第9話 アリス

翌日は土砂降りの雨だった。

香織さんはいつも通り、朝は弱く、起きてこない。いつも通りの朝の支度を済ませた僕は彼女を起こしに行く。

「香織さん。起きてください。遅刻しますよ。それとも今日はお休みしますか。」

「ううん。いく〜。」

「じゃあ起きてください。ご飯できていますよ。大丈夫ですか。」

「うん。平気。」

準備を整えて、寝室から出てきた彼女はいつもの香織さんに戻っていた。僕は少しホッとした。

「今日は何時頃仕事は終わりそうですか。僕、駅まで迎えに行きますから。」

「ありがとう。でも、最近はちょっと忙しいから何時になるかわからないから、会社をでる時、電話するね。」

「分かりました。」


二人で駅まで一緒に行き、入場券を買い、駅の改札をくぐり、ホームまで行って、彼女が電車に乗るのを見送った。

彼女を送ると、僕はすぐにマンションに帰り、彼女の過去の記録を洗い始めた。

過去の男性との交際歴。僕は必要以外は、彼女のプライベートを犯すよな真似はしない。彼女が誰と電話しようが、メールしようが、手紙でやりとりしようが一切の興味を示さない。彼女が夜遅くまで何か書き物をしていても、何も尋ねない。

しかし、今の事態では、仕方がない。僕は彼女のプライベートな部分を覗き見る。僕は家の隅々まで探した。

もちろん、勝手に覗き見たことがバレないように、物を動かす前に、デジカメで物の配置を記録してから、動かしたあとは、そのデジカメの画面通りに元に戻した。

午前10時から6時間ずっと続けて調べたが、成果はなかった。

私は、現場に向かうことにした。新宿駅の彼女が転んだという階段だ。

その付近の防犯カメラに何か写っているかもしれない。もし、彼女の勘が正しいのならば、防犯カメラに何か写っているかもしれない。

僕は、走って、新宿駅まで行った。まだこの時間なら、香織さんが帰宅するまでには、往復して、マンションに戻れるはずだ。


駅の現場につき、周りを見渡すと、一つ、目につきやすい位置に防犯カメラの存在が確認できた。あのアングルで果たして、その瞬間が写っているかどうか分からないが、とにかく防犯カメラを確認しよう。

僕は、駅員のいる事務所に行って、昨日の事情を若い職員に話し、防犯カメラの映像を見せて欲しい旨を伝えたが、当然のことながら断られた。

一般人のまして、未成年の僕は、大人の決めたルールに従うべきなのだ。

警察からの要請があれば、映像を提供するのは当然だが、僕のようなガキにいちいち取り合うほど、あちら様も暇ではない。

僕はだから若い職員に話しかけたのだ。僕はジーンズのポケットからお金を出して彼に握らせた。そのお金は池袋時代の彼女にもらった物で、香織さんとは関係のない金だ。

「あなたが映像を見てくれて、確認してくださって、その掲示板に◯か×かを書いてくれるだけでいいんです。職員のあなたが見るのならば、職務違反には当たらないでしょう。掲示板に◯×を書くくらいのイタズラ書き程度なら何も問題にならないですよね。それで、満足なんです。それ以上のことは望みません。ご迷惑もおかけしません。どうか、この通り、お願いします。」

彼は黙って頷いて、手に握ったお金をポケットにしまった。

「分かりました。お客さん。待ち合わせなら、あの掲示板を使うといいですよ。何時に待ち合わせかは知らないけれど、そうだなぁ。6時くらいになったら、随分空くから、それくらいになったら、もう一度確認しにくるといいでしょう。そうしなさい。」

彼はわざと年配の他の職員に聞こえるような大声で僕にそう言った。

「分かりました。そうします!」

僕も元気に返事をして、その場を後にした。


6時までは30分くらいある。多分それから急いで帰れば、香織さんの電話には間に合うだろう。食事の用意や、部屋の掃除ができなかったが、今日は具合が悪かったとでも言えば大丈夫だろう。ならば、なおさら、彼女からの電話に出なければならない。

今日、調べに来たのは失敗だったかもしれない。いや、こういうことは早いに越したことはない。情報はあっという間に姿を消す。証拠はすぐになくなってしまう可能性があるからだ。今日の昨日ですぐに録画画像が消えるのかどうかは分からないが。


「トントン」

不意に肩を叩かれて、勢いよく振り返ると、僕の頬に長い人差し指がめり込んだ。

「いつっ。」

僕の顔が一瞬引きつったのが余程面白かったのか、彼女はケラケラ笑っている。

「ひっかかったぁ〜。だっさぁ〜。つっかえ棒〜。今の顔おかしい。バカみたいな間抜けズラ。」

そこには昨日の美少女がいた。

「またお前か、なんなんだよ。毎日毎日。お前はストーカーか!」

「あっ、ひどーい。そう言うこと言うんだ。いいの。私、今ここであなたのことを痴漢です!って叫んでもいいんだけどなぁ」

「やれるものならやってみな。僕は逃げ切れる自信があるから、全然平気。」

「そんな子供じみたことするわけないでしょ。あなたって本当にバカなの?」

さっき僕にしたイタズラは子供じみていなかったのかと喉まで出かかったが、口にはしなかった。

「ねえ。あなた毎日私服姿でウロウロしているってことは、高校生じゃないのね。」

「ああ、そうだね。そう言う君はもろに女子高生って感じだね。そんなにスカートを短くしていたら、男性の視線を集めて仕方ないだろう。いや、むしろ、君ぐらいになると、その脚線美とともに、もっとスカートを短くして、世の中の男性諸君に、下着でも見せてあげたらどうだい。」

「あなたおもしろいことを言うのね、チェーホフなんか読んでいないで、吟遊詩人にでもなったら。」

「職に困ったら、そう言うのも悪くない。」

「あなたは何をしている人なの?」

「僕?僕はグラフィックの専門学校に通う、単なる暇な学生だよ。」

「そう。」

「どうしたの。がっかりしたかい。君の望んでいるような答えじゃなかったかな。君は何か僕を勘違いしているのかもしれないね。」

「一つお聞きしますけでど、どんなソフトを使っていらっしゃるの?」

「アドビ社のフォトショップやイラストレーター。最近はHTMLやフラッシュなんかも学び始めているよ。」

「ダウト!」

「なに?」

「私の経験から言って、グラフィックの専門学校生の約95%がメガネをかけている。なのに、あなたはメガネもコンタクトもしていない。昨日も今日も学校をお休みしたとして、チェーホフを読んでいる時もメガネはかけていなかった。今日のつっかえ棒の時や、昨日のあなたのそぶりからしてもコンタクトをしているそぶりは見えないもん。いい加減、嘘をつくのはやめたら。そんなに私が怖いの?」

「怖い?君が?まさか。」

「じゃあ、どうして、そんなに警戒して、嘘八百なかり並べるの?そこになんの意味があるの?私から見たら、あなたはとても年上の男性には見えない。私と同じ高校生くらいの年齢でしょう。高校へは行ってないのは本当みたいだけど…。あとは大抵嘘よね。私、人の嘘を見抜くことに関しては天才的なのよ。」

「…。君の洞察力は大したものだ。でも赤の他人に、しかも昨日出会ったばかりの人間にベラベラ自分のプライベートを明かすほど、僕は愚かじゃない。」

「そうかしら。私にはあなたは十分愚かに思えるけど。」

「何?君もしかして僕に喧嘩を売っているの?」

「だったらどうする?私のこといじめちゃう?」

冷静にならなくてはいけない。この女と話していると、ついつい相手のペースに引き込まれてしまっている。小悪魔的な瞳で見つめる、目の前のオンンアはイタズラ好きの少女のようだ。まるで、今すぐにあっかんべーをしそうに見える。

「別に、君のことなんて怖くもなんともないよ。それとも君は何か怖い人なのかな。宇宙人とか、幽霊とか。それても、そんな外見して、実は男性だったとか。」

「ぶー。15点ね。あなたは想像力に欠けた人間なのね。せめて妖精さんとか不思議の国のアリスとかもっと女の子が喜びそうな夢のあることが言えないの。」

「それは、大変申し訳ございません。アリス様。して、今日は何用で、このような人間界の掃き溜めのような街にいらっしゃるのでしょうか。」

「あなたに会いに来たのよ。」

「私めにございますか。どうして?だいたい昨日から、君は…」

突然、僕の唇の動きは、彼女の唇によって封じられた。

彼女の唇は柔らかく、目の前の瞳を閉じた彼女の透明な肌はシルクのように美しい。彼女からはとても甘い花の香りがする。

彼女はそっと、僕の口の中に舌を入れて来た。彼女は僕の前歯の裏側をゆっくりと舐め回す。

いつの間にか周囲の音は消え失せていた。僕の下半身は熱くなって、Gパンの下のふくらみが痛いほどだった。

僕は今まで女性に欲情したことは一度もなかった。美しい女性と何度か寝たことはあったが、こんなにも心臓が早鐘を打ち、我を忘れるほど下半身が熱くなったことはない。

僕は自分の理性とは無関係に、彼女の細く、くびれた部分に手を回し、今度は僕の方から彼女の口の中へと舌を回した。

周囲の目なんて気にすることもなく、僕らは随分長いあいだ、互いの感触を味わい、互いの唾液を混ぜ合わせる行為に没頭していた。

やっとのことで唇を離すと、彼女の顔は耳元まで真っ赤になり、目は潤んでいた。僕はこのままここで力一杯に彼女を抱きしめてしまいたい衝動に駆られたが、理性が、首の皮一枚でなんとか踏み止ませてくれた。

公衆の面前で、こんなことをしてはいけない。

それでも、彼女のくびれに回した手を離すことができない。わずか20cm先の、絶対的な美しさを誇る対象物から目が離せない。

「健治!」

耳慣れた声が遠くから飛び込んで来た。僕は我に返った。声がした方向を向くと人ごみの中で香織さんが呆然と立ち尽くしている、僕は慌てて、女から体を離しした。

「香織さん…。」

「どういうこと!いや!来ないで!」

彼女の失望と憤怒の表情。こんな表情は初めて目にした。彼女は走り出す。

「待ってくれ!」

目の前の女に視線を戻す。先ほどまでの愛らしい彼女とは打って変わり、無表情の女がいた。それでも、この女は美しい。陶器のような、ただそこにあるだけで美しい。そうした造形美が目の前にはあった。

「お前、ちょっとそこで待っていろ。いいな。あとで話がある。」

「私に命令しないで。それより、早く追いかけるべきなんじゃない。」

「わかっているさ。」


僕は急いで、香織の後を追ったが、この人ごみの中で彼女を見つけるのは至難の技だろう。追いついたところで、彼女にかける言葉を僕は持っていない。

昨日に立て続けて、彼女の精神的な苦痛は容易に想像できる。まして、彼女は過去に男性に裏切られて傷ついたことがある。

キスの現場を見られ、まして僕はあの女の腰に手を回していた。弁解の余地はない。僕が何を言っても、彼女にとっては、全て言い訳に過ぎない。

新宿の街を汗だくになって香織を探したが、見つかるはずもなく、僕は諦めて先ほどの掲示板のところに戻る。

予想通り、女の姿はなく、掲示板には大きく「ByeBye」の文字。そのすぐ脇に、小さく×が書かれていた。

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