柔らかく見えて、樹は作業の間中火花の横顔をぼうっと見つめていた。


「終わった」

「……ああ、有難う」

「かなり切れやすくなったはずだから、持ち運びには気を付けて」


 淡々とそう告げる火花から道具を受け取り、大切に布で包んで両手に抱える。毎日使っているただの鉈と斧のはずなのに、真新しい物のように鈍い光を放つそれらは樹にとってどこか特別に思えて、誇らしいような気持ちになった。

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