6話

 氷雨が案内した幽世かくりよに続く穴は、人気の少ない山道の先にあった。木の裏に隠れた穴の向こうに、あの不思議な空間が広がっていて、みことは入るのに少し勇気が必要だった。頭から簪を引き抜いて握りしめる。

「永久に内緒で幽世かくりよに行くのに、これに頼るなんてズルいかもしれないわね」

「それ、永久がくれたものなん? それはええね。うちより永久のほうが、ずっと強いんよ」

「そうなの?」

「永久より強いあやかし、うちは知らないんよ。……永久はなんだかおかしなとこ、いっぱいあって、うちにもようわからん」

「よく解らないって?」

「あの家に縛られてる、奥多摩から出られないっていうんよ。それおかしいわ。うちも鈴も弱いあやかしやけど、電車に乗って立川でも新宿でも行けるんよ。でも永久は『青梅より先に行かれない』って、変やん」

 あやかしがあやかしを「変」という。そこに命は違和感を感じた。永久は人間から見ても、あやかしから見ても特殊な存在で。永久は何か隠しごとをしているのだ。

 永久が隠しごとをしてるなら、自分が黙って幽世かくりよへ行ってもいいのではないか。そう思ったらためらいが薄れた。

「ごめん……永久」

 簪を握りしめ、片手は氷雨と手を繋いで、命は幽世かくりよへ一歩踏み込んだ。


 二度目に訪れた幽世かくりよの空は、群青にも紫紺にも揺らめいて、相変わらず不思議だった。幽世かくりよの闇に潜む視線や気配が恐ろしく、思わず簪をぎゅっと握りしめる。すると気配が少し弱まった気がした。

「凄いんね、それ。あやかしが怯えてるわ」

「そうなの?」

 簪の先にある、狐の玉が柔らかく光る。そういえば常世とこよで見ても、これはあまり光らない。幽世かくりよでだけ特殊な力が出せて、光るのだろうか。

「でも、急がないかんね。怯えて様子見してるあやかしが寄ってくると、いかんわ」

 ぎゅっと命の手を引いて、氷雨は歩き出す。

 行先を知っているのは氷雨だから、手を引かれて後に続く。幽世かくりよ常世とこよの奥多摩に似ているようで、違う。電車も駅もなく、遠くに見える家もずいぶん古めかしい茅葺き屋根だ。

 道の途中で、いきなり道が途絶えた。まるで見えない壁ができたように先が見通せない。

「ぬりかべ! そこどいてや!」

 氷雨が叫ぶと唇から吹雪が舞い飛ぶ。その寒さに凍えたように空気が歪んで消えた。気づくと目の前に道がまた戻って来た。

「あれもあやかしなの?」

「そや。急ぐで。もっと恐ろしいのに追いつかれたら、うち、かなわん。絶対、命をあの人の元へ届けるんや」

 急ぎ足で歩く途中、命は急に何かにつまずいて転びそうになった。足下を見たら犬のようなあやかしがいた。

「『すねこすり』や。夜道で人を転ばすんよ。きいつけや」

「そんなしょうもない、あやかしもいるのね」

 氷雨はすねこすりに、威嚇するように吹雪を放つと、慌てて逃げていった。

 凍えそうなほどに寒いのに、不思議と握る氷雨の手はどんどん温かくなってきた。氷雨がぜーぜーと荒い呼吸を吐き出す。

「大丈夫?」

「……だいじょう、ぶ、やない。せやけど、うちが命に無理いうたんや。絶対守らなあかんやろ」

 氷雨は必死にがむしゃらに前へ前へと進み続ける。楠原も命も思いやる氷雨は、あやかしだから人間とは違うとは思えなかった。

 人とあやかしは理解しあえるのかもしれない。永久ともわかりあえると良いなと、命は願った。

 山道を歩き通して、大きな木の洞の前にやってくる。

「ここや、ここ。ここだけ一週間前に繋がってるんよ」

「ここだけ?」

「そうなんよ。幽世かくりよはほんと変な所で、間違えて入ると、常世とこよでも、大変な目に合うから気ぃつけなあかんよ」

 そう言いながら、氷雨はぐっと命の手を引いて、洞の中に飛びこんだ。

 するとぱっと景色が移り変わった。先ほどまで闇夜だったのに、お日様が照らす昼間に出た。遠目に電車は走っているし、大きな橋も見える。

「……奥多摩だ」

「そら、そうや。ほな、あの人のうちに、いくで……」

 氷雨の声は弱々しく、足どりもおぼつかない。

「大丈夫?」

「あはは、あかん。ちょっと力使いすぎたわ。暑うて、敵わん」

 握りしめる手は確かに熱くて、まるで風邪でも引いてるようだ。歩かせるのも忍びないと、命は背を向けてしゃがんだ。

「さあ、背にのって。負ぶってあげる。家は解らないから案内してね」

「……ありがとぅな……」

 背負うと息はぜーぜーと荒く、首に巻き付く手も震えていた。何とか道を聞き取り楠原の家まで歩いていく。幸い誰ともすれ違わなかった。もし他の人間に見られていたら、命は変なポーズで歩いてるように見えただろう。

 平屋の一戸建てに辿り着き、チャイムを鳴らした。表札には『楠原』と書いてあるし、家は間違いないのだろうが、本当に一週間前なのか、まだ命は半信半疑だった。

『はい。どなたですか』

「あかしやの葛城です」

『あかしやさん? ……どうぞ、お入りください』

 玄関を開けて楠原さんが迎え入れてくれた。

「どうしたんです? 家の場所お知らせしてましたっけ?」

「いや、この近くの人に聞いて。楠原さんにお話があったので」

「話?」

 もし、一週間前ならズンちゃんは生きてるはず。でも死んでいたら話題に出すのも申し訳ない。どうしようと迷っていると、奥の部屋で「きゃん」と鳴く声がした。

「珍しいな。最近あんまり鳴かないのに」

「ズンちゃんですか?」

「はい。そうですよ」

 ズンちゃんが生きている……本当に一週間前なのか。驚きながら呼吸を整えた。

「楠原さん。良かったら一緒に御嶽神社に行きませんか? ペット祈祷に行きたいんですよね」

「ええ……あれ? 葛城さんにその話、しましたっけ?」

 しまった。話を聞く前だったかと焦ったが、慌てて言い訳をひねり出す。

「いえ、私が御嶽神社の話を榊先生に聞いて。あかしやの常連で民俗学の先生なんですが」

「そんな凄い人が常連なんですか」

 あの三人で話をする前なのだ。命は落ち着いてさらに言いつのる。

「あの神社は結構歩くのが大変だと聞いて、楠原さんも一人だと大変かなと思って。天空の集落とか、御師さんに興味があるから私も行ってみたいし。良かったら一緒にどうかなと思って。急に押しかけてすみません」

 楠原さんは穏やかに微笑んで頷いた。

「いや、それはありがたい。一人で登って、ズンちゃんを連れて帰れなかったらどうしようと心配だったんですが、二人なら心強い」

「じゃあ、準備して今から行かれますか?」

「今から? ……それは構いませんが」

「今日、ちょうど臨時休業で。明日から店をあけないといけないので。急ですみません」

 永久に見つかったら怒られるかもしれないという思いが、今日中に解決しないとと命を焦らせる。

「わかりました。出かける準備をしましょう」

「お邪魔します」

 玄関から上がってリビングに通される。ズンちゃんのお出かけセットを準備し始めた楠原に命は声をかける。

「楠原さんの家にお茶の葉はありますか? いただきたいのですが」

「ええっと……もらい物があったような。あかしやさんに行くようになって、あまり家で飲んでないので、残ってるはず」

 戸棚の奥から取り出した茶筒を受け取って、中身を確認した。緑色でつやつやしていて細い。一口つまんでぱくりと食べる。

「お茶の葉を食べるんですか?」

「ちょっと味見に。これ、浅蒸し煎茶ですね。ちょうど良い。もし良ければ御岳山の上でお茶飲みませんか?」

「それは良いですね。葛城さんに淹れて貰えるなら美味しそうだ。ああ、わたしは着替えてきますので、少し待っててください」

 楠原さんがリビングを出て行ったのを確認して、声をかける。

「氷雨。いるでしょう。こっちに来て」

 よろよろと歩きながら、廊下の奥から氷雨が歩いてきた。

「その調子じゃ御嶽神社まで一緒に行くのは無理ね。少し休んだらよくなる?」

「力を使いすぎただけや。ここで休めば大丈夫なんよ」

「そう。なら、これから私は楠原さんとズンちゃんと御嶽神社に行ってくる。夕方までには帰ってくるから、帰ってきた時にあの氷水出しのお茶淹れてね」

「このお茶で淹れてええの?」

 氷雨が茶筒を手に取って問いかけると、命はにこりと笑った。

「浅蒸し煎茶は氷水出しに向いてるから大丈夫。楠原さんに飲んでもらいましょう」

「それはええな。ありがとうな」

 山の上で飲む分だけ茶葉を分けて、わかしたお湯を水筒に詰めた。楠原さんはキャリーバッグを持ってくる。

「電車やバスの中はズンちゃんにこれに入って貰います」

「ああ、なるほど。公共交通機関に乗るには必要ですよね」

 こうして二人と一匹の日帰り旅は始まった。


 奥多摩駅から御嶽駅まで電車で五駅。乗車時間は十六分ほど。その間、ズンちゃんは鳴くことも暴れることもなく、キャリーバッグの中で大人しくしていた。

「良い子ですね」

「ええ、いつも病院につれて行く時も、怖がらないでくれるので助かります」

 御嶽駅を出て左に曲がるとすぐにバス停が見えた。バスに乗って、ロープウェイ乗り場を目指す。バスの中からでも、少しづつ山を登り始めているのがわかった。

 ケーブルカーの駅までバスで十分。バス停からケーブルカー乗り場まで、非常に急な坂があり、ここだけでも体力がない人は息があがるだろう。駅のすぐ側に滝があり、水しぶきが聞こえるのが癒やしだ。

 駅につくと、次のケーブルカーは三十分後だった。待ってる間に楠原さんは、ズンちゃんをキャリーバッグから出す。

「ケーブルカーの中ではキャリーバッグじゃなくて良いんですか?」

「ここのケーブルカーはペット共有乗り場があるので、そこなら大丈夫です。他にも犬を連れた人がいるでしょう?」

 見れば他にも大型犬を連れたご夫婦がいた。ズンちゃんと大型犬の目があって、喧嘩になるかと思えば、どちらもお行儀良くしている。

「良い子ですね。ペット祈祷ですか?」

「はい。そちらも?」

 愛犬家同士で話が弾む間、命はケーブルカーの切符を買って、ついでに土産物屋を眺めた。山葵の佃煮のように奥多摩でも手に入る定番品もあれば、ワンちゃん専用クッキーまである。思わずズンちゃん用に買ってしまった。

 ズンちゃんのためにここまで必死に来た。でもケーブルカーで山に登るのは旅行気分で、命はちょっと楽しくなってきていた。

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