4話

 夏の間、氷雨の朝は早い。日が登り始める頃にはあかしやについて、店の外から声をかける。


「……入れてぇ」


 情けないほど力のない声を聞いて、永久が引き戸を開ける。この家は命か永久の許可なしに、あやかしは入れない。

 永久は口元に指を立てた。


「静かに。まだ命さん寝てるから」

「……そうやねぇ。うちの人もまだ寝てるわ」


 よろよろと店の中に入ると、氷雨はみるみると元気になっていく。


「やっぱり夏はクーラーやね。おかげで夏場も幽世かくりよに逃げなくてもええわ」

「楠原って人がいない時は、どうしてたの?」

「あの人、犬のために外出中もクーラーつけっぱなしにしてくれてたから、家から出なければええんよ」


 雪女にとって夏の暑さは地獄で、空調の効いた室内でないと生きていけない。朝方のまだ気温が低い時間帯を狙って、いつも出勤していた。


「でも、夏場こそ、うちの出番やろ? 氷いっぱい作って、アイスティーを冷やすのも、うち役立つし」

「まあ、そうなんだけど……」

「なに? 永久よりうちが役立つと困るん?」

「うーん。なんか、モヤッとする」

「えぇ……嫉妬してるん?」

「嫉妬ってなに?」


 氷雨は呆れたように口をぽかんと開けた。


「知らんの? 命に聞いてみたらええんやない?」




「命さん。嫉妬って何ですか?」


 起き抜けに永久から質問され、命は驚いて目を見開いた。


「え? 唐突に何?」

「氷雨が言ったから」

「……店の準備が終わったらね」


 改めて問われると答えに困る。朝の身支度を整えて、店の開店準備をする間ずっと考えていたが、良い答えが思いつかない。そもそも永久に恋愛感情があるのだろうか?

 ……あったら困る気がする。なにせ一緒に暮らしてるのだ。

 命が料理の下拵えをする間、隣で氷雨が氷を作って、作り置きのアイスティーを冷やしていた。


「ねえ、永久が急に嫉妬ってなに? って聞いてきたのだけど、何があったの?」

「ああ、あれ?」


 氷雨が永久とのやりとりを聞き、恋愛絡みではないらしいと知ってホッとした。


「恋愛の嫉妬じゃないのね」

「永久に恋なんてわかるわけないんや」

「あやかしだから?」

「うち、あやかしだけど、旦那様にずーっと恋してるんよ」

「それはそうね」


 楠原への過剰な愛を、恋と呼ばずになんと言う。

 遠くで掃除している永久に聞こえないのを確認して、氷雨はボソボソと答える。


「あやかしって言っても、色々なんよ。全然人間の気持ちなんてわからんのもいるし。人間と一緒に暮らして、ちょっと気持ちがわかるのもいる。永久はわからんほうやね」

「でも、永久はこの家の前の住人と一緒に暮らしてたのよ」

「その人がどんな人か、うちは知らんけど、きっと苦労したやろね」


 命は永久が話した前の住人とうこ・・・について思い出す。

 名前以外の特徴は知らない。女性なのかと思っているが、永久が恋愛感情を知らないなら、そういう仲ではなかったのかもしれない。


「……忘れてしまったんやろか」

「忘れる?」

「永久はずっと寝てたんやろ? 気持ちって時間が経つと薄れるって聞いたことあるんよ」

「まあ、そういうこともあるかもしれないわね。氷雨が言うと説得力ないけど。楠原さんのこと、ずっと想い続けてたじゃない」

「うちはあの人の側にずっとおったもん」


 見えてないのに、側にいたと言ってもいいんだろうかと思ったが命は口にしなかった。


「……まいっか」





「ねえ、爺さん。嫉妬ってなに?」

「何を藪から棒に」


 いつものように店にやってきた榊に、いきなり永久が質問する。榊は小さく驚いて、少し考えて命を睨んだ。


「嬢ちゃん。面倒ごとをあたしに押し付けだだろう」

「す、すみません。学校の先生をしてた方なら、教え方も上手いかな……と思って」


 命は気まずげに目を逸らした。

 店の準備が全部終わる頃まで考えたが、良い言葉が浮かんでこなかった。だから「榊先生に聞いてみたら」と言ってしまったのだ。

 サービスとしてお茶に芋羊羹をつけたから、許してもらえないだろうか。


「……まあいいよ。私がいない間に、鈴が世話になったみたいだからねぇ」


 熱い番茶をすすり、芋羊羹を食べつつ答える。


「嫉妬にも種類があるが、狐の場合、自分だけの物にしたいって独占欲じゃないかねぇ」

「独占欲……ううん、言われてみれば、そう、かも。そうじゃない嫉妬もあるの?」


 永久が首を傾げると、榊は唇の端をあげた。


「自分にない物を持ってる奴を妬む嫉妬もあるが、狐はそういうのないだろ」

「ないね。本当に欲しい物ならどうにかして手に入れる。そこまでして欲しい物じゃないければ諦める」

「お前さんは、ほんと極端だねぇ」


 命も榊に同意するように頷いた。永久は一か百の世界に生きているように感じる時がある。わかりやすくて楽ではあるが。


「独占欲……自分だけの物にしたい……」


 ぶつぶつと呟く永久を放置して、榊は命におかわりを頼んだ。


「そういえば鈴に聞いたんだが、ずいぶん可愛い客が来てるんだねぇ」

「綾ちゃんですね。学生時代の甘酸っぱい恋って応援したくなりますよね」

「そういうのは温かく見守るべきさ。いやぁ、この店が老人会にならなくてよかったよ」

「老人会って……」


 そこで氷雨が洗い物の手を止めて問いかける。


「甘酸っぱい恋って誰が? 与平の話?」

「どうしてそこで与平が出てくるの?」

「この前家に帰ろうとしたら、庭で与平に話しかけられて、ずっと聞いてたんよ。自分を褒めてくれた可愛い子がいるって。惚気話やと思ったわ」

「それも綾ちゃんだけど……大丈夫かしら。あやかしに好かれるなんて」


 そこで永久が振り返って真顔で答える。


「大丈夫だよ。あの女の子はあやかしが見えない普通の子だから。ただの傘にしか見えない。それに好きな子に悪いことする奴じゃないよ」

「そうなの?」

「からかさ小僧はね。人に使われなくなって捨てられた怨念があやかしになったんだ。だから自分を大切にしてくれる人間には、とことん尽くすんだ」

「永久がそこまで言うなら大丈夫そうね。よかった」

「恋か……」


 永久がそう呟いて、せつない顔をした。その横顔が綺麗で、いつもと違って、どきりとする。

 氷雨が前屈みで問いかけた。


「え? もしかして、永久も恋したことがあったん?」

「僕は恋ってよくわからないよ。ただ、嫉妬とか、独占欲とか、そういうのに関係するんだよね?」

「そやね。好きな人を独り占めにしたい。他の子を見てたら悔しい、思うんよ」

「なら、僕はとうこ・・・に恋してたのかな……」


 永久の呟きに命は不安になったが、同時に榊が茶を噴き出したので、一瞬で不安が吹き飛んだ。なぜか榊はゲラゲラ笑った。


「お前、そりゃ、ないだろ。おかしいね。あはは」

「榊先生何か知ってるんですか?」

「いや、何も知らないけど、馬鹿な狐が勘違いしてる気がしてねぇ」

「爺さん僕は馬鹿じゃないよ」


 榊はニヤリとした顔で命を見る。


「恋かどうかは置いておいて。それぞれ大切な人間がいるってことだあなぁ。そこの雪女は楠原さん、狐は嬢ちゃんだろ。嬢ちゃんはそういう人いないのかい?」

「い、いませんよ。そういう榊先生はいないんですか」

「あたしは死んだ女房一筋ですからね」

「狡い。そんな惚気を聞いたら何も言い返せないじゃないですか」


 気づくと、氷雨も永久も命をじっと見ていた。まるで子供がお菓子をせがむように、命の恋話を聞きたそうにしている。

 その流れに逆らえなくて、大きくため息をついた。


「今はいませんよ。でも子供の頃の初恋とか、そういうのはありますよ」

「もしかして、その初恋。牧野って人じゃないのかい」


 榊の鋭い指摘に、命は思わず座り込んで丸まった。


「ただの子供の頃の憧れですよ。小学生だったから。向こうからしたらただの子供にしか見えないし、何もなかったんです」


 座り込んだ命が床を見ながらぶつぶついじけると、永久が向かい側にしゃがんで話しかけてきた。


「恋ってよくわからないけど、それは家族に繋がるのかな?」

「そ、そうね。恋して、想いが通じ合ったら結婚して、家族になるかもしれないわね」

「じゃあ、どうして牧野って人と家族にならなかったの?」

「恋してたのは、本当に子供の頃だけで、大人になってからは師匠で、全然そういう対象じゃないから!」


 声を荒げて顔を上げると、真面目な顔をした永久と目があった。からかいの色はいっさいなくて、ただ純粋に問うているのがわかる。


「うん。それはわかった。でもお父さんの思い出を共有できて、一緒に仕事もできて、あんなに仲良くしてたのに、どうしてお父さんの代わりにならないの?」

「え……それは……」

「僕と出会った時、命さんは一人だった。家族がいなかった。お父さんの話を一緒にできる人がいなかった。そう思ってたけど、あの人がいるのに、なんでかなって思って」


 今の永久は普通の人間の姿で、瞳は黒い。黒々とした眼は鏡みたいに私の姿を写していた。みっともなく狼狽える自分の姿が。

 だからかもしれない。思わず本音がポロリとこぼれる。


「……彰さんとの約束のせいかな……」

「約束ってなに? どうして約束のせいでお父さんの代わりにならないの?」


 どうして、どうして。幼い子供が問いかけるように、答えても答えても、永久の問いかけは終わらない。

 答え続けるうちに「まいっか」という言葉で目を逸らしてきた事実と向き合わなきゃいけない気がして。逃げた。

 勢いよく立ち上がって、永久を見下ろす。


「恋話はここで終わり! 仕事に戻りましょう」


 永久と榊と氷雨は目を合わせて頷きあった。

 その場にいた誰の目から見ても、命が何かを隠してるのはわかる。

 それをこれ以上詮索するのは止めよう。命のために。そういう気遣いだった。

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