第10話 亜美(はじめ)
香織は、自ら階段で転んだのだ。事件性はなかった。
あの女は一体何なのだ。何の目的で僕に近寄るのか。
行くあてもなくなり、僕は新宿の街を歩いた。
こんな気分は久しぶりだった。
母を亡くしてから僕は、複数の女性に拾われて過ごして来た。
今まで、彼女たちとの別れは、自分で選択して来た。
一度だって故意に女性を傷つけてはいない。相手の女性が望むことを提供して来たと自負している。その結果として女性が傷ついてしまったことはあるかもしれない。しかし、それは、女性自身の欲望がもたらせた結果であり、いうならば、自業自得と言える。
僕は女性に対して、無償で全てを捧げて来たし、裏切り行為なんかせず、付き合っている間は、他に見向きもせずに、全身全霊をかけて相手に尽くして来た。
なのに、今回、香織は傷つけてしまった。あの女のせいで。
世間一般から見れば、僕のような人間を「ヒモ」とか「ジゴロ」とか呼ぶ。
僕は、他人に何と呼ばれようと、蔑まれようと構わない。僕は僕なりのルールがある。
曲がりなりにも、ある年齢から女性たちの中で育って来た。育てられて来たという方が正しいのが、そんな僕にとって、あんな小娘にしてやられたことは屈辱以外の何物でもなかった。
僕は幼い頃から、並大抵のことは耐えて来た。我慢強く、忍耐力のある人間だと自負して来た。異性に対しても寛容で、生まれてから一度だって怒りに任せて他人を責めたりしたことはない。
怒りとは人間の感情の中で、最も無駄な感情であり、1分でも我慢して、冷静に考えて行動したら、怒る必要などない。
僕は常に冷静にいられるように、幼い頃から自分の感情をコントロールして来た。
そんな僕が、あの女にひどい憤怒の感情を抱いていた。
その晩は24時間営業のファミリーレストランでひたすらコーヒーを飲んで過ごした。
翌日、香りが出勤したのをマンションの向かいのビルから確認すると、ば奥はマンションの合鍵を使い、香織の部屋に入る。リビングには、ワインを飲んだ後が残っていた。寝室のベットはいつも以上に荒れていた。
僕はいたたまれない気持ちになったが、己のやるべきことに神経を傾ける。
まず、彼女の家に置いてある、僕の少ない衣類を半透明のビニール袋に投げ込み、彼女がこの2ヶ月で撮った僕の写真も放り込み、写真データの入ったCDーR、それからパソコンの写真フォルダを消去した。
僕は女性と別れる時に、自分にまつわる全ての証拠を処分する。だから僕は写真には写らない。でも、香織だけは違った。彼女は広告代理店という仕事柄からか、写真を撮るのも、見るのも好きだった。部屋には、エリオット・アーウィットのモノクロ写真のレプリカが貼ってある。
彼女は、高価そうな一眼レフと、最近はやりの薄型のデジカメも持っていて、嫌がる僕を強引に説き伏せて、何度もシャッターを切った。彼女が僕を撮る姿が楽しそうで、幸福そうだったから、僕はそんな香織のささやかな幸せを奪うことはできなかった。
全ての荷物の整理が終わると、僕は大きなビニール袋を持って、マンションのエレベーターを降りて、郵便受に合鍵を落として、香織のマンションを後にした。
僕は自分のルールを破った。メモ紙を郵便受に残した。
「ごめんなさい。今までありがとう。さようなら。」
ゴミは、新宿の街のまだ回収に来ていないゴミ捨て場に捨てた。
それからは、あの女と最後にあった現場に行った。あの女の出現を待つ日々の始まりだ。
香織に再び合わないように細心の注意を払った。
昨日は夕方、一昨日は昼間。あの女の出現時間は定まっていない。
僕はまち続けた。その日はあの女は現れなかった、あくる日も、その次の日も。考えて見れば、この広い新宿で、各地からこれだけ多くの人間が集まってくる中からたった一人を探し出すことなんて容易なことではない。
2日連続であの女に会ったことで、僕はそんな当たり前のことにすら気がつかない。怒りでいつもの冷静さを欠いていた。
僕は以前と同じように、アルタの前で座り込み、手頃なターゲットをまった。同年代でなるべく頭の悪そうな女を探していた。ひっかかたのは、亜美という16歳のギャルだった。いつも通り、「行くところがない」と言い。彼女に連れられて、彼女たちのグループの溜まり場のアパートで事情を説明する。
「実は、生き別れた妹を探しているんだ。この間新宿で見かけて、確かに6年前に写真で見た妹の姿だった。」
と、お涙頂戴の演技をして、彼女たちに捜索の手伝いを頼み込んだ。
彼女たちのような女を選んだのは、彼女たちは仲間内には熱く、他人に対して、特に大人たちに対しては冷酷であるという特性があるからだった。
彼女たちのネットワークは意外に広い。いわゆる、「友達の友達ネットワーク」そのネットワークを使えば、自分一人で無闇に探すよりも効率が良いと判断した。実際に、亜美の友達は新宿界隈だけでも40人を超えていた。それだけの人間があの女を探すことに協力してくれる。僕はあの女のことで覚えていることを亜美に伝え、亜美の友達でイラストの上手い女に似顔絵まで書かせて捜索した。一気に加速した、あの女の捜索体制に僕は期待した。
しかし、そんな僕の期待とは裏腹に、一週間経っても、二週間経っても、あの女の姿は目撃されなかった。昼間はあの女の捜索をし、夜中は亜美のくだらない遊びに付き合ってやる毎日だったが、いい加減にしびれを切らし。
「僕の妹の件はどうなった。何か手がかりはあった?友達は何か言って来た?」
と問うと、亜美は急に不機嫌な顔になった。
「だって、はじめくん全然お金ないし、亜美も、友達も、だんだんお金なくなるし、人探しどころじゃないよ。自分の食べるものが先って感じだから。」
これだからガキは。最初は面白がってそれなりに探していたくせに、もう飽きやがった。毎日毎日、宴会して、ゲーセン行って、カラオケ行って、ホテル行ってりゃお金がなくなって当然だ。友達みたいに援交でもやって稼げばいいのに、僕のことを彼氏としてからは、亜美は何を遠慮しているのか、自分で稼ぐのをやめて、僕もろとも友達の世話になっていた。当然、だんだんと肩身が狭くなり、立場も悪くなっていくのは分かり切っている。
僕は亜美にこれでもかってくらいの笑顔を向けて
「分かったよ。今日調達してくるから、明日まで待っててね。今日は帰らないよ。」
そう行って、僕は渋谷に向かった。
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