第18話 ミシェル(悠太)
翌日、僕は朝から旅行代理店に行き、フランス行きの一番早い便をとった。現地で日本語を話せるガイドを一週間だけ手配するようにも頼んだ。別に観光に行く訳じゃない。フランスのゆいの住む家にたどり着けさえすればそれでいいのだ。
成田空港に着いた僕は、相変わらず、軽装の装いだった。特に必要なものなどない。必要なものは現地で調達すればよい。僕は近所のスーパーにでもいくような格好で飛行機に乗りこんだ。
飛行機の中で、僕は、葉子のフランスでの様子を想像した。きっと彼女の美しさに現地の男たちも目を奪われていることだろう。
そして、彼女は、そんな周囲の目も御構い無しに、颯爽とフランスの街を歩いていることだろう。あの日、初めて新宿で彼女を目にした時のように。
僕は、彼女に会ってどうするつもりなのか。今更になってそんなことを考えていた。
彼女は僕を避けている。親父が、「まわりくどい」と言ったように、徹底して僕に会わないように、遠くから僕を監視し、操作してきた。
過去に還り、僕は何を見つけ、どこに行こうとしているのか。
おそらく、この旅ももうすぐ終わるだろう。
まだフランスに行っても、葉子に会えるとは限らない。由井のところで手がかりが得られるなんて確証はない。
また捕まえられそうで、捕まえられない、雲のように、僕の手から滑り落ちて行ってしまうかもしれない。
この広い世界で、まして異国の地で、英語もフランス語も話せない、中卒の僕が、消息不明の、たった一人の少女を見つけなければならない。
それは奇跡に近い確率の非常に困難なことではないだろうか。
長い空旅の中で僕はある夢を見た。
寒い、寒い、真冬の日。
僕は新宿の街で、薄着で凍えそうになっていた。
頼る人もいない。声を出す力すら残っていない。
誰も僕の存在には気がつかない。
僕は彼女たちを思い出す。
梓、恵子、聡子、咲希、久美、亜美、ヨンフィ、香織、優香。
香織が呼んでいた。遠くの方から。
あたりは白い靄に包まれている。
香織は僕の名を呼ぶ「悠太」と。
白い靄が晴れて、香織の姿が鮮明になって行く。
すると、そこには香織ではなく、葉子の姿があった。
彼女は優しく僕を抱き上げ、母性に満ちた瞳で、僕を見つめる。
僕は彼女に何かを言おうとするが、声が出ない。
やがて、彼女は僕の手を離れて、白い闇の中へと消えて行く。
覚醒すると、僕はじっとりと汗をかいていた。喉が渇いたので、飲み物を頼んだ。
鉄の塊は、轟音を響かせながら、空を飛び続けた。
長時間のフライトを終えて、フランスのシャルル・ドゴール空港に着いたときは身体のあちこちが硬くなり、気分もよくなかった。
日本との時差はおよそ7時間。時差ぼけも多少あるかもしれない。
入国審査を終えて、ゲートをくぐると、プラカードを持った人の群れがある。僕は「YUTA SAGARA」の文字を探した。男はすぐ見つかった。僕と目が合うと、満面の笑みで、僕を迎えてくれた。
「ゆた?よーこそ、フランスへ。」
30代後半だろうか。白人の彼は、目が大きく、鼻も高い。身長は僕と変わらないくらいだろう。肩周りの筋肉のつき方が僕とはまるで違うので、僕よりは一回り大きく見えた。彼の瞳は、とても澄んだブルーだった。人懐っこい丸顔の彼の顔で、その瞳だけが、妙に清冽で、浮いて見えた。
「初めまして。ユウタ。サガラです。よろしく。」
「よろしくね。僕の名前はミシェルです。どうぞどうぞ。」
そう言って、ミシェルは自分の車へと僕を案内してくれた。ミシェルの車は、ルノーではなく、古いくたびれたヴォルクス・ワーゲンだった。
車に乗り込むと、
「それで、ゆた。どこに行く?ホテル?エッフェル塔?シャンゼリゼ通り?ルーブル?凱旋門?」
「日本語上手ですね。」
「うん。日本には3年間住んでいた。」
「日本のどこ?」
「クァタチ」
「クァタチ?」
「そう、カワタチ。」
僕は一瞬考えたが、おそらく、川崎だろう。
「実は、人を探しにパリに来た。ここの住所に連れて行ってもらいたい。」
そう言って、英語で書かれた由井の住所を渡した。
「そこ、遠いよ。今からだと遅いから、明日にしょう。ユタは今晩ひまか?」
「ウィ。」
「おお、ゆた、フランス語、話せるか。」
「ノン。」
「話せるね。」
「はいといいえだけだ。」
「そうか。わかった。今晩は僕がフランスを教える。ユタに。」
「メルシィ。ボックゥ。」
彼はホテルまで車を走らせる間、日本語で簡単に自己紹介をした。歳は32歳。未婚。二十歳の時に日本に留学して、日本の大学を卒業して、その後は数年をかけて世界を放浪の旅に出て、フランスに戻り、今の職業に就いたという。
「ミシェルはなんで日本に留学したんだい。」
「サイコロさ。」
「サイコロ?」
「そう。僕は別にどこの国でもよかった。世界地図の上で、サイコロを転がして、止まったところがたまたま日本だったから、日本に決めた。人生なんてそんなもんさ。」
面白い男だと思った。フランス人の彼の口から聞く人生観は興味深い。
ホテルに着くと、一旦彼と別れ、体を休め。夕方、彼と食事をする約束をした。
ホテルの部屋に着くと、急な眠気が僕を襲い、僕はすぐにベットに横になり、瞼を閉じた。
部屋の電話で目がさめると、フロントからなのだろう。英語でミシェルが来たという。
フランス人ならフランス語でもいいのに。もちろん、僕には理解できない言語だが。
すでに、英語が世界共通語になりつつあることが僕には気に要らない。
日本語の語彙は世界でもトップなのだ。同じ言い回しでも、実に様々な表現がある。文字にしても、カタカナ、平仮名、漢字、ローマ字と沢山の表現がある。日本人の相手を思いやり、敬う精神から生まれたその微妙なニュアンスの違いを、表現力の豊かさ、慎ましさなどは、世界に誇れる文化であると、僕は思っている。むしろ、世界共通語は、日本語こそが相応しいとすら思っている。
僕は英語ですぐにいくとフロントに伝え、ロビーへと降りていった。
ロビーではミシェルがソファに座っていた。
「ミシェル。」
「おお。ユタ。遅いよ。」
「ごめん。ごめん。眠っていた。」
「そうか。疲れたか。」
「平気だ。」
「OK。行こう。」
彼は僕をパリの郊外の安いバーに連れていってくれた。地元の人間しか来ないような店で、東洋人は僕しかいない。彼は店に入るなり、数人の男たちと挨拶を交わし、カウンターに座る。僕にも隣に座るように言う。」
「ミシェル。まずいよ。」
「どうした。ユタ。」
「僕は17だ。」
「ハハ。心配いらない。ここは僕の友達の家だ。17でも。14でもOKOK。パスパス。ノープロブレム。」
そうか、ならばいい。どうやら、初めての単身海外旅行ということで僕もだいぶ硬くなっていたようだ。日本でなら、いちいちそんなことは気にしない。酒もタバコも進められればやって来た。弱気になっていた自分がおかしかった。
「ユタ。飲め。フランスワイン最高。バンザイだ。」
「ああ。バンザイ。」
「僕は日本にいたとき、ショウチュウという酒が苦手だった。あれはだめだ。あんな酒の何がうまい?分からない。日本の友人に勧められて飲んだが、ひどい味だった。やっぱり、酒はワインが最高。フランスワインバンザイだ。」
彼の飲むスピードはとても速い。どんどんさけが進む。彼はもともと酒に強い体質なのだろう。僕の倍のペースで飲んでいても、彼の顔色はほとんど変わることがない。ただ、酒が進むに連れて、彼は多弁になっていった。
「ユタ。どうして、そこ、いく?そこ誰がいる?女か?好きか?愛している?女はいい、特に日本の女は最高。バンザイだ。フランス女は、ベットでは最高。でも、いつもはひどい。日本人の女優しい。僕は日本人が好き。ユタも好き。ユタはどうだ。日本が好きか?」
日本が好きかどうかなんて質問を始めて受けた。今まで自分の国のことなんて考えたこともない。まして、好きか嫌いなんかて、よその国で暮らしたことのない僕には考える必要もないことだった。でも、日本にいて、今までの自分の人生がどうであったかを考えて答えた。
「日本は嫌い、でも日本の女は好きだ。」
と答えた。ミシェルは上機嫌だった。
「ウフィ。ユタ。最高。バンザイ。バンザイ。」
彼は僕の肩を組んで、バンザイをくり返した。
しこたま飲んで、足元のおぼつかない僕たちは、パリの夜を肩を組んで歩いていた。左肩に乗った彼の半身は思ったよりも重かった。
僕らは何度もバランスを崩して、道路に寝転んだ。転んでも、二人で互いの顔を見て笑いだす。日本の同性でさえ、こんな付き合いをしたことはない。新鮮だった。
彼はだいぶ、酒が回っているらしく、言語はほとんどフランス語になっていた。
彼はしきりに女性の名前を呼んでいた。「ナタリー、ナタリー」と。
その晩、酔いつぶれたミシェルとともに、グダグダになりながら、辿り着いたのは、そのナタリーの家だった。
白人女性のナタリーは、当然、肌が白く、肩まで伸びた髪は見事な金髪で、彫りの深い顔に、僕らよりも高い身長、長く伸びた脚、ウエストのくびれ、豊満なバスト。背が高い分、二の腕やヒップなど肉付きがよくてもすらっと見える。日本人の女性では、到底ありえない容姿を目にして、僕は改めて外国に来たのだと実感した。
彼女はしきりに、ミシェルに対してフランス語で文句を言っている。やがて言っても無駄だとわかると、僕の方を見て、彼を部屋まで運ぶのを手伝うようにジャスチャーで促す。彼をソファに寝かして、彼女がタオルケットをかける。
彼女はフランス語で、僕に話しかける。当然僕は答えられない。
「ジュアポネ?」
その単語だけは反応できた。
「ウィ。」
あとは英語の会話だった。ナタリーも英語は得意ではない様子だったが、僕の英語力もたかが知れている。お互いに深い話はできない。自己紹介程度をした。
ナタリーは、ミシェルの元恋人らしい。僕は、自分がある日本人女性を探していると告げた。ナタリーはソファで眠るミシェルへと視線を移す。自嘲気味な彼女のその眼差しをみて、彼女はきっとまだミシェルへの想いが残っているかも知れないと思った。
どこの国の女性でも、異性を想う気持ちに変わりはない。僕は思い切って、ナタリーにミシェルのことをまだ想っているかどうかを尋ねた。彼女は「ウィ」と答えた。
初対面の僕に対して、プライベートな質問に率直に答えるナタリーにも、まるで旧友の中であるかのごとく、見事に酔いつぶれてしまったミシェルにも、僕は好感を持ち始めていた。それは、日本人にはなかなかいないタイプだったからだ。
ナタリーは最近眠れないのだという。薬を飲んでいても、来週からはセラピーに通うという。
ナタリーはなんでもいいから、僕に話すようにいう。英語でなくていい。母国語の日本語で。
僕はそれでは退屈だろうと言ったが、彼女はそれで構わないという。人の声を聞いているだけで、自然と眠くなるのだという。
そういえば、小さい頃、布団の上で、母に絵本を読んでもらっていると自然と眠くなったことを思い出した。
僕は何を話すべきかを考えた。もともと自分の話を積極的にするタイプではない。
仕方なく、僕は家を出てから、ここにたどり着くまでの経緯を日本語で話した。
ナタリーは、ミシェルの向かいのソファに座り、目を閉じて僕の話を聞いている。スカートの下の組んだ足が妙にセクシーだった。彼女の年齢は、おそらくミシェルよりも若いだろう。多分、20代後半。彼女は時々、眉間に皺を寄せたり、眠そうにあくびをしたりして、僕が話し終える頃には、静かに寝息を立てていた。
二人が眠ってしまうと、僕は床に直接、横になって目を閉じた。
朝、卵を焼くいい匂いで目が覚めた。キッチンではナタリーが朝食を作っていた。時計を見ると、6時30分を少し回ったあたりだった。
床で寝ていた僕は、体の節々が痛かった。体を起こし、彼女に挨拶した。
「ボンジュール、マダム。」
「ボンジュール、ユウタ。」
僕は顔を洗い、当然のようにミシェルを起こし、テーブルに着く。ミシェルはまだ眠そうだった。
「おはよう。ユタ。」
「おはよう。ミシェル。よく眠れたかい?」
「ああ。昨日は楽しかったね。」
「ああ。とても楽しかったよ。」
彼は眠い目をこすりながら、あくびをした。髪の毛はボサボサなのに、洗面所に行く気配も、寝癖を直そうともしない。彼は少年のようだった。
ナタリーはテーブルに朝食を運んでくると、一人で先に食べ始めた。
僕たちも慌てて一緒に食べ始めた。食事中、彼女は一言も喋らず、ずっと黙っていた。
僕は昨日の突然の訪問で、彼女を不愉快にさせていたのだと不安になったが、ミシェルは彼女のそんな様子を見ても、全く気にするそぶりもないので、僕も気にしないことにした。
食事が済むと、ミシェルは早速出発しようという。
彼は、ナタリーに簡単に挨拶すると、さっさとドアの向こうに消えてしまった。僕は一宿一飯の礼を言う。彼女は別れ際に僕にハグし、頬に軽くキスをして、耳元で、こう囁いた。
「葉子ちゃん。見つかるといいわね。さようなら。ユウタくん。」
それは、ミシェルの日本語の発音よりもはるかに洗練された、日本人かと間違うような素晴らしい発音だった。僕は彼女が日本語を話せるのかと尋ねようとしたが、外で、ミシェルが僕の名前を連呼していたので、そのまま彼女に別れを告げて、外に出た。
朝のパリの空気は、東京の空気よりも澄んでいる気がした。人々の往来も、新宿のそれとは比べものにならないほど、穏やかなものだ。
僕は、昨日のバーの駐車場まで歩く道のり、ミシェルにナタリーのことを聞いた。
「あんだ。ユタ。知らなかったか。そうか。そうか。よかったな。」
「どういうこと?」
「彼女は人生の三分の一を日本で過ごしている。12歳から22歳まで。だから日本語はペラペラ。」
「それで、なんで『よかったな』なんだ。」
「彼女は自分の気に入った異性に対して隠し事する。僕が彼女と付き合う前は、フランス語しか話さない。それ、僕とつきあったら、僕以上に日本語ペラペラで驚いた。彼女は、異性に自分の全部見せない。ミステリアス部分が必要という。男を夢中にさせるコツ。昔、僕も彼女に夢中になった。ユタはとても美しい。今まで僕が見た男の中で一番綺麗。東洋のミケランジェロだ。ナタリーも気にいっただろう。日本語わからない女のところにユタを連れてはいかないよ。わかるか。ユタ。最高。バンザイだ。」
ナタリーは、僕の話を聞いて、理解していたのだ。
彼らは面白い奴らだ。案外、彼らは似た者同士で、だからこそダメになったのかもしれない。
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