3話

 平日のあかしやに、猫の姿の鈴がやってきた。ガラスの引き戸をかりかりいじる。


「開けてー、入れてー」

「お客さんがいない間だけよ」


 命が引き戸をそっと開けると、ぬるりと鈴は入ってきた。甘えるように命にすり寄ると、永久はむすっとした顔をした。


「何しに来たんだ?」

「鮭ちょうだーい」

「またそれ? 爺さんに怒られるよ」

「爺ちゃん、泊まりで出かけてるから大丈夫。カリカリと水は置いていってくれるけど、カリカリより鮭が食べたい!」

「榊先生、泊まりで出かけてるの?」

「うん。時々出かけるよ。ふぃーるどわーく? なんか難しいこと言ってた」

「フィールドワークね」


 榊と知り合ってから、民俗学の本を図書館で借りて読んだことがある。フィールドワークは取材対象の土地へ行き、人々から直接話を聞いたり、土地を観察して研究することらしい。


「なるほどね。学者さんだものね」

「命! 鮭!」

「はいはい。ちょっと待ってね」


 小皿に鮭の切り身を乗せて置くと、鈴は嬉しそうに食べ始める。


「命さん、すぐ餌付けするから、鈴も調子に乗るんだよ」

「ひとりぼっちは可哀想じゃない。榊先生がいない間だけ、ね」


 鈴があっという間に食べきって、催促するように命を見上げた時だった。店の扉が開く音がした。鈴は慌てて机の下に隠れる。

 入ってきたのは私服姿の綾だった。


「お邪魔します」

「いらっしゃいませ。お席にどうぞ」

「すみません。あ、あの……今日は客じゃないというか……ご迷惑かもしれませんが……」


 もじもじしながら困った顔で命に問いかける。


「あの後、家でレモンティーを作ってみたのですが、どうしても美味しく作れなくて。何かコツがあったら聞きたいんです。ご迷惑ですか?」

「迷惑なんてとんでもない。大歓迎よ。よかったらこっちにどうぞ」


 命がカウンターの中に手招きすると、綾は遠慮がちに入っていった。


「美味しくないって、どんなところが良くなかったのかしら?」

「チラシに書いてあった通りに作ったら、アイスティーは美味しく作れたんです。でも、レモンを入れたら渋くなってしまって」


 綾の言葉を聞いて、命はポンと手を叩いた。


「もしかして、レモン果汁を絞って入れた?」

「は、はい。家に調味料のレモン果汁があったので」

「こういうやつよね」


 命は瓶に入ったレモン果汁を取り出した。料理やお菓子に手軽に使える、果汁だけが入った液体だ。


「そうです。うちのはもっと小さいけど」

「実はレモン果汁を入れると紅茶が渋くなるの」

「え? だって、レモンティーってペットボトルでよくあるけど、渋くないですよ?」

「ペットボトルはレモンの香料を使ったりもしてるんじゃないかしら。それにレモンは果汁だけじゃないの」


 そう言って命はレモンの果実を取り出した。包丁でくるくると皮を剥き、ポットを用意してお湯で温めて捨てる。空のポットに茶葉を入れる時に、一緒にレモンの皮を入れた。


「え? レモンの皮だけ入れるんですか?」

「レモンの皮から香りを移すの。レモンの果汁は紅茶を渋くするけど、皮は渋くならないから。レモン以外の果汁も、紅茶を渋くするものはいくつもあるから、皮を使うのが良いのよ」


 お湯を注いで蒸らしてから、カップに注いで綾に渡した。綾はおそるおそる口にして、ぱっと笑顔を浮かべる。


「美味しい。レモンの香りはするのに、お茶の味もしっかりしてて」

「農薬を使ってるレモンは、レモンの皮を料理に使えないから、レモンを買うときに注意してね」

「はい。わかりました」


 嬉しそうにしている綾に、命はこっそり囁く。


「美味しいアイスレモンティーを作って、高瀬くんに差し入れしたいのよね。高瀬くんが好きなの?」

「ひゃ! は、は……い」


 顔を真っ赤にして、小さな声で頷く。綾の態度はわかりやすく、初々しい恋のつぼみを見ているだけで、命の心もほっこりした。


「じゃあ、とびきり美味しいアイスレモンティーを作りましょ。香りは冷たくすると感じにくいし、時間が経つと消えてしまうから他にもコツがあるの」

「あ、ちょっと待ってください」


 綾は慌てて鞄からメモ帳と筆記具を取り出した。


「今みたいに、ホットティーを入れる時に皮を入れて、それを冷やしてアイスティーを作る。そのあと、レモンのスライスを入れて運ぶといいわ」

「レモンの果汁を入れたらダメじゃないんですか?」

「スライスを浮かべるくらいなら、あまり果汁は出ないから。スライスを絞ったりするとダメだけど」

「なるほど……」


 几帳面にメモを取って、嬉しそうに笑った。


「帰ったら練習してみます。私の入れたお茶で、高瀬くんに美味しいって言ってもらいたいから」

「そうね。好きな人に美味しいって言ってもらうのは嬉しいわよね」

「はい。ありがとうございます」


 綾は何度も頭を下げたあと、申し訳なさそうに話し出す。


「やっぱりお茶の淹れ方だけ聞くのも悪いので、お茶を飲んで行ってもいいですか?」

「もちろん嬉しいわ」

「あの、野外席に座ってみたくて」


 ガラス戸の向こうにある庭を指差した。緑が眩しい庭に赤い和傘が映える。


「好きな席にどうぞ。何を飲みます?」

「アイスティーがいいです。種類は……よくわからないので、おまかせします」

「わかったわ。永久。席にご案内して」

「はい。こちらにどうぞ」


 綾と永久が庭に出てくのを見届けて、命は声をかける。


「鈴ちゃん。お客さんが来ると不味いから、今日はもう帰ってね」

「……ごめんなさい」


 いつもと違ってずいぶんしょんぼりしている。


「人間の姿で来たら、営業中でも入れてあげるわ」

「わーい。ありがとう。命」


 二本の尻尾を嬉しそうに振って鈴は出ていった。





 和傘の下に座って待つ綾の元へ、命がお茶を持ってくる。


「アイスティーです。こちらサービスのティーゼリーもどうぞ」

「わぁ……ありがとうございます。夏のゼリーっていいですね」


 綾が嬉しそうにアイスティーを飲んで一息つく。


「私、和傘とか、和の小物が好きなんです」

「そうなの?」

「はい。だからお店も好きです。この和傘、伝統があるっていうか、雰囲気があって素敵ですね。こういう和傘、私も欲しいな」

「今どき和傘を使う人はあまりいないから、目立つわね」

「……目立つのは苦手だから、恥ずかしいですけど。でも好きなものを持ってると勇気をもらえますよね」


 綾が和傘を褒めたからか、与平は嬉しそうに喋り出す。


「素敵だって、おで、褒められた。凄いだろ!」


 綾の耳には聞こえないはずだから、命は返事をせずに店に戻った。

 アイスティーとティーゼリーを楽しむ綾と、綾を日差しから守る与平。遠目に見てもどちらも幸せそうに見えた。

 

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