5話
楠原と一緒に御嶽神社に行こうと約束した日。雨が降った。
「梅雨の始まりかしら? 雨の中で山に行くのは向いてないわよね」
「梅雨が終われば夏が来る。暑くなってからのほうが、大変じゃないかな? いくら山とはいえ、暑い日差しを浴びると辛いし」
「それもそうねぇ」
雨の平日となると、客はほぼ来ない。来るとしても榊くらいだろうと思いつつ店を開ける。しばらくして楠原が一人でやってきた。
「あれ? 楠原さん。珍しいですね。ズンちゃんがいないなんて」
「うん……そうだね。何かお茶を淹れて貰えないかな。焙じ茶以外の温かいお茶がいいな」
「それも珍しいですね。焙じ茶、飽きちゃいました」
「そうではないけど……ここで毎日焙じ茶を飲んだから、思いだして悲しくなりそうで」
そう語る楠原の表情は優れず、思い詰めた雰囲気があった。ちらりと外を見ると、ガラス戸の向こうで、雨に濡れながら氷雨がじっとこちらを見ている。その姿はまるで泣いているかのようだ。
二人の様子がおかしい気がして、どう切り出したものか悩みながら、宇治茶を淹れてだした。
温かいお茶を一口飲み、ふぅ……と息を吐いて、ぽつりと楠原は言った。
「ズンちゃんは、虹の向こうに行ってしまったんだ」
「え……」
言葉を無くした命を見て、楠原は寂しげに語る。
「覚悟はしてたんだよ。ズンちゃんは年寄りだし。それに飼い犬を看取るのはこれが初めてじゃない。……覚悟してても、堪えるね」
「そうなんですか?」
「どうしてペットを飼う人は、子犬や子猫を飼いたがるんだと思う?」
「それは……可愛いから」
「うん。もちろんそれもある。でもズンちゃんは小型犬だから、老犬でも可愛いよね」
「そうですね」
ズンちゃんは円らな瞳のポメラニアンで、とても老犬とは思えない愛らしさがあった。
「きっとね、子供の方が、より長く一緒に生きられるからだと思うんだ。年寄りを引き取って可愛がって、すぐ死なれたら、辛いでしょう?」
「それは……そう、ですね」
「だからね。年老いてから主人を失ったペットは、行き場がないんだよ」
ペットをおいて、人間が先に死ぬことはよくある。だが主人を失った老犬を引き取る人は少ない。
「可哀想だからね、老犬ばかり預かるようになったんだ。だからわたしは、いままで何度も、死を見送ってきたんですよ」
「……それは、凄いですね。辛いでしょう」
「辛いよ。でも、今まではまだ耐えられた。寿命で死ぬ子は、だいたい少しづつ弱っていく。食事の量が減ったり、散歩したがらなくなったり。ああ、この子はそろそろお迎えが近いなって。少しづつわたしも心構えを作ってね。でも、ズンちゃんは違った」
震える手で茶碗を包んで、そっと茶を飲んで目を細める。
「息を引き取る前日まで、盛り盛り食べて、お散歩して。これだけ元気ならまだ大丈夫。そう、油断してしまったのですよ。馬鹿ですね。わたしは」
必死に笑おうとして、涙をこらえる楠原の背があまりに寂しくて、命はかける言葉を失った。
「もっと早く御嶽神社に行っておけばよかったな。ご祈祷してもらったら、長生きしたかな。いや、変わらないかもしれない。でも、自分ができることは全部やった。そう思えたら、こんなに後悔はしないだろうね」
そこまで言い切って、お茶をぐいっと飲み干した。
「ごちそうさま。お勘定お願いします。今度から、店内で飲むよ。もうしばらく、一人で過ごしたいからね」
「……ありがとうございました」
楠原に何も言えないまま見送って、命は唇を噛みしめた。その時、ぽつりと永久がいった。
「だから、犬は嫌いだ。早く死ぬ」
「永久……? どういうこと? まるでズンちゃんが死ぬのが解ってたみたいに……」
「死期が近い動物って何となく解るんだ。黒い影みたいなものが見えるから」
あまりにも平然と死を語るので、思わず命は憤った。
「どうして……教えてくれなかったの?」
「知ったところで、どうしようもないでしょう? 命さんが悲しむだけで」
「でも、楠原さんは! もし、それを知ってたら……死ぬ前にできることをやりきれたのに」
「楠原? ああ、僕、命さん以外の人間は、どうでもいいから」
永久はまるで天気の話をするように、何の感情もわかない顔で言った。それがあまりに腹立たしくて、命は思わずどんとテーブルを叩いてしまった。
「……出て行って。しばらく顔を見たくない」
「どうしたの? 何で怒ってるの? ……よくわからないけど、命さんがそういうなら、出かけるね」
本当に自分の何が悪いのか解らないようだ。悪気ない子供のような顔で、永久は家を出て行った。
永久がいない店内はひどく静かだった。BGMに流しているボサノバと、空気をかき混ぜるファンの音だけが聞こえる。
命は無性に癒しが欲しくなって、ふわふわと浮かぶケセランパサランを捕まえてみた。手の平サイズの毛玉は、想像以上にふかふかで、触ってるだけで癒される。
気づくと管狐が足元で見上げている。心配してくれてるのかと思い、嬉しくてつい抱っこしてしまった。
「君たちは良いわね。何もしゃべらないし、表情も変わらない」
永久をペットと呼んでいたけれど、泣いたり、笑ったり、あんなに表情が変わって。子供のようだったり、大人びてみたり。
「ペットじゃないわよね」
永久も人に似た感情を持ってる、そう思ってた。でもあやかしは、やはり物の考え方が違うのだ。そのズレにいちいち怒ってもしょうが無いのだろうか。
ため息をつきながら管狐をぎゅぎゅっと抱きしめていたら、扉が開く音がして、榊がやって来た。
「何してるんだい。おやまぁ? 狐はいねぇのかい?」
雨でも着物姿で、しっとり湿った髪を撫でる姿が、ひどく色っぽい。雨雫が落ちる傘を、傘立てに入れて、眉間にシワを寄せている。
「何かあったようだね。お前さんにしちゃぁ、珍しく暗い顔だよ」
「ええ、まあ……」
ぽつぽつと、楠原のこと、永久のこと、氷雨のことを話す。榊は懐からとりだした扇子を振りながら、ただ黙って聞いた。
「なるほどね……狐がやけに突っかかってくるのは、あたしが苛めたせいかとも思ってたけどね。それだけじゃなかったんだろうよ」
「それだけじゃない?」
「年寄りはすぐ死ぬだろ? 犬っころとたいして変わらんよ。あの狐は死んでも未練を残さないように、すぐ死ぬ奴とは情を深めたくないんじゃないかい?」
その言葉がずしんと重く響いて、命は重くため息をこぼした。
「もう今日は店をたたんじまいな。そんな顔で客の前にたてるんかい? あたしも帰るよ」
「すみません……まだ、何も出してないのに」
「いいよ。代わりに、今度鈴が一人で来た時に、なんか食わしてやってくれや」
傘を持ち上げて、視線を落とす。雨雫がぽたりと落ちるのを見ながら、榊は言った。
「ペットと死に別れるのは、可哀想だよなぁ。あたしはその点幸せだよ。鈴は猫又、あたしより長生きしてくれるからねぇ」
榊を見送った後、店じまいをしながら考える。榊の言葉は命の心の奥底に、深く突き刺さった。
「……永久は私を置いて死なない。そこに安心してる私がいる」
命はずっとペットが欲しいと思っていた。けれど飼ったことはない。ペットの寿命は短くて、自分を置いて死んでしまうから。これ以上家族を失うのは怖かったから。
でも、永久はあやかしだから、簡単に死なない。そういう安心感で「ペットがいい」と言っていたのではないだろうか? それは逆に永久にはとても残酷なことじゃないだろうか。永久は必ず命の死を看取る。
命以外の人間はどうでもいい。その言葉に苛立ったが、永久にとって己を守るために、大切な人間を増やさない。防衛本能かもしれない。
こんこんと戸を叩く音がして、命は顔をあげた。ガラス戸の向こうで、氷雨がぐっと唇を噛みしめている。引き戸を開けて招き入れると、白い顔が、いつも以上に青白くまるで死人のようだった。
「……命に迷惑をかけられへん。そう思ってたんやけど。どうしても、諦めきれへんねん。なあ……助けてくれへん?」
「助けてって……もしかして楠原さんのこと?」
「せや。あの犬が死んでから、ずっと塞ぎ込んで見てられないんよ。今まで何度も犬が死ぬの見送ってきたのに、あんなに落ち込むの初めてやわ。何度も『もっと早く御嶽神社に行っておけばよかった』って言うんよ」
「そうね。私も、もっと早く一緒に行ってあげたらって思ったわ」
「なあ、それ、過去に戻って叶えてあげられへん?」
「過去に戻る?」
「せや。
「ええ。永久に連れられて」
「うち、
氷雨の言うことはもっともに聞こえた。過去に戻ってやり直す。それはとても魅力的だが、気がかりがあった。
「……永久に、
「せやったら、うちが
氷雨にすがりつかれて、命はだいぶ悩んだが、渋々頷いた。過去に行っても一週間くらいならバレないだろう。永久には黙っておくことにした。
「案内してくれる?」
「ありがとぅな。命」
氷雨は涙を拭って微笑んだ。
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