楠原と氷雨
御嶽神社を出て楠原の家に着く頃には、景色が夕焼け色に染まっていた。
「ズンちゃん。家に着いたよ。……ズンちゃん?」
家についても、ズンちゃんはキャリーバッグから出てこなかった。覗き込むと眠ってるようだったので、そっとバックの中から出してあげて、お気に入りのベッドに寝かせてあげる。
今日は歩き疲れてしまったのだろうか。もしかしたら、どこか悪いのかもしれない。一晩様子を見て、明日病院に行こう。
そう考えながら楠原は縁側に座った。
もう夏が近づいてくる。夕焼けを見てるとあの日を思い出した。
不思議な女の人と出会った、奇跡みたいな一年。山に、川に、一緒に遊びに行った。大人なのに物を知らなくて、些細なことでびっくりして。けれど、わたしにいろんなことを教えてくれた。
とても綺麗な人だった。最後に別れたのも、夏を前にした夕暮れ。茜色に染まった景色の中で、白い肌と着物が恐ろしいほど美しくて、どきどきしすぎて、まともに見れなかった。あの日のことを思い出す。
「明日は暑くなりそうやね。うち、そろそろお山に帰らなあかんの」
「もう、会えないの?」
「夏が終わって涼しくなったら、帰ってくるわぁ。そしたら、また、うちと遊んでくれるん?」
「うん。遊ぼう。約束」
「指切りげんまーん、やね」
小指と小指を絡めて約束したのに、わたしはその夏の終わりに、引っ越してしまった。
もしも、あの女の人が帰ってきた時、わたしがいなくてがっかりさせてしまったなら、申し訳ない。
もしも、また会えたなら……。
そこで葛城さんが湯呑みを持ってきた。
「楠原さん、どうぞ」
「いや、これはありがとうございます。いただきます」
受け取った湯呑みは冷えていて、指先がひんやり心地よい。茶を口に含んで、目を瞑ってじっくり味わう。
そういえばあの女性は、熱いものが苦手だった。こんな冷たいお茶なら、飲めただろうか? また会いたい。その時は一緒に冷たいお茶でも飲みたいな。
「いや……冷たいお茶というのも美味しい物ですね……」
目を開けた瞬間、まるで昔に戻ったかのように、あの日別れた女の人が目の前にいた。会いたいと思ったから、幻覚を見たのだろうかと思いつつ、思わず呟く。
「貴女は……?」
女の人は目を見開いて驚き、涙ぐみながら微笑んだ。
「うちが見えるん? 覚えてる? うち、昔会ったんよ」
イキイキとした声が、くるくる変わる表情が幻覚には見えなくて。あの日別れた時のままの姿に、妙に納得した。
「ああ……貴女は何も変わらない。やっぱりあやかしだったんですねぇ」
茜色に染まる奥多摩の中で、白い着物がよく映えた。美しいなとうっかり見惚れてしまう。
「そのお茶、本当は彼女が淹れてくれたんですよ」
横から声をかけられて、すっかり葛城さんのことを忘れていて申し訳ない気分になる。ただ、このお茶を淹れてくれたのが彼女だというのは嬉しい。
「そうですか。ありがとうございます」
「美味しかったんやったら、ええんよ」
そう言いながら女性はぽろりと涙を一粒こぼした。縁側に湯呑みを置いて立ち上がる。その涙を拭ってあげたい。幻ではないか、触れて確認したい。
そんな思いで手を伸ばし、寸前で止まった。
「……わたしが触れても、いいのでしょうか?」
「もちろん。嬉しいわぁ」
そう言って、女性はわたしの手を掴んで頬に導いた。手も頬も、驚くほど冷たい。改めて人間ではないのだと理解した。
数十年の時が戻って、子供になった気持ちで言葉が口からこぼれ落ちる。
「ごめんなさい」
「え?」
「約束したのに。指切りしたのに。いなくなってしまったから」
そう言った瞬間、真っ白な頬が赤く染まった。夕日のせい、ではなさそうだ。ぱっとわたしの手を離すと、恥ずかしげに目を伏せる。
「覚えててくれて、嬉しいから、ええよ。それに、うち、ずっと側におったんよ」
「ずっと側に?」
「ずーっと、見てたんよ。嫌ややった?」
見えないだけで側にいた。そう考えて見ると、それはとても嬉しい気がして、思わず頬が緩む。
「いいえ。嬉しいです。あの……一つ、聞いてもいいですか?」
「なぁに。なんでも聞いて」
もう一つ、心残りがあったのを思い出す。
「わたしの名前は楠原裕也と言います。貴女の名前を聞いてもいいですか?」
あの頃、なぜか名前を聞きそびれてしまったのだ。毎日一緒に遊んだのに。後から、どうして名前を聞いておかなかったのかと、ずっと後悔していた。
「うちは、氷雨」
「氷雨さん」
名前を呼んだだけで、頬が真っ赤になって。わたしも照れくさくて真っ直ぐに見れなくて、目線を逸らす。たぶん、わたしの顔も赤くなっている。
「……うち雪女なんよ」
「雪女ですか……なるほど。だから手が冷たいんですね」
「暑いのが苦手で。夏は居られへんのよ」
そう言った氷雨さんの姿が、少しだけ薄く見えた。儚く消えてしまいそうで、慌てて手を掴む。
氷雨さんがびっくりした顔をしていたけど、躊躇っていられない。
「また、貴女と会いたいです。話したいです。だから、もう一度約束をしましょう」
小指を差し出すと、氷雨さんは嬉しそうに小指を絡めた。
「見えなくても、声が聞こえなくても、うちはずーっと、そばにいるわぁ。だいす……」
最後まで聴き終える前に、姿が見えなくなった。声も聞こえなくなった。
それでも、目の前に氷雨さんがいる気がして。それだけで、心が熱くなる。
氷雨さんの入れたお茶を飲むたびに、また会えると知ったのは、もう少し先の話。
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