二章 あかしやに夏が来ました
プロローグ
夕暮れ時が近づいてくる。命が学校から帰ると、仕事帰りの母がいた。
「……ただいま」
「お帰りなさい。夕飯前に宿題を終わらせなさい」
母は命の顔も見ず、台所で夕食の準備をしていた。静寂の中、包丁を叩く音、鍋がふつふつと湧く音が響く。
会話も何もない。この居心地の悪い時間が命は嫌いだった。居た堪れなくなって、問いかける。
「ねえ、お母さん。私はお父さんを探しにいきたい」
「あの人は私達を捨てて逃げたのよ」
「そんな酷いことお父さんはしないよ! あやかしにさらわれたんだよ」
「何を馬鹿なことを言ってるの! いいかげん現実を見なさい! もう来年は中学生でしょう」
命は母の言葉を聞きたくなくて、耳を塞ぐ。いつもこうだ。命は父が大好きだ。信じてる。なのに母は父の悪口ばかり言う。それが耐えられなかった。
「どこに行くの!」
母の静止を振り切って、外へ飛び出した。
父がいた頃、母は優しかった、両親は仲が良くて、家は温かで優しい場所だった。
けれど父がいなくなって、母は変わった。かりかりと怒りっぽくなり、父を好きだったことなんて忘れたように、悪口ばかり言う。
変わってしまった母が命は大嫌いだった。
黄昏色に染まった景色の中、命はとぼとぼと歩いた。黄昏時にあやかしが出ると父は言った。
もし、あやかしに出会えたら、あやかしの世界に連れて行ってもらうんだ。それで父を探すのだ。そう思っていたけれど、今まで一度もあやかしを見たことはなかった。
日はどんどん沈み、夜が近づいてくると寂しくなって道の途中で立ち止まる。
「……どうして、お父さんは、いないのかな」
涙がこぼれそうになるのを、ぐっと我慢して空を見上げる。すると遠くから男の声が聞こえてきた。
「命!」
一瞬お父さんかと思ったけど、すぐに違うことに気づいた。声も違うし、何より父は命のことを『みこ』と呼ぶ。
振り向くと命もよく知っている人が近づいてきた。心配そうな顔をしている。
「彰さん」
「お母さんが心配していたよ。また喧嘩したのか?」
「……うん」
彰さんは、父の会社で働いている人だ。今はお父さんの代わりに会社の社長をしているらしい。
大人と言ってもまだ若くて、おじさんというより、お兄さんという雰囲気がする。
かっこいいし、優しいし、何より、彰さんはお父さんの悪口を言わない。
「ねえ、彰さん。お父さんは私達を捨てたりしないよね。きっとどこかで迷子になってるだけだよね。帰ってくるよね」
彰さんはしゃがみ込んで命に目線を合わせた。とても真剣な顔で口を開く。
「俺は葛城さんは帰ってくると信じている。だからそれまで会社を預かるし、命を守りたい。だから危ないことはしないでくれ」
彰さんの大きな手が命の頭をくしゃりと撫でる。堪えていた涙がこぼれ落ちた。
「お母さんは、お父さんの悪口言うから、嫌い。お父さんがいないの、怖い。あやかしにさらわれたのかもしれない。助けにいきたい」
あやかしの話をすると、大人も、友達もみんな笑うのに、彰は笑わない。真剣な顔のままだ。
「あやかしに出逢ったら命がさらわれる。葛城さんが帰ってきた時に、命がいなかったら悲しむぞ。だから家に帰ろう」
彰に手を引かれて命は歩き出す。ただ一人あやかしの存在を信じてくれる人。お父さんの帰りを一緒に待ってくれる人。
恋というのが何か、まだ命にはよくわからなかったが、彰と一緒にいると、ほのかに心がぽかぽかする。
「あやかし、いるよね」
「いるよ」
「どうしたら見えるかな」
「見えない方がいい。葛城さんもそう言ってただろ?」
「うん。私がさらわれたら、お父さんが取り返してくれるって言ったんだよ。だからお父さんがさらわれたなら、私が探しに行かないと」
「大人になったら一緒に探そう」
「本当に?」
見上げると、彰さんは笑って答えた。
「本当だ。だから毎日ご飯を食べて寝て、学校にも行って、ちゃんと『大人』になろう。一人で生きていけるくらいになったら。お母さんももう止めないよ」
「そっか……じゃあ、私。早く大人になりたいな」
夕暮れの中で彰と約束したけれど、父を探す約束は果たされなかった。大人になった命は現実を知って、父を探そうとしなくなった。
それでも、まだ父親が帰ってくると信じている。
彰と交わした約束は、いまだ果たされていない。
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