5話

 翌朝、命は早く目が覚めて、一人で朝の散歩に出かけた。

 朝の河原は人気がなくて静かだ。川のせせらぎを聞きながら、しゃがみこんでぼんやりしているだけで、少し落ち着いてくる。

「なんで、あんなこと、言っちゃったかな……」

 昨日の永久の言葉が、耳の奥にこびりついて離れない。自分はそんなに大切な物を諦めてきたのだろうか。

 ぽちゃん。近くで水音がして、ふと顔をあげると、川の水面から頭だけを出した河童がこっちを見ていた。

「何してるだ?」

「う……ん。落ち込んでる」

「狐の旦那と喧嘩でもしたか?」

「喧嘩なのかな……」

 はあ……とため息をつくと、河童は川から上がって、河原のはしっこに座った。

「人間は夫婦喧嘩は犬も食わないっていうんだろ?」

「夫婦じゃない」

「何でもいいが、仲が良いから喧嘩するんだろ。嫌いな相手なら、めんどくせーから、おらなら逃げる」

「仲が良いから……そっか」

 永久の言葉は心に突き刺さった。でもそれは命のことを考え、思いやるからこそ気づいたのだ。

「何でもいいから、早く帰れ。ほら、迎えが来てる」

 そう言って河童は川の中に入っていく。命が振り返ると、遠くから永久がじっと見ていた。

 立ち上がって永久へ向けて一歩踏み出すと、永久も歩いてくる。河原の真ん中で二人は向かい合って、どう話しかければ良いか解らず黙り込んだ。

 しばらく沈黙が続いて、先に話し出したのは永久だった。

「……何度考えても、命さんがなんで怒ったのか、よくわからないけど、僕が悪かったのかな?」

「永久が悪かったんじゃないわ……」

 永久の顔をまともに見られなくて俯きながら、命はゆっくり心の中から言葉を探す。

「『まいっか』はお父さんの口癖だったの、細かいことは気にせずに、楽しく前向きに生きようって。そういうお父さんが大好きで、自分もそうなりたいと思った」

「……お父さんの?」

「そう。大切な言葉だったから、後ろ向きな言葉だと思われたくなかった。それで、ついかっとなって……うん、私が悪いんだわ」

 真似してるうちに口癖になって。最初は前向きだった言葉は、ねじ曲がった。永久が言うように、何かを諦める時に使う時もあるんだろう。

「泣いてもどうにもならないし。それなら、まいっかって諦めて、笑って生きたほうがいいかなって……」

「無理して笑っても幸せにはならない。泣きたければ素直に泣けばいい」

 駄々っ子の子供に諭すように、優しく微笑む永久の姿が、父と似て見えて。命は思わず泣きそうになって、ぐっとこらえた。

「でも……泣き顔なんて恥ずかしいから、見せたくないわ」

「じゃあ、僕が隠してあげる」

 そう言って永久は命を抱きしめて、そっと頭を撫でた。まるで子供をあやすように。

「泣いたら、永久の着物が濡れるわよ」

「僕の炎で乾かすから大丈夫。僕の前では、好きなだけ泣いて。そうしたらお客さんの前では笑っていられるでしょう」

 いつもの永久は子供のように無邪気なのに、ふいに大人びる。あやかしだから、長い時を生きてきた年長者だからかもしれない。

「ありがとう。……じゃあ、今だけ」

 何年も一人で生きていた。一人で泣いても惨めなだけで、誰かに甘えてすがって泣いたのは子供の頃以来で。

 ため込んだ分だけ、たっぷり泣けたのは、永久の声が優しく、頭を撫でる手が温かかったからかもしれない。

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