8話

 夕暮れに染まる奥多摩を、永久は全力で駆ける。命は振り落とされないように必死にしがみついた。口を開くと舌を噛みそうで、話しかけるのを諦める。永久は険しい山道をぐんぐん登って、茂みの中に飛び込んだ。

 茂みの先は幽世かくりよだった。夕暮れから夜に景色が変わっても、永久は立ち止まらない。川を飛び越え、山を駆け、走り続ける。赤い鳥居が見えてきて、命はやっとどこに行くのかわかった。

 千本鳥居を通り過ぎ、石造りの大きな鳥居の前で永久は止まった。慌てて命が降りると、永久は妖狐の姿に戻る。

「……永久、怒ってる?」

「怒る? どうして僕が命さんに怒るの?」

 永久は真顔でよくわからないと首を傾げる。

「約束を破ったでしょ。幽世かくりよに行くときは、永久と一緒だって」

「ああ……そうか。ずっと、胸のあたりがもやもやしてたけど、これ、怒ってるんだ」

 不思議そうに胸に手を当てて永久は呟いた。

「でも、命さんが約束を破るのは、何か理由があるんでしょ? 僕が悪い?」

「そう、いう……わけじゃ……」

 どう言おうか迷っていると、永久が手を差し出した。

「神社の中で話そう。命さんの話を聞きたいし、僕も話したいことがある」

 永久の手に命の手が重なって、手を繋いだまま階段を上る。長い階段の先には、ご神木がそびえていた。

 命の目から、先を歩く永久の背中しか見えない。だから今、どんな顔して手を引いてるのかわからない。永久の気持ちもわからない。

 荒っぽくここまで連れてきて、怒っているのかと思えば冷静で。その静けさが逆に怖くて。どきどきしながら階段を上る。父に手を引かれて歩いた昔を思いだし、命は不思議な気持ちになった。

 ご神木の前まできて、永久は手を離した。二人で石の上に座る。

「聞かせて。どうして、過去に行ったのか」

 静かに淡々と問いかけられて、命も落ち着いて説明した。

「事情は解った。でも、どうして僕を連れて行かないのか。その理由が解らない」

「だって、犬が嫌いでしょう?」

「犬は嫌いだけど、命さんの安全の方がずっと大事だよ。それくらい我慢できる」

「お、怒るかと思って。あやかしの手伝いをしようとすると、いつも永久は怒るから」

 まるで子供の言い訳のようで、命は恥ずかしくなって俯いた。するとはぁとため息が聞こえてくる。

「命さんがあやかしに肩入れするのは良くないと思う。でも命さんがやりたいなら、僕は止められない。今までだって、そうだったでしょ?」

「そ、そうだったわね」

 いつだって止められて。でも最終的に永久は折れていた。それを想い出すとなおさら恥ずかしい。

「僕の知らない所で命さんが危ない目にあうくらいなら、僕に手伝わせてほしい。僕はあやかしの先生なんだから」

「ほんとうにごめんなさい。今度からちゃんと言うから……」

 教師に叱られた生徒のように、うなだれてしまう。永久の顔を見ようと、頭をあげたら、急に抱きしめられた。

「怖かった……命さんが二人いて、幽世かくりよに行ったんだって気づいて、命さんが大丈夫なのか、解らなくて。びっくりして。怖くて」

 ぎゅっと抱きしめられ、胸に顔を押しつけられてるから、顔が見えない。でも永久の体が震えているから、だいぶ心配をかけたのだと解って、命は申し訳なくなった。

「心配かけてごめんなさい。びっくりしたから、狐になったの?」

「……びっくりして、怖くて、早く命さんと二人きりになりたかった。ここなら誰も来ないから」

 無理矢理背に乗せられて、何の説明もなしに連れてこられ、命のほうこそびっくりした。それが自分のせいだと解ると申し訳なさでいたたまれない。

「心配してくれてありがとう。もう、大丈夫だから」

 命がぽんぽんと背を叩くと、やっと腕を緩めてくれた。

「僕が、きちんと説明しなかったから、命さんに伝わらなかったんだね」

「説明?」

「どうして、幽世かくりよに行ってはいけないか」

幽世かくりよにはあやかしがたくさんいて、危ないからでしょう?」

「それもある。でも、それだけじゃない」

 永久は命から目を逸らし、ご神木を見上げてぽつりぽつりと話し始める。

「とうこはね、未来から来た人間だったんだよ」

「とうこ……ああ、あの家の前の住人ね。未来から来たの?」

「そう。幽世かくりよに迷い込んで。常世とこよに戻ろうと彷徨って、出口を間違えた。とうこが戻ったのは百三十年前の常世とこよだったんだ」

「百三十年前?」

幽世かくりよにはたくさん、常世とこよへの穴がある。それは色んな年代に繋がっていて、間違えればどの時代に行くかも解らない。そして、一度過去にいったら、もう戻れない。幽世かくりよの穴は過去にしか繋がらない」

 永久は命を見下ろして、まるで子供に言い聞かせるように、穏やかに説明を続ける。

「とうこには家族がいた。友達がいた。でも、会いたくても、もう会えない。未来には帰れない。天寿を全うするその日まで、とうこはずっと家族を想い続けた。命さんだって、一歩間違えれば、そうなっていたかもしれないんだよ」

「そ、んな……」

 思わず命は服の裾をぎゅっと掴んだ。想像する。大昔に放り出されて、二度とこの時代に戻ってこれなくなった自分。考えただけでゾッとする。

「命さんと二度と会えなくなるかもしれない。そう考えただけで、僕は、怖かった」

「……ごめんなさい。本当に、私が悪かったわ」

 命が謝ると、永久はぺこりと頭を下げた。

「僕もごめん」

「え……?」

「どうして、命さんが怒ったのか考えたんだ。僕にとってあの犬は死んでもかまわないものだったけど、命さんにとっては大事だったんだね。こんな無茶するくらい」

 きゅっと命の手を握りしめて、永久はじっと命の目を覗き込んだ。

「命さんが大事なもの、僕も大事にするように頑張る。だから、もう僕をおいていかないでね」

「もうおいていかないわ。ごめんなさい」

 荒々しく駆けた永久の怒りが、震えてしがみつく永久の悲しみが、命の中にじわじわとしみこんで、深い後悔が押し寄せる。

 命の頬を風が撫で、ご神木の枝が揺れる。群青にも紫紺にも揺らめく不思議な空を見上げると、月が煌々と輝く。

 幽世かくりよに風が吹くのか。そんな当たり前のことに、今さら気づいて、ふいに命は冷静になった。

 永久は何かを隠してる。

 それが気になって、永久を信じ切れなかったから、黙って幽世かくりよに行こうとしてしまった。

 けれど永久が命を心から大切にしてくれているのは確かだ。痛いほど抱きしめて、震えるほどに、失いたくないと思ってくれたのだ。

 その思いを、今は信じよう。

「……まいっか」

 命は簪を引き抜いて握りしめる。

「これ、ありがとう。とても助かったわ」

「命さんを守れてよかった。でも、これを過信しないでね」

「心配してくれてありがとう。ふふっ、なんだかお父さんに怒られたみたい」

「命さんが望むなら、僕がお父さんになっても良いよ」

 じっと覗き込む永久の瞳が本気に見えて、命は一瞬息を飲んで首を横に振った。

「ううん。お父さんが帰ってきたとき、二人いたら困るでしょ。永久はペットでいいわ」

「……うん。じゃあ、僕は君のぺっとだね」

 その時、少しだけ永久が寂しげに見えた。どうしてなのか命には解らない。

 でも、今はそれでいい。

 永久が本気で心配してくれた。それだけで、満ち足りた気がした。

 まるで失った家族を取り戻したように。

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