5話
昼間の気温が上がるほど、雲はむくむくと育ち、夕方に激しい雨を降らせることがある。
店の中から時折庭を眺めては、命はそわそわしていた。日が傾いて夕暮れ色に染まってきたが、雲も増えている。
「また夕立が降るかしら?」
「洗濯物取り込んでおこうか?」
「ありがとう。お願い」
永久が母家の方へ歩いて行ったので、命は店の掃除を始めた。今日はもう客は来ないだろうし、早仕舞いしてもいいかもしれない。
掃除を終えて顔を上げたら、ガラスの引き戸の向こうに綾が立っていた。逆光のせいか表情が読み取りづらいが、なんとなく暗い気がする。
命はガラスの引き戸に手をかけて開いた。
「どうしたの、綾ちゃん。雨が降るかもしれないから、店の中に……」
「……この前は、ありがとう、ございました。高瀬くんに、レモンティー差し入れ、したんです。美味しいって喜んでくれて」
「そう。よかったわね」
喜んでもらえたはずなのに、綾はちっとも嬉しそうじゃなくて、俯いていた。
「一緒にレモンティーを飲みながら、いろんな話をして……高瀬くんが、こっそり教えてくれたんです。高瀬くん、夕ちゃんが好きだって……」
命は思わず息を止めた。綾と夕は仲の良い友達同士に見えた。好きな人が友達のことを好きだなんて、それはショックだろう。
「夏休みが終わったら、また教室で二人と顔を合わせるんです。私……今まで通りでいられない」
綾の頬に涙がこぼれ落ちる。まるで雨が降るみたいに。空を見上げると、今にも雨が降ってきそうだ。
「私でよかったら話を聞くから、お店の中に……」
「いえ、これ以上、ご迷惑かけたくないから。ただ、レモンティーの淹れ方を教わったし、報告だけは、したほうが、いいかなって思って。それだけで……」
それだけにはとても見えない。本当は誰かに話したいのに、無理をしているように見える。
どうしようか……と思った時、突然和傘が飛んできた。
宙に浮く和傘を見て、綾がびっくりして顔をあげる。どう言い訳しようかと命が焦ったところで、大きな手が目の前を横切った。
「ごめんなさい。傘が飛んでしまって」
永久がそう言いながら、和傘――与平の取っ手を掴んだ。ほっと安心しつつ与平を見る。口から舌を震わせて、一生懸命に言い募る。
「おで、この子を雨から守りたくて。頬が濡れてる。風邪ひくといけね」
綾の頬を伝うものは雨ではなく涙だ。そう説明してもあやかしにはわからないかもしれない。けれど、その優しさは、今の綾に必要なものな気がした。
ちょうどポツポツと雨が降り始め、今にも夕立になりそうだ。
「綾ちゃん。よかったらこの傘もらってくれる?」
「……え?」
綾は驚いたように命を見つめた。永久も与平もびっくりしている。命はただ綾だけを見て微笑んだ。
「雨が降ってきたし。それにこの傘好きだって言ってくれたでしょう?」
「は、はい……」
「好きなものを持ってると勇気をもらえるって言ってたわよね」
「そ、そうですが……」
「私は綾ちゃんを助けられないかもしれない。でも、綾ちゃんが学校へ行く勇気を持てるようになるといいなと思う。だからこの傘をお守りに持って行って」
「いいんですか?」
「ええ、きっとこの傘も、好きだと言ってくれる人の元に行く方が、嬉しいと思うの」
ちらりと与平を見ると、嬉しそうに目を細めて、今にも飛び上がりそうだ。永久が取っ手を握って離さないが。
「おで、この子の物になったら、ずっと、ずっと、守るだよ!」
この声は綾には聞こえない。けれども綾は傘を見上げて、涙を拭った。
「いただき、ます。ありがとうございます」
永久から傘を受け取って、綾は頭を下げて帰っていった。綾の背中は丸まって、とても悲しげに見える。土砂降りの夕立から綾を守るように、与平はちょっぴり傘を大きくしていた。
それから数日後、綾はあかしやを訪れた。よく晴れた日なのに、和傘を持って。その表情は前より、少しだけ元気がある気がする。
「この前はありがとうございました」
「役に立ったかしら」
「はい。和傘なのに日差しも遮ってくれて天気の良い日も涼しいです。急な夕立にも役に立つし。それに……」
綾はためらいながら、おそるおそる口を開いた。。
「おかしいと思うんですけど。この傘を持ってると、励まされてる気がするんです。お守り効果、あるのかな?」
綾が傘の取っ手を持つと、与平は傘を閉じたまま器用に口を開いた。
「おで、毎日、綾を応援してる。頑張れ、頑張れって」
命は与平の言葉を聞いてないふりをして、綾に話しかける。
「おかしくないわ。その傘は綾ちゃんを応援してる」
「そ、そうですか……そうなの、かな……?」
綾は戸惑いながら傘を見つめて、それから庭へ視線を向けた。
与平がいなくなって野外席は無くなった。それに気付いたのか綾は寂しげな顔をする。
「野外席、無くなっちゃったんですね」
「やっぱり暑いから、使う人がいなくて。あの席に座ったのは綾ちゃんだけよ」
「そう、なんですね。私だけの特別な場所みたいで、ちょっと嬉しいかも」
綾は微かに笑った。すぐに消えてしまう儚い笑みだったけど。悲しみの雨が降る綾の心の中で、綾を守る傘に慣れたのかもしれない。
「まだ、気持ちがモヤモヤしてるんです。でも夏休み明けまでには普通に過ごせるように、頑張ってみます」
「そう。私も応援してるわ。いつでも遊びにきて。この店、平日は暇だし。話し相手になるわよ」
「ありがとうございます」
もう一度ペコリと頭を下げて、綾は帰っていった。赤い和傘を差す綾の背中は伸びている。与平は綾に聞こえないのに、しきりに声をあげた。
「綾、頑張れ。おで、ついてる」
綾が帰ったら無性にレモンティーが飲みたくなって、命は自分用に淹れた。レモンの皮を剥いた所で、ちょっと躊躇って、一口だけ皮をかじる。
「命さん? 皮を食べるの?」
「う……ん。やっぱり苦いわね。レモンの果汁は甘酸っぱいのに、皮は苦い」
「それはそうだよ。美味しくない」
「でもレモンの皮を砂糖でつけてお菓子を作れるのよ。砂糖に漬けたら苦味も美味しさに変わるわ」
「レモンの皮の砂糖漬け? それは美味しそうだね」
微笑む永久を見ながら思う。
綾の恋は苦い終わりだった。けれども、いつか甘くなってほしい。だから次に店に来た時には、レモンの皮の砂糖漬けを出してあげよう。
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