第13話 香織(悠太)
毎日、地道に歩いたが、あの女の情報は集まらない。
一週間が過ぎたころ、ビジネスホテルを拠点としていたが、そろそろ軍資金が底を突く。
僕は仕方なく、いつも通り、新宿で座りこみ、獲物がかかるのをひたすら待つしかなかった。アルタ前は、香織に会う可能性を考えて避けた。
しかし、いつもならすぐに捕まえれる獲物が今日は一向にかからない。
一体僕はどうしてしまったのか。普段なら、寄って来る女たちが、僕に見向きもしない。
しっかりと毎日風呂にも入っているし、清潔にしている。
何もかもうまく行かない。全部あの女のせいだ。
心の中にあの女に対する怒りがふつふつと湧き上がる。怒れば怒るほど、必ずあの女にたどり着いてみせるという気になった。
あの女の出現により、僕の生活は脅かされつつある。
もう、何もかも面倒になり、座り込んでいると、また雨が降り始めた。
すると、やっと一人の女が声をかけてきた。
「どうしたの?ぼく?大丈夫?」
ぼく?一瞬で猜疑心が生じた。
彼女の年齢は容姿からすると、おそらく20代後半。それぐらいの女性が、僕を見たとき、「ぼく」という二人称を使うだろうか。彼女がもう少し年配か、あるいは、僕がもっと幼い年齢ならば、不自然ではないだろう。しかし、この年齢差でその呼び方は不自然極まりない。
「何でもありません。大丈夫です。」
僕はすぐに立ち上がり、その場から足早に立ち去った。
彼女からは何か危険な匂いがした。容姿からは普通のOL風な印象を受ける。特に美人でもなければブサイクでもない。真面目そうな紺のスーツに身を包み、髪は後ろで一つに縛っている。何かの営業の仕事だろうか。彼女の仕草、声のかけ方は、どこか事務的な響きだった。たまたまそういう人間なのかもしれないが、今まで、この大都会の東京という街で出会ってきた女性たちは、もっと同情的で、もっと自分の意思で声をかけてきた。
僕の経験に基づく第六感では、彼女から逃げるべきだと感じている。
この新宿という街で、これだけ大勢の人間の中で、僕は監視されている。
静かに、何か見えないものの影が近づいてきている。
時々、後ろを振り返り、誰もついてきていないことを確認する。
30mも歩くと、やはりどこかおかしい。
僕は思い切ってダッシュした。すぐ近くの路地に駆け込むと、建物の影から今走ってきた道を覗き込む。
すると、一人の男がこちらに向かって走ってきている。30代くらいの男性だ。僕は驚いて、再び走り始めた。
新宿は人が多い。その分、人混みの中に紛れることもできるが、800mのトラックのようなスピードが出せない。
女一人をまくくらいならわけはないが、大の男の、しかも僕を追っている人間となると話は別だ。
私服警官、刑事には見えない。おそらく探偵か何かだろう。僕は刑事に追われるような重大犯罪は犯していない。
どれくらい走っただろう。息が激しく切れている。僕はついに行き止まりの路地裏に迷い込んでしまった。後ろからは飽きもせずに、背広姿の男が追いかけてきている。
僕はここで、彼を迎え撃つことにした。並みの大人になら、僕は勝てる。
15秒後、彼が息を切らして、僕の元にたどり着いた。
「なかなか、足が速いじゃないか。」
彼はとても苦しそうだった。
「あんた、誰の差し金だ。あの女か、それとも親父たちか。」
「依頼人のことを喋るわけないだろう。とにかく僕と一緒にきてもらおう。」
「断る。」
「どうしてもか。」
「ああ。」
「なら、仕方ない。力づくでひっぱって行くしかないなぁ。」
男がいい終える前に、僕は彼の顔面に左ジャブを入れる。男は一瞬ひるんだが、すぐに両腕を上げて、防御の姿勢をとった。なるほど、やはりある程度、戦い慣れているようだ。
僕はフェイントを混ぜたボクシングのパンチで男に数発いいパンチをお見舞いしたが、男はかなり打たれ強い。
路地裏には誰もこない。それでも、新宿の街でこのままバトルを長引かせるのは危険だ。速いところカタをつけなければ。
男は、背広の裏のマイクに向かって何かしゃっべていた。まずい!応援を呼ばれたら、捕まってしまう。
男は、急に応戦してきた。おそらく少林寺拳法だろう。今まで防戦一方だったのは、時間稼ぎだったのだ。
僕も防御に回る時間が多くなった。ボクシングは足技がない。彼の繰り出す多彩な足技に苦戦して、彼をノックアウトするための間合いに入れない。
そうこうしていると、いよいよ応援が駆けつけた。一人は20代前半のいかにも新人、下っ端といった感じの男で、もう一人は体格のいい、身長185cmはありそうな、いかつい顔に太い首、柔道か、プロレス、ラグビー系の筋肉のつき方をしていた。
さすがに3対1では叶わない。僕は大き奴の脇をダッシュでする抜けようと試みた。デカイ奴は大抵がノロマだからだ。だが、大男は違った。ラグビーのタックルで、僕をアスファルトの上に叩きつけた。僕は捕まった。
「一緒にきてもらおうか。」
大男に腕を掴まれ、僕はおとなしく彼らとともに歩き始めた。
彼らは黙って、新宿の駅の方へ歩いていく。やがて、ある地下の喫茶店に僕を連れて入った。彼らは店の主人に目で合図を送っていた。
なるほど、ここは彼らの息がかかった店なのだろう。間接照明だけの薄暗い店内の一番奥、入り口から一番見えにくい4人がけのシートに座らされた。
「まったく、手間をかけさせやがって。しばらく、ここで待っていろ。」
僕はとり合えず、彼らは刑事でもなく、堅気であることに胸をなでおろした。少なくともここで監禁されるような事態にはならなそうだ。
20分後、僕の目の前に現れたのは意外な人物だった。
「カラン」
喫茶店のドアが開く音がして、中に入ってきたのは、香織だった。信じられない。香りが僕を追っていたなんて、考えもしなかった。想定外の事態に動揺を隠せなかった。
「ひさしぶりね。」
「…。」
外は雨が強くなっているのだろう。彼女の髪からは雫が垂れている。男たちと二言三言話をかわすと、男たちはその場から去っていった。
彼女はゆっくりと僕の席の方に近づき、僕の目の前に腰掛けた。
「久しぶりね。元気だった?」
「ああ。香織は?」
「私は何も変わらないわ。毎日仕事に行って、帰って、寝るだけの日々よ。」
「そうか。」
「しばらく見ないうちに健治は変わったね。」
「そう?」
「ええ。目つきが男らしくなってきた。前はもっと中性的な顔していたのに。今は目つきも鋭いし、険しい表情になってるよ。最近鏡みた?」
「そんなことより、どうして香織が僕を追っていたんだ。」
「孝子って女の子知っているわよね。」
「…。」
「知っているわね!」
「ああ。」
「健治が彼女とキスしたのを見たその晩、どこで調べたのか、彼女、私の家に来たのよ。」
「彼女が?香織のところに?」
意外すぎて、言葉が出ない。一体あの女の目的はなんなんだ。
「そうよ。私はあんな子の顔も見たくなかったけど、彼女がどうしても伝えたいことがあるってきかないから、部屋に入れたの。彼女は謝って来たわ。『今日は本当にごめんなさい。健治くんは何も悪くなかったんです。私たちは昨日初めて会ったばかりだし、私が一方的に彼にキスしたんです。彼には、あなたを裏切る気持ちなんてなかった。嘘だと思うなら彼に聞いてください。彼はすぐにあなたを追いかけて行きました。彼はあなたを深く傷つけてしまったことをにとても苦しんでいると思います。悪いのは、全部私なんです。もう二度とこんなことはしません。本当に申し訳ございませんでした。それから、きっと彼には行くところがないと思います。このままだと彼がどうなるか分かりません。香織さん、私があなたに頼めた義理ではないけれど、どうか彼を探して、そして、見つけたら、今回のことも含めて、彼と話し合ってくれませんか。』ってね。」
「それで、探偵まで頼んで、新宿の街を探させたのか。」
「それも彼女が手配したことよ。緊急性があるからって。報告は私にも入れるように手配するって。彼女にできることはお金をだすぐらいだからって。」
「それを簡単に受け入れたのか。」
「まさか、ちゃんと断ったわよ。でも彼女があまりにも真剣な表情で、切羽詰まった感じがしたし、何度も何度も頭を下げて懇願するから、しまいには合意してm探偵にあなたの写真を渡したのよ。」
「僕の写真?ここを出るときに全部処分したはずだけど。」
「ええそうね。でも、あなたは私の携帯は一切触っていない。私はデジカメで撮った画像を携帯にも移して置いたの。常にあなたと一緒にいたくてね。」
「…。」
「健治、世の中に完璧なものなんてないのよ。」
「それで、香織は、彼女の話が真実かどうかも疑いもしなかったのか。」
「ええ。」
「安易なやつだな。だから男に浮気されるんだ。」
「健治。私はね。確かに男に一度騙されて、裏切られて、とても辛かった。けど、だからと言って、人を信じられなくなるのは絶対に嫌だった。騙されてもいいから、人を信じたかったし、自分が人に嘘をついたり、騙したりする側にも絶対になりたくない。彼女の言うことがデタラメだったとしても、少なくとも私には、彼女が隠し事はしていても、嘘を言っているようには思えなかった。」
「…。」
「それと、彼女はこうも言っていた。『彼は過去に還る』って。」
「過去に還る?」
「ええ。私は健治のことを何も知らないわ。彼女は何かを知っている風だったけど、私はあえてそれを聞こうとは思わなかった。あなたの口から言えないようなことを、他人の彼女の口から聞きたくはなかったから。彼女はこれから、あなたは過去と向き合わなければならないって言っていた。そして、それが、どれだけ時間がかかるかもわからないし、香織さんの元に戻ってくるかもわからないって。それくらい、権威は今大変な状況に陥っているって。」
「僕にはよく意味が分からない。それで、香織はどうするつもりなんだ。」
「どうするつもり?こっちが聞きたいわよ。あなたこそこれからどうするつもりなの?何の話もしないまま、言い訳すらせず、あんな手紙一枚で別れを告げて、また新宿に戻って来て…。彼女が言うことが本当ならば、また出て行くんでしょ。だいたい彼女は何?なぜ会ったばかりのあなたの過去を知っていて、私の住所まで知っっているの?おかしいじゃない。一体はあなたはどうするつもりなの。そして、私はどうしたらいいの。」
「僕は…。これからまだやるべきことがある。香織の元に戻るかどうかも分からないし、待ててくれなんて言えない。今の僕はなにも言葉を持たない。でも、僕が一つだけ言えるとした、僕の名前は、相楽悠太、年は17歳。」
そう言って、僕は席を立って喫茶店から出て、雨の新宿へと飛び出して行った。
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