第8話 香織(健治)
僕はそのまま香織さんのマンションに帰った。
布団や洗濯物をしまうと、すぐにシャワーを浴びた。
夕食の支度をして、ベットメイキングをして、風呂の準備をして、洗濯物をたたんでいると香織さんが帰ってきた。
「ただいま。」
大きな声だった。いつもの香織さんのトーンじゃない。
「おかえりなさい。ど、どうしたの?」
香織さんの衣服は見事に汚れていた。あちこちに小さな傷を作っていて、膝丈のスカートの裾が少しちぎれている。
「とにかく、すぐに着替えて。お風呂に入って。痛いところはない?」
「うん。大丈夫。じゃあ先にお風呂に入っちゃうね。」
彼女はそのままバスルームへと消えていった。僕はバスルームの戸が閉まる音がすると、彼女の寝室から着替えを出し、洗面所に彼女の着替えを置いた。リビングには救急箱を出して、熱いお湯を沸かせて、その中にタオルを入れて、よく絞り、彼女が風呂から上がるのを待った。
香織さんはまっすぐにリビングにやってきた。
「大丈夫?」
僕が心配して、抱きしめようとするが、空振りだった。
「どうしたの。僕が、怖い?」
「違うの。」
「とにかく、座って。傷の手当てをしよう。」
幸い彼女の傷は軽傷だった。打撲と擦り傷程度だったが、彼女の綺麗な肌に青いアザや、赤い擦り傷は似合わない。彼女の様子から察するに、おそらく、ある程度誰か他人の力によって、ある程度の故意を持って、つけられた傷なのだろう。
まだ、僕とこうして冷静に話ができるのだから、精神的に決定的な事態には陥ってないだろう。
「今日の帰り道に、新宿の駅の階段で転げ落ちたの。」
「階段から?よくそれで、この程度の傷で済んだね。よかった。本当に。大事に至らなくて。危なかったね。」
「…。うん。でもね。健治…。」
「何?」
「実は、今、シャワーを浴びながら考えていたら、急に怖くなっちゃって。」
「怖い?なぜ?もしかして…。」
「最初は自分が急いでいたから、人にぶつかって、階段から足を踏み外して、転んだのかなって思っていたの。ほら、私ってドジなところがあるでしょう。よく健治といる時も、話に夢中になって、人にぶつかってるでしょ。今日もいつものそんな私のドジが原因だと思っていた。自分が悪いんだって。でも、今、冷静になって思い出すと、もしかしたら、私、誰かに突き落とされたんじゃないかって思えてきて、急に怖くなっちゃった。」
「大丈夫。考えすぎだよ。香織さんは誰かの恨みを買うような人間じゃない。それに事件なら、あれだけ人が大勢いるのだから目撃者の一人から二人はいて問題になっているはずでしょ。もう大丈夫だよ。無事に帰ってきてくれてありがとう。これからは僕が香織さんを守るよ、明日からは毎日駅まで迎えに行くよ。」
「健治…。ありがと。」
その晩、彼女は夕食を簡単に済ませると、すぐに休んだ。
余程疲れたのだろう、それはそうだ、平穏に生きてきた彼女にとって、自分が殺人未遂のような事件にあったかもしれないと感じているのだから、精神的な疲労は計り知れない。
彼女には、大丈夫だ。考えすぎだとは言ったが、僕にはそうは思えない。
彼女がああ言うのだから、何かした思い当たる節があったのだろう。
彼女はその時の様子を詳細には語らなかったし、動揺もしていたこともある。
しかし、「自分で足を踏み外した」ことと「誰かに突き落とされた」ことでは天と地ほど違う。
一体、彼女の身に何が起きたのだろうか。探らなければならない。
少なくとも、僕の知っている中平香織という人間は、恨みを買うような要素はない。彼女の職場の話を聞いていても、愚痴はあっても、そのようなトラブルに発展するような可能性は極めて少ない。彼女の愚痴は、日常の皮肉や嫌味程度で、社会生活ではどこにでもあるような類のものだ。
現在僕の知っている範囲では、彼女の友人、知人の中には危険な要素の人間は見当たらない。
だとすると、考えられるのは、彼女の過去。昔の交際相手の怨恨や、あとは頭のイカれた無差別殺人者くらいだ。
僕に語っていた、彼女の交際歴が真実であるなら、前者は外れる。彼女は初めて付き合った男性に捨てられて、今は僕と一緒にいる。
もし、万が一、後者であるなら、事態は深刻だ。今もその犯人は、次の標的を探して、新宿の街を彷徨い歩いているかもしれないのだから。
くらいリビングで、僕はコーヒー片手に考えていた。
ふと、僕は昼間のあの女子高校生のことを思い出した。
「嘘つき男。」
彼女の澄んだ声が耳に残っている。別に僕はひどい嘘はついていない。誰かにとって(今は香織さんにとって)都合の良い嘘をついている。それは彼女が望んでいることなのだ。
中平香織という人間がダメにならないように、僕は無償で全てを差し出している。彼女が望むように、振る舞い、彼女が嫌がるようなことは絶対しない。
あんな女に何がわかる。昼間のあの女とのやりとりを思い出すとまた腹が立つ。
このままでは眠れなくなりそうだったので、僕は香織さんの眠る寝室へと向かった。
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