2話

 女性客が帰った後、客が来ないまま日が暮れた。

「永久。家の戸締まりしてきてくれる?」

「わかったよ」

 この家には敷居のある立派な門がある。日が暮れると庭が薄暗く、危ないから門を閉めるのは、自分の役目にしたいと永久は言った。

「子供じゃないんだし……」

 命がぼやいてもあやかし絡みになると、永久は頑なに譲らない。一人で外に出すとあやかしに引っかかるのではないかと心配されてる気がする。

 その時、庭に面したガラスの引き戸から、かりかりと音が聞こえた。よく見ると戸の向こうに黒猫がいて、戸をひっかいている。

「にゃー」

 まるで中に入りたそうに甘えた声が愛らしい。

「野良猫かしら? 可愛い。どうぞ、お入りください」

 命は嬉しそうに戸を開けて猫を招き入れた。足にすり寄られ甘く鳴かれ、思わず頬が緩む。

「人懐っこい子ね。食べ物がほしいの? 猫が食べられる物……薄めた牛乳とゆでたささみなら……」

「あたい、鮭が食べたい」

 鈴のように愛らしい幼女の声が聞こえて、思わず命は周囲を見渡す。

「……へ?」

 命以外誰もいない。それでも確かに声が聞こえた。もう一度見渡して黒猫と目が合った。

「鮭の匂いがする。ちょうだい」

 猫が喋った。びっくりして思わず後ずさる。よく見るとしっぽが二本あった。

「もしかして……あやかし?」

「家の中にあやかしの気配がする」

 命が驚いているうちに、家に帰ってきた永久が、黒猫を見つけた。

「命さん。この猫を、招き入れましたね」

「……普通の猫かと思って」

「化けるのが得意なあやかしもいるのですよ。ほいほいと入れては危ないでしょ」

 この家には永久が結界を張っていて、招かれなければあやかしは入れない。家の主である命が招かなければ。

「そうそう。この家に入りたいあやかし、たくさんいるよ。だって美味しいご飯くれるんでしょ?」

 黒猫が楽しげに言うと、永久がしっぽをぶわっと膨らませて不機嫌そうに尋ねる。

「どうして美味しいご飯をくれると?」

「河童が言ってた」

「あの河童……今度見つけたら燃やす」

「永久、燃やしちゃだめ」

 人前では大人しくしている永久だが、あやかし相手だと気が短い。怒るとすぐ「燃やす」と言う放火魔気質で、命はいつもはらはらしていた。

「ここは店だ。対価のないものに与える飯はない」

「対価? 何すれば良いの?」

「お金。あやかしはもってないだろう」

 永久が胸をはって答えると、黒猫は困ったように首を傾げる。狐耳としっぽの永久と猫の会話は、端で見てると微笑ましく見える。命はにっこり微笑んだ。

「良いわよ、鮭くらいなら。おにぎり用の具が残ってるから」

「……命さん」

「わーい。鮭!」

 小皿に鮭の切り身を乗せて床に置くと、黒猫は美味しそうに貪る。命はしゃがみ込んで黒猫が食べる姿を眺めた。しっぽが二本あることを除けば、普通の猫と変わらない。無心に食べる姿が愛らしい。

「普通の猫に塩鮭は体に悪いけど、あやかしなら大丈夫よね」

「大丈夫じゃない。簡単に餌付けしちゃダメだからね」

 腰に手を当てて、永久が仁王立ちで見下ろす。あまりの怒りぶりに、命は思わず床に正座したくなってきた。いつも優しいお父さんが、怒ったときによく似ている。

「とにかく、あやかしは客じゃないのだから、もう餌をあげてはだめ。ただでご飯をくれるからって、あやかしが押し寄せたらどうするんです?」

「……それは困るわね。ごめんなさい、もう餌付けはしません」

「お金を持った客ならいいの?」

 鮭を食べ終えた黒猫がそう言うと、永久の狐耳がぴくりと動く。

「お金、持ってるのか?」

「あたいはもってないけど、人間の客を呼べばいいよね?」

 黒猫はごちそうさまとばかりに命にすり寄る。思わず喉を撫でるとごろごろ言った。やはり可愛い。

「人間の知り合いがいるの?」

「うん、あやかしの先生」

「あやかしの先生? それ本当に人間?」

 あやかしのボスみたいなのが現れたらどうしようと、命は思った。

「人間だよ。今度一緒に来るね。ごちそうさま」

 引き戸を開けてほしそうに、かりかりひっかくので、戸を開けると、黒猫はひらりと飛び降りて闇に消えた。

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