3話
平日のあかしやは、店を開けてもあまり客が来ない。店番は
「図書館で借りた本、返してきてくれる?」
「氷川図書館、だったよね」
「そう。この本ね」
奥多摩に住み始めて、奥多摩のことを知りたくなったから、命は最近図書館で郷土史の本を借りて読んでいる。
永久が外出したのと入れ替わりに一組の客が、玄関をノックした。
「ここ入っていいのかい?」
玄関まで迎えに行くと、着物姿のお爺さんと、おかっぱの少女がいた。駅のホームで見かけた二人だ。
ほっそり痩せたご老人で着物が実に様になっていて、枯れた色気さえ感じる。赤い着物を着た少女も、つやつやとした黒髪が綺麗で、つり目がちの大きな瞳も愛らしい。
「いらっしゃいませ。お好きな席にどうぞ」
案内するとテーブル席に向かい合わせに座って、メニューを開く。お爺さんは眼鏡のズレを直しつつメニューを眺め、驚きの声をあげた。
「ずいぶんお茶の種類が多いんだね。これじゃ選べないよ」
「召し上がりたい物があれば、それに合わせてお茶をお選びしますよ」
「そうだねぇ……さっぱりして、腹にたまるものがいいな。ああ、茶漬けは良いね」
「今日のお茶漬けは
「季節になったら駅前の雑貨屋で、
「生山葵ですか? いいな。すりおろしてお茶漬けにのせたら最高ですね。お茶は焙じ茶と緑茶から選べますが、どうします?」
「香ばしい焙じ茶が良いね」
「何を焙じましょうか」
「……お前さん、茶を焙じるところからやるのかい? 何でも良いから任せるよ」
お爺さんが呆れた顔をしたので、命はざっとお茶缶置き場を眺めて悩む。
「じゃあ、静岡の浅蒸し煎茶にしますね。お連れさんはどうしますか?」
女の子はメニューを指さし、無言で訴える。
「……プリンと鮭にぎりですね。飲み物は?」
「あたしと一緒の焙じ茶でいいよ」
お爺さんが代わりに答えた。先ほどから女の子は一言も喋らない。喋れない子なのかもしれない。
常滑焼の
「……良い香りだ。昔はお茶屋の前を通ると、焙じ茶を焙じる良い匂いがしたもんだが、最近はああいう店、あんまりないから懐かしいねぇ」
鮭にぎりとプリンは作り置きがある。ご飯を器によそって、鮭の切り身と山葵の佃煮をのせた。
焙じ茶は熱いお湯を好む。鉄瓶のお湯を使おうと囲炉裏に向かうと、お爺さんは眉を跳ね上げて言った。
「そこのお湯を使うのかい?」
「ええ。飾りじゃなくて、ちゃんと使えるんですよ」
何をそんなに驚かれたのだろうと思いつつ、急須に焙じ茶をいれお湯を注ぐ。おおぶりの急須で入れて、お茶漬けのお椀と、二つの湯飲みに注いだ。最後に海苔をかけて運ぶ。
「お待たせしました。どうぞ」
「ああ。いただくよ」
茶碗に口をつけてずずずっと啜ると、お爺さんは目を細めた。
「良い香りだ。焙じ茶の香ばしい香りと山葵の爽やかな香り、不思議と喧嘩せずに良いバランスだねぇ。脂の乗った鮭も美味いよ」
甘塩っぱい佃煮は、
「こら、
口調は厳しいが、声はとても優しげで、米粒をとってあげる姿は、孫を可愛がるお爺ちゃんそのもので微笑ましい。
「お二人は地元の方ですか?」
「ああ、奥多摩に住みはじめたのは割と最近だがね。こんな穴場のカフェがあるとは知らなかったよ」
「最近できたばかりなので」
「ここで作業をしたら、いつでも美味い茶を入れてくれるのだろ、それは良いね」
「作業……ですか? 何かお仕事で?」
「ちょっと書き物をね。長居したら迷惑かい?」
「いえ、かまいませんよ。平日はほとんど人が来ませんし」
常連になってくれるなら、これほどありがたいことはない。
「ただいま帰りました……え?」
玄関から入ってきた永久が呆然とした顔で、お爺さんと女の子を見た。
「どうして、あやかしがいるんですか」
「え? あやかし?」
永久が指さすのはおかっぱの少女だ。ちょうどプリンを食べ終えて、少女は笑顔で立ち上がる。ぴょんっと飛び上がったかと思ったら、くるりと姿が変わって黒猫が現れた。
「あっ、昨日の猫又さん」
「人間の客を連れてくるって約束した」
「うちの鈴が迷惑かけたようで、悪いね。詫びに多めに支払うから」
お爺さんが財布を取り出してお札を差し出すと、命は受け取りながら観察する。
「貴方があやかしの先生ですか」
「あやかしの先生? そんな馬鹿なこと言って……まったく」
「だって、爺ちゃん、あやかしの研究してるでしょ」
「あやかしだけじゃないよ。集落に残る伝承を聞き取って記録に残して研究する……」
「難しいことわかんなーい」
鈴はぴょんと飛び上がってお爺さんの肩までよじ登る。慌てて腕で支えてやりながら、お爺さんは椅子に座り直した。懐から名刺入れを取り出して命に渡す。
名刺には
「学者さんですか」
「学者と言っても、大学は引退しているし、今は細々とこの土地の聞き取り調査をしながら、時々本を書いているだけ。仕事柄人に挨拶する機会は多いし、肩書きがないとかっこがつかないものでね」
「民俗学ってあやかしの研究をするんですか?」
「古い土地の伝承を聞き取る中には、あやかしの話もある。だからといって、あたしはそれが専門じゃないよ」
そう言いつつ、永久をちらりと見て言った。
「鈴を一目であやかしと見抜くとは……お前さんもあやかしかい?」
「爺さん、あやかしが見えるの?」
「ああ、さっきもあの鉄瓶を使うからヒヤヒヤしたよ」
『わしの声が聞こえ取ったのか』
「煩いおしゃべりは聞き流してましたけどね。その点、毛玉を転がしてる狐は静かだねぇ」
床でケセランパサランを転がしてる管狐を見てにこりと笑う。命は嬉しそうに身を乗り出した。
「あやかしの話ができる人、初めてお会いしました。嬉しいです。こっちは妖狐の永久。ほら、挨拶して」
永久はぱんと手を叩いて術を解くと、狐耳と着物の姿に戻って頭を下げる。
「……初めまして」
「へぇ……狐ねぇ。あたしもあんたみたいに、あやかしと住んでる人間を初めて見たよ」
「榊さんも鈴ちゃんと一緒に住んでるんですよね」
「うちは元々飼ってた猫が、あやかしになっただけだから。長生きしてほしいと思いましたけど、まさかしっぽが二つになるとはねぇ。『猫に九生あり』なんて言われるが。果たしてこの子は、何度生まれ変わったのか」
鈴を両手で持ち上げ、膝の上に乗せて、ゆっくり撫でる。孫ではなく飼い猫を可愛がっていたのだ。
名刺をじっと見ていた命ははっと気づく。
「古い伝承を調べるなら、古い文献も読むのですか」
「まあ、そういうこともあるわねぇ」
「ちょっと見てもらいたいものがあるんです」
大急ぎで蔵までいって、和綴じの本を取ってきた。
「この家の前の主が書いた物らしいんですが、読めますか?」
ぺらりと開いて眼鏡を動かしつつ、榊は文字に目を落とした。何ページが見て、ぐいっと引き寄せて首を傾げる。
「どうかしました」
「……いや。きったない字だね。まあ、読めなかないけど。前の主人ってのはいつ頃の人だい」
命が期待するように永久をじっとみると、渋々というように口にする。
「生きてたのは大正ぐらいまで」
「なるほどね……日記みたいなもんか。これはあたしにとっては貴重な資料になるかもしれねぇなぁ」
「私、ここに住んでた人が、どんな人か知りたいんです。永久に聞いても教えてくれないし」
何度か永久に聞いたが、その度に曖昧に誤魔化され、性別すらわからない。榊はニヤリと笑って答える。
「ふーん。そうだねぇ……ただでやるのも面白くねぇさ。嬢ちゃん。ここは一つ勝負というのはどうだい?」
「勝負?」
「あたしが昔飲んだお茶が何か当てるのさ。お前さんは茶のプロだろ、ヒントだけで当てられるんじゃないかい」
「面白そうですね。挑戦します。どんなお茶ですか?」
「びっくりするような香りの紅茶」
命はきょとんとした顔で首を傾げる。
「へ……? えっと……それはフレーバーティーでは?」
「フレーバーティーじゃないよ。作った人に聞いたから間違いないね。お茶とは思えない香りがしたが、味は美味かったし、不思議とまた飲みたいと思える魅力があるんだけど、一度しか飲めたことがねぇのさ」
「お茶とは思えない香り……」
命は顎に手を当てて、しばらく悩んでから問いかける。
「これ何回まで間違えても良いですか?」
「回答は一回まで。一度でも間違えたらお前さんの負けだよ」
「じゃあ、せめてもう一つヒントを」
「これ以上ヒントはやらねえよ」
「……そんなぁ」
カカカと笑って鈴を膝から降ろして立ち上がる。和綴じの本をトントンと叩いて問いかけた。
「これ、預かっても良いかい? ちょいと気になることがあってね」
「はい。どうぞ。私には読めませんし」
榊は玄関に向かおうとして、壁に掛かった掛け軸に気づく。
「これは? そう古いものじゃないだろ?」
「はい。私の父が若い頃に書いてた絵です。あっそうだ。ここ、署名っぽいんですけど解ります?」
右下の方に筆文字で何か書かれている。崩し字なので命には解らなかった。榊は懐から取り出した黒い万年筆で、メモ帳に「沓己」と書いて命に渡す。
「この字だと思うよ。読み仮名は知らないが。雅号ってのはひねりがあるからね」
「文字が解るだけでも嬉しいです。父に聞きそびれて、ずっと気になってたので。あっ。素敵な万年筆ですね。これ、小さいけど宝石じゃないですか?」
万年筆のキャップのクリップに小さな青い石がついていた。銀色のクリップに青が映えて美しい。榊は一瞬悲しげな目をして、すぐに懐にしまった。
「サファイアだよ……こんな高価な石、あたしはいらないって言ったんだけどね。せっかくの想い出って押し切られちまって」
「ご家族ですか?」
「死んだ女房ですよ」
聞いてはいけないことを聞いてしまっただろうかと、命が逡巡する間に、榊と鈴は帰っていった。
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