榊と鈴
黒い毛玉は恐ろしいほど柔らかかった。
それを人は猫と呼ぶ。
いつものように我が家に帰って、書斎の椅子に座ろうと背もたれに手をかけた所で気づいた。なぜか椅子の上で黒い猫が丸まっている。これじゃ毛玉だ。
「野良猫が、いつの間に入り込んだんだい」
「違いますよ。この子は私が我が家にお迎えしました」
台所で夕食の支度をしていた妻がひょっこりやってきて、にこにこと話しかけてくる。
「聞いてないですよ」
「はい。今話しました」
「あたしはペットを飼うのは嫌だと言ったでしょう」
「……でも、私は飼ってみたかったんです。ダメですか?」
妻の眉尻は情けないほどに下がり、反対に口の端は面白いほどに上がっている。
この困り笑顔を見ると、どうしても否と言えなくなってしまう。
普段はおっとりしている妻だが、長年連れ添ってきた経験上、こういう時は絶対に譲らないことを知っている。
自分達は子供を授からなかった。ずっと二人で暮らしてきて、何度もペットを飼おうという話がでた。その度に反対してきた。
――自分達より先に死ぬ生き物に、情を残すなんて恐ろしい。
そう言い続けて一度もペットを飼わなかった。ここまで強引なのは初めてだ。
「しょうがない人ですね」
それを肯定と受け取ったらしい。妻は機嫌よく台所へと戻っていった。
大きくため息をついて、おそるおそる黒い毛玉を指先でついた。
榊幸一郎の人生の中で、猫に触れたことは何度かあった。だが猫を飼ったことはない。
ふにっ。
黒い毛玉は恐ろしいほど柔らかかった。そして温かい。
とにかく椅子の上からどかしたくて、猫を抱えて持ち上げると、にゅるんと形を変えて手の中を滑り落ち、また椅子へと戻っていく。
猫は液体。そういう冗談を聞いたことはあるが、あながち嘘ではなかったのかもしれない。
しばらく猫と格闘し、猫の方が根負けしたらしい。不服そうに鼻息荒く立ち上がって、音もなく台所へと行ってしまった。
遠くからにゃーと声が聞こえた。猫撫で声で妻におねだりしているのだろう。
「可愛くない子だね」
それが榊幸一郎と鈴の出会いだった。
「
「はい。
「自分で可愛いって言うんですか? 本当にあなたはしょうがない人ですね。
美鈴。それが妻の名である。つまり自分の名前から一字をとって猫に名付けたのだ。それを可愛いと言えてしまう所がおおらかすぎて、またため息が漏れる。
「あなたはいいかもしれませんが、あたしが困るんですよ。紛らわしい。美鈴さんと、鈴。言い間違いそうじゃありませんか」
「じゃあ、私の呼び方を変えましょう。幸一郎さんも変えてください」
「なんて呼ぶ気だい?」
「鈴ちゃんとお父さん」
思わず目を丸くして、黒猫と妻を交互に見てしまう。
「なんであたしがお父さんなんです」
「子供がいる家では、夫婦で『お父さん』『お母さん』って言い合ったりするじゃないですか。私も一度言ってみたかったんですよ」
「嫌だよ。まっぴらごめんだね」
ぐっと黒猫を睨むと、しゃーっと威嚇するように鳴いた。毛も逆立っている。嫌われているらしい。
「ほらほら、お父さんも、鈴ちゃんも、仲良くしてね?」
「子供だなんて、あたしは認めませんよ。それにあなたの呼び方を変える必要はありません。美鈴さんと猫。これでいいでしょ。なあ? 猫」
猫はこちらの声を無視して、妻の膝にのぼっていった。
猫が来てから、生活ががらりと変わってしまった。
増え続ける本を横に積んでおくと、猫が乗って崩してしまうので、泣く泣く愛書を処分した。
お気に入りの着物に爪を立てられたくなくて、箪笥の奥にしまったまま出さなくなった。
やかましく泣きながら駆け回ったかと思えば、音もなく隣まで忍び寄ることもある。
書斎で書物をして、万年筆を机に置く。資料を確認しようと書棚に手を伸ばした所で猫がやってきた。勝手に机に登って、じっと万年筆を見つめていた。
嫌な予感がした瞬間、猫は万年筆を叩き落とす。慌てて拾い上げて、思わず猫の頭を軽くこづく。
「何やってるんだ。バカ猫」
猫は怯えたように走って逃げた。煩く鳴いていたから、きっと妻に甘えているのだろう。
手のひらの万年筆を眺め、キャップのクリップにある小さな青い石をそっと撫でる。
人間の宝物など理解していない、愚かな生き物。
この不可思議な動物との付き合いに慣れるまでに三年かかった。
夕食を終えて、居間で食後の茶を飲みながら、夕刊に目を通す。膝の上には当たり前のように猫が乗っていた。甘えた声で鳴いたから、視線は新聞に落としたまま、片手で猫の頭を撫でる。
「もう、お父さんと鈴ちゃんは仲良しですね」
「どこが仲良く見えるんですか。この猫に、あたしが譲歩してあげてるだけだよ」
「鈴ちゃんも、お父さんに合わせてるだけって顔してますよ」
そう言われて猫の顔を見ると、どことなく偉そうでふてぶてしい。
「……よかった。間に合って」
「何を言ってるんですか……美鈴さん?」
妻が改まったように正座して、じっとこちらを見つめる。その顔に笑顔はない。
「今日、病院で余命宣告を受けました。長くて三年だそうです」
ぱさり。持っていた新聞紙が落ちる音がした。
とっさに何も言えなくて、気まずい沈黙が続く。上手く呼吸ができなくて、息が苦しい。
穏やかな妻の顔を見ていられなくて、思わず目線を落とす。膝の上で呑気に猫が寝ていた。
あまりにいつも通りの間抜けな寝顔に、思わずため息がこぼれる。やっと呼吸ができた。
「……美鈴さん」
「はい」
「行きたい所、やりたいこと、紙に書いておいてください。全部やりましょう」
「はい。やっぱり幸一郎さんは、優しいですね」
「こういう時だけ『幸一郎さん』だなんて、やっぱり狡い人だね」
緑豊かな山の中で暮らしたい、それが妻の希望の一つだった。
長年都心で生きてきたから、田舎に憧れがあったらしい。
とはいえ、余命宣告を受けた病人である。病院に通うためにも、あまり遠くに引っ越すわけにはいかない。都内の病院に通えるからと奥多摩に移り住むことにした。
廊下の引き戸から外を眺めて、妻は小さく微笑んだ。
「良い景色ね。これから毎日この眺めを見られるなんて、素敵でしょ」
「はい。それはよかったねぇ。冷たい廊下で突っ立ってないで。ほら座布団に座った」
座布団を持ってきて廊下に置き、座らせて肩に羽織りをかけてやる。冷えは体の大敵だ。音もなく猫がやってきて、妻の膝に擦り寄ってから、引き戸に手を伸ばす。かりかりと引っかく仕草に、妻の頬が緩む。
「鈴ちゃん、外に出たいの?」
妻が引き戸に手をかけたので、その手を掴んで止めた。
「引っ越したばかりで、外に出すのはいけません。バカ猫が迷ったどうするんです」
「あら……お父さん。やっぱり娘が可愛いのね」
「お父さんじゃありません。よくて爺さんだろう」
「あら、じゃあ、私は婆さんですね」
外へ行くのを諦めたのか、猫は妻の膝の上に乗って寝始めた。こうなったら人間は動けない。
妻の側にストーブを持ってきて、茶を淹れて運ぶ。
人間より、猫の都合に合わせる暮らしに慣れてしまった。
妻との最後の思い出は、この奥多摩で見た景色。妻は病院以外、外出もできなくなって、ただ毎日外を眺めていた。それだけでも満足そうだった。
奥多摩に移り住み、季節が一巡りする頃、妻は病院から出られなくなった。
「……幸一郎さん。鈴のこと、頼みますね」
眉尻は情けないほどに下がり、反対に口の端は面白いほどに上がっている。この困り笑顔に勝てやしない。
「わかりました。だから安心してゆっくり休みなさい」
それが妻にかけた最後の言葉だった。最後まで夫より猫の心配をするなんて、酷い人だ。
葬式を終えて、骨壷を抱えて家に帰る。仏壇を整えて、線香に火をつけた。ゆっくり煙が昇るのを眺める。笑顔の遺影に視線を写すと、涙で滲んで見えた。
少しづつ、別れに備えてきたのに。ひとりぼっちの家は静かすぎて。この先ずっと隣に貴女がいないのだと思うと。この世に留まる理由などない気がしてしまう。
「……美鈴」
誰に聞かせるつもりもない独り言。しかし声が返ってきた。
「にゃー」
振り向くと後ろに黒猫がいた。
「お前を呼んでないよ。私は美鈴に……」
「にゃー」
「お前は美鈴じゃなくて、鈴だろ……」
「にゃぁ」
嬉しそうに泣いて擦り寄ってくる。そこでやっと気づいた。
最後まで猫の心配をしていたのは、夫を独りにしないためだったのだと。
この日のために、猫を残してくれたのだ。
猫を抱えて膝の上に乗せる。一撫でしてから口を開く。
「鈴」
「にゃぁ」
「美鈴」
「にゃー」
まるで、言葉がわかるみたいに返事をする。
「お前さん、ちゃんと自分の名前がわかっているのかい」
両脇を抱えて猫を持ち上げて、その腹に顔を埋める。
「お前は長生きするんだよ」
たぶん、自分は今、泣いているだろうから、そんな顔を猫に見せたくなくて。腹に顔を埋めたまま抱え込む。
「……なぁ……う。なぁん。……うん。わかった!」
「……え?」
どこからか、幼女の声が聞こえてきて、自分の耳を疑った。慌てて猫から顔を離し、周囲を見回すが誰もいない。
「あれ? 爺ちゃん、あたいの言葉、わかるの?」
黒猫の口から声が聞こえて、思わずのけぞった。
「鈴……お前……」
よく見ると、尻尾が二本に増えていた。まさか猫又になったのか?
思わず乾いた笑いが込み上げる。
何もかも準備して旅立った妻も、きっと予想していなかっただろう。鈴が猫又になって、喋るようになるなんて。
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