第7話 謎の美少女
「何を読んでいるの?」
彼女は僕の手元にある一冊の文庫本を覗き込む。その仕草は、幼稚園児が初めて新しいものを見つけた時のような、本当に興味があるようなそぶりだった。
「ああ。これ。チェーホフだよ。」
「あぁ。あの『僕は何も必要としない』とか『共通の憎しみほど人を団結させるもはない』とかっていうイカれたロシアのおっさんね。」
「チェーホフに詳しいんだね。」
「アントニ=パブロビチチェーホフ。六人兄弟の3番目。商人の息子で、没年は確か1904年。今から100年ほど前のおっさんの話が面白い?」
「別に面白くて読んでいるわけじゃないよ。たまたま手元にあったから。」
「『たまたま手元にあったから』ですって、あなたはだいぶ暇人なのね。たまたま手元にあったチェーホフを読んでいたら、たまたま通りがかった女子高生と目があって、たまたまこうして、向かいの席に座って、たまたまこうして私の話を聞いているのね。」
「やけに絡むな。君もしかして、僕に構って欲しいのかい?」
こういう高慢ちきで、自意識と自尊心の塊のような女には関わらない方がいい。早いところ切り上げよう。
「まさか。私はたまたま、あなたを見つけた。ただ、それだけ。」
「そう。なら、僕はもう行くね。こう見えても忙しんだ。」
「嘘つき男。」
彼女は口を尖らせて、僕を睨む。
「さっきから、くどいね。君に何を思われても構わないけど、とにかく、僕のことは放って置いてくれないか。君には僕じゃなくても、いくらでも遊び相手がいるだろう。」
そう言って、食べ終わったトレーを持って席を立つと、彼女も席を立った。
「なんだよ。」
ここまでくると、どんなに顔をきれいでも、いい加減うざくなってきた。
「別に。私もここにいるのに飽きたの。」
「そうか。勝手にしたらいいよ。」
僕は手早くトレーを戻して、早足に店を後にした。彼女も早足で追いかけてくる。
「ねえ。どこに行くの?」
「ちょっと、待ちなさいよ。」
後ろから、彼女の澄んだ声が私の背中に響く。もうすぐ日が傾き始める時間だ。一回帰って、洗濯物をしまわなければならない。香織さんが帰ってくるまでに、夕食の準備をしたい。
信号で立ち止まると、僕は後ろを振り向く。
「僕はもう帰る。君の帰りな。」
と言った。彼女は急いで付いてきたせいか、少し頬が赤くなって、息が切れている。その仕草は、なんともセクシーに見えた。並の男ならイチコロだろう。
「どこに帰るの?」
「横浜。」
「嘘つき男。」
僕は信号が変わると、同時にダッシュで彼女を撒いた。2分後には彼女の姿は、人混みや都会の建物に遮られ、影も形も見えない。最初からこうすればよかった。
800m走で鍛えた脚力も肺活量も依然として昔のままを維持している。逃げようと思えば、いつでも逃げられたのだ。
あんな女にいちいち腹を立てるくらいなら最初からこうすればよかった。
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